「失われた時を求めて」を巡る冒険⑨
↓を読了しました。
全14巻の後半戦へ突入です。
今作の重大なテーマのひとつである「同性愛」が出てきました。
訳者のあとがきによると、小説の舞台となっている19世紀末のフランスでは、同性愛は差別と迫害の対象だったようです。イギリスでは1886年から男性同性愛が非合法とされ、1895年に逮捕されたオスカー・ワイルドは2年間の獄中生活を余儀なくされました。
プルースト自身も公には認めていなかったようですが同性愛者で、それゆえに受けた誹謗が原因でジャン・ロランと決闘をしています。
そんな時代にあえてこのテーマへ踏み込む。ありふれた感想ですが、文学者の矜持と覇気を見た気がします。↓の文章も印象に残りました。
一方で、いわゆる性描写をむやみに扇情的に綴っているわけでもない。筆の抑え方が見事でした。
専門学校で創作を学んでいた頃、詩人の先生はそういう場面を生々しく書くと高く評価してくれました。「曝け出してこそ文学だ」と。他方ライターの先生からは「あからさまに書かず、仄めかして想像させるのも技だよ」というアドバイスをいただきました。
同じ物書きでも文学者とライターでは哲学が異なる。当初はそんな風に捉えていましたが、作家であってもヘミングウェイみたいに省略を重んじる人もいます。氷山の一角のみを物語として描き、大部分は水面下に隠す。それでも読者は理解してくれると。
日本人だと、井伏鱒二も余韻の残し方が巧みです。「山椒魚」を初めて読んだ時は言葉が出ないほどに痺れました。
いま振り返ると、何もかも未熟な学生に創作術を教えるうえでは、詩人の姿勢が正しかった。書けないのと書かないのは違う。恥ずかしがって性描写を避けていたらいつまでも苦手なままだし、適度なさじ加減も身に付かない。まずは一切を曝け出すところからスタートし、徐々に省略の仕方を覚えていく。そういうことだったのでしょう。
プルーストに関していうなら、彼はおそらくこういったバランス感覚を自ずと備えていた。誰に教わるでもなく。さすがです。
もうひとつ。「失われた~」の場合、語り手である「私」は異性愛者の設定です。その彼が同性愛者であるシャルリュスやベルナールの実態を冷静な目で分析する。差別する世間の考え方と差別される側にしかわからぬ悩み、そして当事者ならではの同じ傾向を持つ者への苦言がフェアに共存している。
多数派への感情的な批判や過度の自己正当化とは無縁で、他者のみならず自らの内に潜む闇にも目を向け、なおかつ節度を忘れない。こういう古典に触れると味覚音痴に陥っていた己の実状に気づかされます。薄くても味をしっかり楽しめる。そんな作品を書こうと思った次第です。
なお、全14巻を読むに当たり、ふたつのルールを設けています。
1、1冊読み終えてから次の巻を買う。
2、すべて異なる書店で購入し、各々のブックカバーをかけてもらう。
1巻はリブロ、2巻は神保町ブックセンター、3巻はタロー書房、4巻は大地屋書店、5巻は教文館、6巻は書泉ブックタワー、7巻は丸善、8巻は三省堂書店、そして9巻は↓で購入しました。
「ブックファースト・中野店」です。
初めて足を運びました。素晴らしかったです。広大なフロアに目を惹くフェアの数々。2階のカフェも快適でした。
豊富な在庫と棚作り&本の見せ方の妙。文具や雑貨類も充実している。ある意味で理想的な書店かもしれません。改めて「中野、阿佐ヶ谷、荻窪、吉祥寺といった中央線沿線はいい本屋が多いなあ」と感じました。いつかじっくり回りたいです。
「失われた時を求めて」皆さまもぜひ。