見出し画像

真夏のクレバス

真夏のクレバス――小説、
 虚士(きょし)が小学3年(昭和33年)の真夏に悲しい出来事がありました。
夏休みの昼過ぎ、満ち潮で自宅下の平瀬(ひらせ)に繋留してある小舟は干潟に海水が満ちて動かせる状態にありました。
 
 虚士の兄で小学6年の修一(しゅういち)は4才の弟、伸三郎(しんざぶろう)の面倒を見るように母に言いつけられていて、二人で平瀬で遊んでいました。
 そこへ、同じ畑田部落の小学5年の誠龍(せいりゅう)君が、5才の弟飛龍(ひりゅう)君を連れて平瀬にやってきました。
 
 4人は、満ちてくる海中に魚を見つけたり、瀬でヤドカリをいじったりして遊んでいましたが、すぐに飽きてしましました。すると誠龍君が、「おりげん船でそこら辺を廻ってみゅうかい!」(私の家の船で、そこら辺を廻って遊ぼう!)と言ってきたので、退屈していた修一は渡りに船とばかり、平瀬に繋留してあった手漕ぎ船を引き寄せ、3人が乗ったのを見届け、とも綱の金具を石垣から外し自分も飛び乗りました。
 
 誠龍君はすぐにアンカー縄をたぐり、イカリを引き上げました。水深は1m程しかなかったので、艪を使うまでもなく、船首で誠龍君が竹竿で方向を調整し、船尾で修一が竹竿を差し推進して行きました。
 この頃の少年は逞しく、特に5年生から4km程離れた本校の深海(ふかみ)小学校に通学するようになり、一段と逞しくなります。手漕ぎ船の操船も習得します。船を動かす事自体が楽しかったりしました。
 
 近くの船溜まりを巡り、海中の魚を眺め、伸三郎と飛龍君も冷たく感じる海水を手ですくい楽しそうに遊んでいました。
 一時間も経っただろうか、小学校浅海(あさみ)分校の近くを遊覧していると、子供達だけで操船しているのを見つけて、びっくりした分校長先生が波止場の上から呼び止め、修一と誠龍君に分校まで来るように言いました。
 
 二人は分校の生徒ではなく面識はありませんが、以前の学び舎の先生が言っているので、仕方なく船を分校近くの船溜まりに繋留して、叱られるのを覚悟して、しょんぼり下船しました。伸三郎と飛龍君は繋留した海面上の船に残したままです。
 
 分校長先生は大学卒業してまだ間もなく、教育への情熱にあふれた先生でした。当時としては最新技術の粋であるテレビ、テープレコーダーを授業に取り入れ、児童達へ興味を促し、地域にも溶け込み浅海集落で父兄、児童を交えて集落を二分して、東西ソフトボール大会等を開いたりして、村民からも慕われる存在でした。
 
 修一と誠龍君の二人が分校まで歩いて行くと、分校長先生は待っていて、「どこの船か?、親の許可はもらってあるのか?、子供だけで大丈夫か?」の質問をしました。二人はしょんぼりして謝るだけでした。その時の先生の頭の中から、船内には他に二人の幼児がいたことはすっかり抜け落ちていました。
 その間30分程度の事でしたが、そこにクレバスがありました。
 
 修一と誠龍君は気分を少し取り直して、先生にも付き添われ船に戻りました。船上を見渡すと、伸三郎がぽつんと立っていますが、飛龍君の姿が見えません。修一が慌てて「飛龍はどこにおっと」と尋ねると、伸三郎が「うみんなきゃーしっちゃいけた!」(海に落ちてしまった!)と言って泣き出してしまいました。
 
 それから、先生、誠龍君と修一は必死で海中を探すが見つける事ができません。近くの数人の大人に助けを求め、やっと海底に沈んでいる飛龍君を見つけ引き上げましたが、すでに心肺は停止していました。
 
 虚士は飛龍君を良く知っていて、一緒に遊んだ事もあったように思います。悲報を聞きつけて、飛龍君の自宅へ行ってみました。庭には人だかりができていて、家の中では数人の大人が人工呼吸をしたり、囲炉裏で火を焚いて瓶壺の中にいれて身体を温めたりしていました。
 それを随分長い間見ていたら、虚士はそれまでに味わった事のない、言いようのない虚しさが漂ってくるのを感じました。

  終わり
(この話は実話に基づいていますが、細部の記憶が怪しいので”小説”としました)

当時の虚子少年の生活圏


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?