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ふびんや 41 「闇坂 くらやみざか Ⅴ」

ーーー実は、これは僕の祖母の嫁入り道具だったものなんです。ええ、「ふびんや」さんに仕立て直しをお願いしたあの羽裏の持ち主が祖父で、その奥さんってことになりますね。

もう遠い昔の話ですから、僕も両親から聞いた話でしかないんですけれども、祖母は、遡ればやんごとない、けっこう家柄のよい家から嫁いてきたそうで、この人形は祖母が輿入れの際に持ってきた自分自身のものらしいです。

雛人形って娘が生まれたときに母親の実家が用意するものですから、これも相当古いものだと思いますが、物はいいはずです。だって、こんなに傷んでいてもどこか品がありますよね。

祖父は僕が小学校の低学年のときに亡くなりました。けっこう長生きだったんです。ま、明治の男でしたからね、実業家だったんですが、唯我独尊っていうんでしょうか、好きなように生きたひとでしたからストレスがなかったんでしょうね。

だけど祖母のことは、僕はまったく知らなかったんです。早くにこの家で亡くなったものと勝手に思い込んでいました。祖父母の事情を知ったのは僕の父の晩年です。それもかなり病状が進んでいて手の施しようがなくなったと告知された病床で、直接父の口から聞きました。

医師が残していった言葉で動揺している僕に、父はなにかを打ち明けるというふうでもなく、病室の白い天井を見つめながら独り言のように語り始めました。

「ああ、なにをしていてもこんな日が来るんだな。死は実に平等だ。逃れようもない」

そのとき僕はまだ若くて、観念としては理解できても実感としてはわかりようがなくて、ただうつむいてその言葉を噛み締めました。

「心残りがあるか、と問われれば、ない、と答えたいが、わたしはそんな悟りきった人間じゃない。この腹のなかにはガンといっしょに山ほどの後悔と未練がうごめいているよ。ああもこうもしたかったってね…・・・そう、わたしは君の未来にもう少し関わっていたかったよ」

父が中年になってから生まれたひとりっこである僕は、その当時、まだ何者にもなっていなかったので、僕の将来を案じていたのでしょう。

「・・・・・・おとうさん」

父は祖父と違って激することのない静かなひとでした。あまり言葉数が多くはないので、親子で向き合って話す機会は少なかったと思います。だから、父は言葉にしない分、たくさんの思いを飲み込んできたのでしょうね。

しばらく押し黙ったあと、父は僕のほうに顔を向けて言いました。

「君にはおばあさんのことを何も言ってこなかった。君は気づいていないかもしれないが、我が家におばあさんの位牌はない。お墓にもおばあさんの名前はないんだ……」

初めて聞く話でした。驚く僕に、父は自分が小学校に上がる前に両親は離婚していたのだと告げました。祖母はわが子である父をこの家に置いて実家へ帰らされたのだ、と。

「離婚の理由はなんだったの?」

「小さかったわたしにわかりようはなかったけど、親戚のひとは母親の姦通が原因だと言っていた。おとこを作って出て行ったって。戦前のことだから警察沙汰にすれば、逮捕されるところだけれど、それだけは免じて、離婚することになったらしかった」

そんなスキャンダルがあったなんて、僕はショックを受けました。

「…・・・ほんとうにそういうことがあったの?」

「そんなのは藪の中の話で、なにが嘘か真実か、わかったもんじゃない。どれも伝聞や推測の域を出ないのだけれど、そのあとの父親の暮らしぶりを見ていると、自分に都合のいいようにでっちあげた話なんじゃないかって思ったりもした」

「そうだったんだ・・・・・・でも、おとうさん、まだ小さかったのにね。辛かったでしょう」

「母親が自分を置いて実家へ帰るとわかったときの情けない思いは今も消えない。自分もいっしょに連れて行ってほしかったよ……どんな事情があったとしても、母親に置き去りにされるなんていう現実は子どもには耐え難いものだよ」

そう言って父は顔を起こしてまた天井を睨みました。そのとき皺のよった目じりに涙がこぼれ、こめかみを伝っていきました。それは僕がはじめて見た父の涙だったかもしれません。そんなふうにして互いの手を離してしまった父と祖母がこの世でふたたび会うことはなかったそうです。

「そのあとおじいさんは再婚しなかったんだね」

「ああ、のびのびと自由に遊んでいた。自分の築いた財産を分散したくなかったんだろうな、と後になって思ったよ。跡取りはわたしひとりいればいいって思ったんだろうね」

「でも、よそに隠し子がいたかもしれないじゃない」

「それが……どういえばいいのか……父親の相手はおんなのひとじゃなかったから、そういう心配はなかったんだよ」

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️