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ハードボイルド書店員日記【139】

「あのエリアの本、返さないよね?」

梅雨の合い間の平日。束の間の平穏。やがて新潮文庫の100冊やナツコミ、施設が催す夏のイベントも始まる。学生たちは襟元と口調を砕けさせ、外国人観光客はスマイルと2000円札を振りまき、連日がウィークエンドへ化ける。だからいまのうちにHPとMPを節約する。尤も凪のタイミングで重大な事故が起きやすいのは世の常であり、結局は年中気が休まらない。

返品する本をダンボールへ詰める。もうすぐ棚卸なのだ。大量の書籍を抱えて売り場とバックヤードを往復する。声に振り向く。語学書及び学参担当の男性だ。私と同世代でほぼ同期。青い折り畳みコンテナに入った補充分を棚に差している。

「もちろん」「安心したよ」マスクの下に笑顔が広がる。禅に興味があるらしい。私が吟味し、コーナーに1冊ずつ差している本を頻繁に購入してくれていた。「鈴木大拙、また何か入れてくれる?」「先週注文した」「ありがとう」「気に入るかどうかわからないけど」「大丈夫。本は気に入るかどうかじゃない。いまの自分に必要か否かだから」こういう人に選び取ってもらえるのは書店員冥利に尽きる。

昼食時が近づいてきた。レジカウンターのベルは叩かれない。ワンオペでどうにか回っている。私の仕事はほぼ終わったが、彼の荷物は大量に残っていた。赤本の最新版がそろそろ入ってきている。「手伝おうか?」「助かるよ。そろそろ返品を作らないといけなくて」ウチの店の場合、一部の語学書と多くの学習参考書は版元からの直仕入れか、もしくは他とは異なる取次を介している。つまり他の書籍と一緒に返せない。データ読み込みと書類の作成が必要なケースもあり、なかなか手間なのだ。

「夏休みはドリルとかもよく売れるから大変だな」「そうだね。まあぼくの仕事は棚に出したり抜いたりすることで、発注の権限はないんだけど」「表向きはな」正式な責任者は店長だ。しかし忙しいのでアルバイトの彼が多くを代行している。「このまま戦国大名みたいに守護から権限を奪うのも悪くないぜ」「信長みたく? そんな器じゃないよ。君こそ正社員になればいい」「お互い欲がないな」「それは違うね。出世していまより少しだけいい給料をもらい、ずっと多くの業に塗れる。そういう生活を避けたい欲が人一倍強いんだから」彼が正しいかもしれない。

7割ほど出し終えた。「さすがに疲れたよ」「そろそろ休憩だな」「最近はランチを済ませたら寝ちゃうんだ。本を読みたいのに」「禅の専門書は仕事の昼休みには向かない気がする」「そんなことないよ。まあでもいまはリラックスできるやつがいいな。深く考えないでいいけど適度に知的みたいな」目で訴えてくる。「思い当たる節はある」「だと信じてたよ」青くて分厚い数学の参考書をコンテナへ戻し、文庫の棚へ向かう。

「あった」新潮文庫の村上春樹「ランゲルハンス島の午後」を手渡す。「薄いね」「110ページぐらいかな? 安西水丸さんの絵のページもけっこうある」「彼のイラストは好きだよ。まさに穏やかな休日の午後を体現している」「俺はただただゆるい、頭を空っぽにしてくれるとしか思わないけど」「君は真面目過ぎるんだよ。毎日本を開いて何かしら書いて」「鈴木大拙を読み込んでいる人に言われても」「だからこそだよ。勤勉なのもいいけどさ、人生の一面は暇潰しなんだ。もっと非生産的な時間を満喫したい。この本のイラストを眺めていたらそんな気がしてきたね」水丸さんも罪な人だ。私は彼の描く水色と緑に乳酸を分解してもらっている。

パラパラ捲って頷く。「いいね。何かいい。栄養価が高そうで低そうで、やっぱり隠してそうなジャンクフード」「わかりそうで意味不明なたとえだ」「君の好きなページはどこ?」「87ページかな」こんな一文がある。

「普通の状況であれば絶対に降りることのないであろう小さな駅で降りて、そこにある小さな町を何の目的もなくただぶらぶら歩くというのもとても気持のいいものだ」

目を見開いている。「いまぼくがこの本と出会ったことそのものじゃないか」「普段はこういうの読まない?」「まったく。村上春樹は『ねじまき鳥』と『アンダーグラウンド』ぐらい」「悪くない?」「だね。今日のお昼は素敵な途中下車になりそう。ブリリアント」拳と拳を突き合わせた。

「さて、じゃぼくは休憩に行くよ。こいつを購入してからね」「俺はもう30分」「あとさ」「ん?」「この本、君も読むといいんじゃないかな」「実はいま読んでる」あの瞬間の表情は傑作だった。非生産的が何よりも生産的。そんな贅沢もまた束の間の平穏だろうか。

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