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ざつぼくりん 1 「雑木林Ⅰ」

「雑木林」と書いて「ざつぼくりん」と読ませる。そんな名前の古書専門店が小さな海辺の町の駅前にある。

しかし、町のほとんどのひとはその字をそう読むとは夢にも思わない。店主のカンさんは懇意になったひとだけにこっそりその呼び名を明かす。

「なんでそんな漢字テストの珍回答のような名前にしたんですか」と時生が聞くと、カンさんは毛のない頭をつるりと撫でて、さてね、と真顔で答える。

もう少し懇意にならないとそのわけは教えてもらえないらしいと絹子は思う。

駅前にあるというのに古書店「雑木林」の佇まいはまことに古い。いったいいつからそこにあったのだろうと絹子は思うが、「そういわれてみれば、なんだかずっと昔からそこにあったようだ」と近所の人は言う。

昭和のはじめに建てられたらしい庶民的な木造二階建ての一軒家は、駅前のモダンな建物たちのあわいで、どこか輪郭をにじませて、そこにある。

カンさんは古書の世界ではけっこう知られたひとなのだ、とは時生の弁だが、その家が古書店「雑木林」になったのはそう古いことではないらしい。

それが証拠に木戸があるその家をまさか古書店とは気づかず、うかうかと通り過ぎてしまう人の多いこと。誰ぞに紹介されたのか、メモを手にした真面目そうなひとが、まるであやかしに騙されているかのように、きょときょととその家の周りをうろついている姿を絹子は見たことがある。

この店の木戸にはときどき妙な木札がかかっている。にょろにょろっとしたカンさんの筆文字でなにやらあやしい文句が書いてある。

「ちょっと無間地獄へいってきます」なんて札の日もあれば「閻魔大王に呼ばれまして」だの「終日、極楽浄土におりますので」なんて日もある。はじめてそれを見たひとは、木戸の前でおおいにひるむ。ひるんでしりもちをつきそうになったりする。

いずれにしろそういう札がかかっている日にカンさんはひとに会わない。そういう休業お知らせの札なのだが、これが存外、まるっきりの門外漢を入れない「ふるい」になっているみたいだよと時生は解説する。

そういわれてみれば、ここで出会うひとは数少ないが、一味違う感じがする。いわば山菜みたいな感じだ。ちょっとクセがあって、なじむのに手間隙はかかるし、歯ごたえも十分すぎたりするのだが、だんだんとしみてくる味わいが病みつきになる、とでも言えば通じるだろうか。

木札のない日に門をくぐっていき、セイタカアワダチソウやヒメジョオンやその他大勢の端役雑草に取り囲まれた家本体を見ると、なんとまあ、むさくるしい、と、どのひとも思う。

ささくれだった板塀や窓枠などどこをみても手入れが行き届かない物悲しさがあり、まるでおいてけぼりにされて途方にくれる老人に心ならずも出会ってしまったような気分になる。

玄関につづく小さな飛び石を歩くうちに漂ってくる、かびたような湿気の匂いがそんな思いを誘う。建付けの悪い引き戸をあけると、その思いはますます濃くなる。

狭い玄関に足を入れると、こぶりの二宮金次郎像が薪を背負いこちらを向いて本を読んでいる。たいがいのひとはここで一瞬ぎょっとして、首を傾げる。

しかしここの金次郎の表情は思わせぶりにやわらかい。上機嫌の金次郎とでも呼びたくなる。だじゃれのひとつも口にしそうな金次郎だ.

靴を脱いでその金次郎の頭に手を置いてひょいとあがりかまちに上がると、そこからもう本の山が連なっている。

よく見れば、江戸時代の和綴じの本などが無造作に積んであるのがわかる。廊下にもその本の山が続き、それが矢印のようになって部屋へ案内される。  

ふた間続きの部屋のなかも推して知るべし、本の山だ。なにしろ本棚に入りきらない。古い額だの掛け軸などもある。

まあ、その品揃えの奥深さがカンさんの恐るべき実力なのだ、と時生は得意げだが、それはちっとも売れてないということではないのか、と絹子は案じる。
わきから庭のほうへ回ることもできる。晴れた日にはこちらのルートを行く客も多い。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️