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「失われた時を求めて」を巡る冒険⑦

↓を読了しました。

ヴィルパリジ侯爵夫人のサロン。そこに集った人々の様子をプルーストは冷徹な筆で描き出します。たとえばこのように。

大貴婦人であるということは、大貴婦人を装うことであり、要するに、ある意味では気取りのなさを演じることに尽きる。これはきわめて高くつく演技であって、あれは気取って当然の人だ、つまり、きわめて裕福な人だとみなが承知しているのでなければ、気取らないことが人を魅了するわけはないのである。

「失われた時を求めて6 ゲルマントのほうⅡ」プルースト作 吉川一義訳 岩波文庫 180P

たしかにそういうものかなと感じました。裕福な大貴婦人に限らず。

思春期の頃、女性にまったく関心がない風を装っていたことがあります。硬派に振る舞いつつ、でも内心では彼女たちの目に己の一挙手一投足がどう映っているか気になって仕方なかった。いま思うと、これはまさに「気取りのなさを演じる」ことに他ならず、つまり完全に気取っていたわけです。

少し前、某プロレスラーの「いまの自分は自然体で生きている」みたいなコメントを見て首を傾げました。自然体の人がわざわざそんなことをメディアに吹聴するかなあと。あるいは同じ現象かもしれません。

どうも人の本心や内実は、外に現れる言動や行動とは必ずも一致しないようです。昔の私は「女などどうでもいい」と豪語しつつ、内心はとにかく好かれたかった。いまも「作家デビューは諦めた」みたいなことを書きつつ、ワンチャンあるのではと密かに期待しているかもしれない。そして某レスラーの「自分は自然体」発言は、彼がそうではない事実を逆説的に証明している。

「他人の目なんか気にしない」と口にしたがる人ほど、他人の目に囚われがち。だったらむしろ「いま私は気取りのなさを気取っている」「だって人間だもの。皆さんそうでしょ?」と開き直り、それは己の内心欲求の自然な発露だからやむなしと受け入れる方が前向きかもしれない。そんな気がしました。

なお、全14巻を読むに当たり、ふたつのルールを設けています。

1、1冊読み終えてから次の巻を買う。
2、すべて異なる書店で購入し、各々のブックカバーをかけてもらう。

1巻はリブロ、2巻は神保町ブックセンター、3巻はタロー書房、4巻は大地屋書店、5巻は教文館、6巻は書泉ブックタワー、そして7巻は↓で購入しました。

日本橋にある「丸善 日本橋店」です。

欲しい本がほぼ何でも手に入る大型書店のひとつ。本当は、もう少し後の巻を買う時のために温存しておきたかったです。でも7巻まで来ると置いていない店が多くて。岩波書店の本は基本的に「買い切り」(返品不可)だから仕方ないのかもしれませんが。

あとこちらは複数フロアの大型店ではあるけど、何がどこにあるかわからぬほどは広くない。いわば豊富な在庫と出会い易さがギリギリで共存している。その意味でも重宝しています。

以前にも書きましたが、お越しの際は近くにある↓もぜひ。カレー南蛮が看板メニューですが、私のイチオシは「黒豆納豆そば」です。

「失われた時を求めて」皆さまもぜひ。

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