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ハードボイルド書店員日記㊸

朝から一貫して客足は疎らだ。翌日始まる「ポイントアップキャンペーン」の影響だろう。「朝三暮四」という言葉の意味を経営陣に教えたい。25メートルを潜水し続ける一時間も欠伸を噛み殺してカバーを折る一時間も時給は同じなのだ。

「すいません、これどっちがいいと思いますか?」

黒縁メガネをかけた若い女性がレジに来た。かなりの猫背でTシャツとデニムパンツは黒。同じ色の長い髪を雑なポニーテールで纏めている。おそらく近所にキャンパスのある文学部の学生だ。差し出されたのはサリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「ライ麦畑でつかまえて」の二冊。内容は同じだが訳者が異なる。前者は村上春樹訳、後者は野崎孝訳だ。

「そうですねえ…」カウンターの端にいたバイトが対応する。書店員としてはベテランの域だが、彼の商品知識はエンタメ系の文芸とコミックに偏っている。「後に出た村上春樹訳の方が読み易いと思われます」無難な回答だ。女性は「ありがとうございます」と笑顔を返し、二冊を持って中央のレジにいる私のところへ来た。「すいません、これどっちがいいと思いますか?」

「サリンジャーお好きですか?」「はい」「『ナイン・ストーリーズ』は読まれました?」「何度も」「どなたの訳で」「柴田さんです。家にあったのがそれなので」「ヴィレッジブックスですね」「よくご存じで」柴田元幸さんは春樹さんの翻訳面におけるメンター的存在である。

「野崎訳のものはお持ちですか?」「いえ。同じ本を二冊買うのはもったいないですから」「少々お待ち下さいませ」私は文庫・新書の棚に向かい、野崎訳の新潮文庫「ナイン・ストーリーズ」ともう一冊を手に取る。

女性がページを捲り目次を見る。「タイトルが全然違いますね」「最初の話は柴田訳では『バナナフィッシュ日和』野崎訳では『バナナフィッシュにうってつけの日』です。五つ目は柴田訳では『ディンギーで』野崎訳は『小舟のほとりで』となります」軽く頷いて「バナナフィッシュに~」を黙読した。ぱらぱらとお客さんが週刊誌や文庫を買いに来る。端のレジでバイトが対応してくれた。

「時代を感じますね」本を閉じて顔を上げた。目尻に好意的な皺。ついマスクの下を想像したくなる。「たとえばここです。柴田訳では『海に入るの、もっと鏡見る?』というセリフの後半にシー・モア・グラースというルビが付いていました。野崎さんのは『水に入らないの、モット・カガミ・ミテチャン』この言い方はなんか古臭い。でも戦後間もない頃に出た短編集だから、むしろこれが正解かもしれないと思いました」こういうお客さんは大歓迎だ。こちらも本気を出せる。

「この本には柴田さんの翻訳へのこだわりが書かれています。すでにお持ちかもしれませんが、よろしければ」文春新書の「翻訳夜話」を見せた。「こんな本があるんですね」「レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの同じ作品を春樹さんと柴田さんが訳しています。その違いも面白いですよ」「中を見てもいいですか?」「どうぞ」

三冊全て買ってくれた。「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」「さすが○○書店さんは違いますね。勉強になりました」新品の長靴を履いた子どもみたいな足取りを見えなくなるまで見送った。

文庫・新書担当が品出しからレジに戻ってきた。彼女を呼び止め、PCのキーを叩いて「この本、入れた方がいいよ」と告げた。「何でですか?」「いま『キャッチャー』と『ライ麦畑』と一緒にこれの第一弾が売れた。次は必ずこれを探しに来る」同じ文春新書の「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」だ。「たしかに。文庫になったばかりの『本当の翻訳の話をしよう』も一緒に置きましょうか」「いいアイデアだ」

「先輩、書店員って感じっすね」一部始終を見ていたバイトが笑う。下の前歯に黒いものが付着している。シー・モア・グラースと腹の中でつぶやいた。

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