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「未来」はちゃんとここにある

先日、文庫の補充分の品出しをしていました。

その中に↓があって「いまでも売れるんだな」と嬉しくなりました。学生時代に買い、線を引きまくって読み込んだ一冊です。

いまはどうかわかりませんが、かつて「山月記」は国語の教科書に載っていました。ゆえに少なくとも私の世代では、中島敦を知らない人はまずいません。

ただよくよく考えたら、私は彼に対して「『山月記』の作者」というイメージしか持っていないのです。もしくは「北方謙三『史記』に影響を与えたであろう『李陵』を書いた人」。つまり作品の印象だけで作り手に関する知識が何もない。

最近読んだ↓が大きな助けになりました。

まず最初の「マリヤン」にびっくり。舞台がパラオなのです。しかも私小説っぽい。最後の「撰者あとがき」でわかったのですが、中島は実際にパラオ南洋庁に赴任していました。植民地用の国語教科書を作る仕事をしていたようです。

さらに表題作の「かめれおん日記」。エッセイ風の短編です。寒さに弱く、周りの環境に適応できぬカメレオンに喘息に悩む著者自身が投影されていると感じました。ちょうど「山月記」で不遇の詩人・李徴に作家になれない己の鬱屈を託したように。

ちなみに主人公の職業は学校の先生。パラオに行く前の中島もまた、横浜の女学校で教員として働いていました。ウィキペディアによると当時は大変な就職難で、新聞社の入社試験を受けて落ちたとか。

そしてそして。パラオから帰国後に「山月記」「文字禍」が文芸誌に載って賞賛され、「光と風と夢」が芥川賞候補になりました。ついに訪れたブレークチャンス。しかし日本の気候ゆえか喘息発作が悪化し、なんと同じ年の12月に逝去しているのです。33歳の若さで。

とどめのインパクトはやはり「撰者あとがき」から。中島は太宰治や大岡昇平、松本清張らと同い年でした。同あとがきでも触れていますが、太宰がもし中島と同じ年齢で亡くなっていたら「人間失格」や「斜陽」は生まれなかったことになります。

もちろん吉田松陰が「留魂録」で記しているように、若くして亡くなる人にも相応の四季があったはず。高杉晋作、坂本龍馬、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンらがそうであるように。しかし中島の場合は、これらの面々と比べても「燃え尽きた」感が十分ではない印象を受けるのです。

ゆえに「未完の才能」カテゴリーに彼の名を刻みました。樋口一葉やシド・ヴィシャス、レーモン・ラディゲと同じく。光あふれる将来を約束されたはずの連中へ突きつけられた”No Future”という不条理な現実。でも死後何十年も過ぎてなお、作品の輝きは衰えていません。実際売れています。

そう、彼らは「未来」をちゃんと残していたのです。

青春期に目にした「山月記」を、これらの事実を踏まえたうえで再び読まれてみてはどうでしょうか? 意外な味わいを得られるかもしれません。装丁と手触りが秀逸な「かめれおん日記」もぜひ。

「未来は僕らの手の中」私の好きな言葉です。

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