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「知らんけど」と「ロバート」の教え

元々は関西弁だったんですね。

私は「知らんけど」に冷たい響きを感じます。責任は取れないよ、何かあっても俺のせいにするなよ、と。でも関西の人にとっては、そこまで重いニュアンスを伝える語彙ではないのかもしれない。

私が「知らんけど」について考えるきっかけになったのは、2年前に発売されたこちらの本。帯の表紙側に「君たちに足りないのは哲学だよ。知らんけど」とだけ書かれていたのです。

もちろんその前から言葉自体は知っていました。会話や文章の中で用いることもあったはず。でも↑を青山ブックセンターで見掛けたとき、なぜか脳みそに刺さって抜けなくなったのです。

本文中にその表現は出てこなかったと記憶しています。しかし使われていても不思議ではない内容でした。これって控え目に言っても神業ではないでしょうか?(当事者が著者であれ編集者であれ)

読みながら励まされ、大きく頷き、部屋でひとり大笑いし、己の甘さを恥じました。賛同できない点もありましたが、安直な「答え」を与えられるのではなく自分で考えるための「問い」を見つけられた。その実感が残っています。

著者のワタナベアニさんは写真家。noteをやられているおかげで、この記事のトップ画像(という呼び方でいいんでしたっけ?)に作品を使わせていただくことができました。ありがとうございます。

話を戻しましょう。

何の偶然か「ロバート~」を読了したのと同じ時期に見掛けた新日本プロレスのエル・デスペラード選手のツイートにも「知らんけど」が出てきました。たしかベーグルに関する話題です。「腹持ちが良くてカロリーが低いらしい。知らんけど。美味しいから好き」みたいな。

おそらくデスぺ選手はその前から「知らんけど」を使っていたはず。しかし私が注意を払っていなかったため、まったく気に留めなかった。脳みその構造が変わったことで視界に入った。いや、視界に入っていることをようやく知覚できたのでしょう。

何気なく語彙を選ぶ際の傾向。しばしばそこに使用者の嗜好や出自、生きる姿勢が表れる。でも気づけるかどうかは自分次第。たぶん私に足りないのは、他の人が発したちょっとしたフレーズに対する感度です。そこを磨くことが創作におけるキャラクター描写の活性化に繋がるはず。知らんけど。

「ロバート・ツルッパゲ」ともう一度対話してみます。後書きまで二度読んだけど手離さなくて良かった。皆さまもぜひ。

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