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ハードボイルド書店員日記【65】

昼休み。テナント従業員用の休憩室で食事を済ませ、本を読む。12時を過ぎると席が埋まってきた。誰かがテレビをつける。相変わらず恐怖を煽るニュースばかりだ。スマートフォンにイヤーポッズを差し込み、音楽プレイリストを呼び出す。

「すいません、いいですか?」左隣に契約社員の女性が来た。基本的にここでは同僚から離れて座る。相手が異性ならなおさらだ。でも他が空いていないなら仕方ない。「いいよ」「ありがとうございます」礼を言われることではない。

数十分後、食事を終えた(どうやら自前の弁当だった)彼女から頬に視線を感じた。そろそろプレイリストの再生が終わる。目で「何か?」と尋ねる。「何読んでるんですか?」カバーを外した。ちくま新書「現代語訳 学問のすすめ」が姿を見せる。訳者は齋藤孝だ。

「それ他社のカバーですよね。宣伝になるからウチのを掛けて読めって先日役員の方が」「ウチで買ったわけじゃないから」「でも」「言質も取った。『業務としての指示ですか?』って突っ込んだら『そういうわけじゃない』と」眼鏡の奥の細い目が円くなる。「偉い人にそんなこと訊いたんですか?」「この本にも書いてある。『人民は政府の定めた法律を見て不都合だと思うことがあれば、遠慮なくこれを論じて訴えるべきである』と」86ページを開いた。

「書店員なら『学問のすすめ』ぐらい読んでないと恥ずかしいですよね」「なぜ?」「やっぱり定番だし」「定番は各ジャンルに膨大にある。そんなことを気にしていたら、仕事のためにベストセラーを押さえるだけで人生が終わる」「たしかに」「本は読みたくなった時に読めばいい。定番とか仕事とか関係なく。その方が栄養価も高い」「栄養価、ですか」「言葉のあや」「わかります。何かとても腑に落ちました」眼鏡が落ちそうな勢いで頻りに頷いている。真摯と誇張のグラデーションが見て取れた。

「実は私、いまひとつ閃いたんです」「ほう」「ヨシタケシンスケさんのフェアをやってますよね?」彼女は児童書担当の補佐だ。シュリンクを掛け、こまめに棚整理をし、売れ筋の発注もしている。「『それしかないわけないでしょう』って絵本ご存知ですか?」「持ってるよ」「え、ああいうのも読まれるんですか?」「絵本は子どもしか読まない、わけないでしょう」「あはは。私も買いました。大好きです。で、あれの横にさっきの『現代語訳 学問のすすめ』を置いたらいいかなって。『よろしければ大人の方はこちらを』みたいなPOPを付けて」「Amazonの『よく一緒に購入されている商品』みたいなものか」「です。でもこの組み合わせはリアル書店ならではって気がしませんか?」「する」彼女の表情が初日の出みたいに輝いた。「これから相談してみます!」

数日後。開店前の棚整理の際に児童書のフェア台を見た。ヨシタケさんの名作が並ぶ中に↓がしれっと紛れていた。

あくまでも子ども向けの棚、という判断だろう。担当は児童書の売り上げを優先して伸ばさないといけないし、妥協案としては悪くない。齋藤さんが子ども向けにどういうアレンジをしたのか興味がある。読もうかな。でも無意味か。途端に頭の中の哲学プレイリストが再生を始めた。本は読みたくなった時に読めばいい。決めた。ちくま新書の次はこれにしよう。

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