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ラルフのためいき 9「きいっちゃんⅢ」

「ひやー、もうー、やだー、レンちゃんたらー」と樹菜ちゃんの黄色い声が風呂場に響く。「こらこら、レン、おとなしくしてろ」とじいさんも文句を垂れる

あのね、オイラだって好きで洗われてるわけじゃないんだからさ、フルフルってふるっちゃうさ。知らないだろうけど、濡れた毛ってのは気持ちの悪いもんなんだぜ。まったく石鹸まみれになるわ、お湯かけられるわ、「いえいぬ」になるのも大変さ。そういえば、朱鷺さんにもよくやられたなあ。

その顛末を風呂場の入り口できいっちゃんがかがんだ膝にヒジを乗せ、両の手で頬杖ついておもしろそうに眺めている。そのきいっちゃんをセンセイがじっと見つめている。

「喜市もやってみるか?」とじいさんが声をかける。オイオイ、まだ洗うのか?きいっちゃんはセンセイを振り返る。センセイは一瞬複雑そうな表情になる。

さっきもそうだったけど、きいっちゃんは自分がなにかをしようとするとき、誰かの許しが必要だって思ってるみたいなんだ。センセイは、きいっちゃんにずっと、そんな思いをさせてたのかって気づいて、せつなかったんじゃないかな。

話せないってことがきいっちゃんをそうさせてるのかもしれないけど、そんな子供は不自由でつらいな。子供と犬はわがまますぎるくらいがちょうどいいんだろうな。少しずつ調整していけばいいんだ。一足飛びにお利口になる必要はないんだよな。

「やりたいかい、喜市?」センセイがそう訊ねると、きいっちゃんは大きく頷いた。

オイオイ・・・。

オイラはまたまた石鹸まみれになって、ゴシゴシ、ジャバジャバの憂き目にあったのさ。お返しにおもいっきり、フルフルしてやったさ。そしたらきいっちゃんが笑顔になった。声は出なかったけどね。

それからはもうオイラはひがな一日、きいっちゃんといっしょさ。そう、朱鷺さんの晩年とおんなじ感じさ。鵠沼のじいさんちでぴったり寄り添うみたいにいっしょに暮らしたわけさ。

きいっちゃんはじいさんに言われるままにだんだんに家事をやり始めたんだ。といってもまだまだ小さいからさ、できることってのはたかが知れてるけど、いっしょにおつかいにいって荷物持ちしたり、表の水道で野菜を洗ったり、茶碗運びしたり、大根や生姜をおろしたりしたわけさ。

はたきかけや拭き掃除もできるようになって、そのたんびにじいさんや樹菜ちゃんに褒められてさ、きいっちゃんはうれしそうな顔するわけさ。

いつからか、オイラを風呂に入れるのはきいっちゃんの仕事になってさ、いくらオイラがフルフルしても、きいっちゃん、動じなくなったんだよな。だんだん手際が良くなっていくのをオイラは実感したね。こっちもそのほうがありがたいから、せいぜい協力したさ。

夕方の散歩にはときどき土門もいっしょにきて、浜辺できいっちゃんのこと肩車したりしたんだ。最初ははずかしそうにしててきいっちゃんも、たのしみにするようになったみたいだ。

オイラも良く感じることだけど、視線の高さってさ、普通に歩いてるときと抱っこされて道を行くときじゃあ、全然ちがうんだよ。そんなときって、オイラは他の犬を見下ろしているわけさ。歩いてる大型犬の背中なんか見ちゃうわけさ。オイラは小型犬だからさ、そういうの、普通は一生見ないわけさ。

つまり、見えるものがちがうんだ。海だって、すっごく遠い沖のほうの船までみえちゃうんだ。きいっちゃんはきっと土門の背中でさ、今まで歩きながらは、見たことないもん見てたって思う。

そういうのってさ、やってみないとわかんなくてさ、そういう自分以外のひとの目の高さでものを見てみるとさ、なんていうのかな、まあ、自分の大きさって意識するもんじゃないかい?

きいっちゃんはさ、ほんとはちいさくてさ、おとなと同じこと考えなくてもいいんだってわかったらさ、楽になるんじゃないかなって思ったもんさ。


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