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ラルフのためいき 10「テルⅠ」

きいっちゃんが道場に入るようになったのは、最初は拭き掃除のためだった。道場にかよってる子供たちと並んで、道場の端から端までいっせいに雑巾掛けしたんだ。

あれは圧巻さ。何人くらいだったかなあ。十人あまりの子がさヨーイドンで拭き掃除するのさ。みんな勝ちたいからさ、必死でスピード上げて道場をすべるように雑巾掛けするんだもん。あわてすぎて、ぺたんってのびちゃう子もいたな。きいっちゃんも何回かやってた。てれくさそうな顔してたよ。

みんなでやれば早く終わるし、達成感ってのもいっしょに味わえるって寸法さ。なんていうのかなあ、言葉じゃなくても肩をぶつけ合うようなことで、不思議にわかりあえちゃうってことあるんだな。かえって言葉がないほうが、誤解がないって気もする。

道場の掃除を終えたあと、みんなでなんか食べるんだよ。蒸かし芋だったり、スイカだったり、とうもろこしや枝豆のこともあった。樹菜ちゃんが作ってくれるおにぎりやおしるこのときもあったな。

あれはけっこう争奪戦で、最初きいっちゃんは慣れてないもんで、いつも手を出すのが最後で大きいものが取れなかったんだけどさ、だんだん要領覚えてくると、さすがじいさんの孫だね、大きいのをせしめるようになったんだ。

そういうのってさ、オイラたちの生きてく基本だからね。しかし、まあオイラはきいっちゃんのそばで、ねこみたいに可愛がられて、野性ってもんからはずいぶん遠いところにいるんだって思うとため息が出たさ。

今日のメシにありつくために苦労することがないっていうありがたさは身にしみているんだけどさ、だけど、自分の身体の奥底にはそれでいいのか?っていう思いがさ、いつもあるんだ。

じいさんがやってる剣道だってさ、昔は武士ってのがいてさ、そいつらは戦うのが仕事で、あるじを守るために剣を持ってたわけでさ。たくさんひとを殺したやつが生き残って強い武士になって、どんなふうに戦うかを教えるのが剣道ってのになったわけなんだよな。

平和な時代になると、精神のあり方とか体を鍛えるとかいう、スポーツってのになってるんだけどさ、もともとのことを思えばさ、人間に備わっている戦いの本能みたいなもんを研ぎ澄ますもんだよな。

けど、道場で竹刀をあわせてると、なんとなくだけど、お互いの思いみたいなもんが伝わってくることがあるらしいんだ。そこいらが人間臭いもんなんだってさ。

なんてむずかしいことを言う犬だろうって、驚くだろう? 散歩してるとき、土門が樹菜ちゃんにそんなことを話してたんだ。こりゃあデートじゃないなあって思うよな。きいっちゃんも聞いてたんだけど、わかったどうかわかんないよ。

道場に来てる子に、テルってのがいるんだ。年はきいっちゃんと同い年なんだ。色白で小柄でさ、おとなしそうな顔つきで、まあ、パッと見は全然目立たないんだ。でも、きいっちゃんは掃除をしてるうちにその子となんとなく仲良くなったんだ。

だって、きいっちゃん、しゃべらないし、テルも口数の少ない子だからさ、ふたりがことさらに接近したなんてことはないんだけど、たとえば蒸かし芋をいっしょに食べるときとか、並んでいるふたりの間の空気みたいなものが、だんだんやわらかくなってきたんだ。

きいっちゃんが蒸かし芋の残りをオイラに持ってきてくれたとき、テルがついてきたんだ。きいっちゃんが言葉をかけたわけじゃないと思うけど、テルはそういうのが雰囲気でわかるようになってたんだな。きいっちゃんがオイラのことを撫で回すと、テルも同じようにするんだ。

「ヨシヨシ、レン、おまえ、ちっとも大きくならないなあ。しっかり食べてるのか?」なんてチビのテルが言うんだ。おまえに言われたくないぞ! オイラはそういう犬種なんだ。おまえこそ早く大きくなれ。なんて言い返してやりたかったけど、ワンというしかないんだなあ。

しかし、オイラを撫でるテルの手の逞しかったこと。こいつ、見かけとはすいぶんちがうな、って思ったもんさ。テルは幼稚園のときから道場に通ってるから、かなり鍛えられてるんだ。

小さいときから筋肉がついて、背か伸びないってこともあるらしいから、そういうのかもしれないな。いや、あとでぐぐっと伸びる人種だと思っていたほうが、夢があっていいな。

あるとき、きいっちゃんがめずらしくみんなが稽古中の道場に入ったことがあるんだ。たぶんじいさんに用があったんだと思うけど、何気なく入ってきて、きいっちゃんはその雰囲気に気圧されたんだ。

なにしろ掛け声がすごいもんな。驚きながらもきいっちゃんは目でテルを探した。胴着の垂れにそれぞれの名前が白く書かれてある。きいっちゃんはテルの苗字を探した。

見つけた小さな剣士はその身よりはるかに大きな相手に立ち向かっていた。悲鳴のような掛け声をかけあいながらふたりは間合いを計っていた。と、きいっちゃんが見ている前で、テルはひと声あげて、すばやい踏み込みで相手の面を打ち、その横をすり抜けていった。あっという間のことだったが見事に決まった一本だった。

きいっちゃんはその姿に圧倒された。いつも言葉少なく穏やかに笑っているテルの思いがけない勇姿にきいっちゃんはイカレちゃったんだ。カッコイイーって思ったわけさ。ま、それもそのはずさ。テルは鵠沼の牛若丸って呼ばれてるほどの子だからさ。


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