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ハードボイルド書店員日記【160】

「まだここで続けます?」

繁忙期に入りつつある土曜。売り上げの推移は例年通り。しかし働く人員は年々減っている。まさに「歳歳年々人同じからず」だ。時給が41円上がり、扶養控除内で働くパートが出勤を控える日も増えた。実質賃金は18か月連続でマイナス。末端の声よ、メトロを乗り継いで永田町まで届け。

列が途切れた。砂漠のオアシス。実用書担当の女性がレジでぼやく。有給休暇を取りたかったが「交代人員を探して」と頼まれ、諦めたらしい。「そのつもりだけど」「私は嫌になってきました」「わかるよ」どれだけ耐えても状況は良くならず、むしろ悪化しているのだ。「先輩はいろいろな書店を渡り歩いてますよね?」「まあ」「どこもこんな感じですか?」「チェーン系は似たり寄ったりだな。フロアが複数だとより厳しいはず」「池袋のジュンク堂とか?」「詳しくは知らない。でもレジの人数と棚の充実度を見る限り」「ですよね」

少なくなったカバーを素早く折り、ホッチキスの芯を補充する。師走に入ったらこんな悠長な間は取れない。開店と同時にレジ業務は500メートルの潜水と化す。「○○○○は時給が他よりもいいって聞きました」「あそこはあそこで大変だよ。いまは知らないけど、バイトは4時間レジで立ちっ放しとかザラだった。契約社員も定時で上がれる人はいなかったし」ここは人件費の都合で早出や残業を止められている。どちらがいいかは従業員次第だ。「本屋で働くこと自体、オワコンですよね」適当な返しが見当たらぬ。

「あ、あの」猫背の若い男性がカウンターに来る。初めて見る顔だ。「いらっしゃいませ」しばらく暇だったのに、誰かが並ぶと群れがどっと押し寄せる。日本人あるあるかもしれない。「か、カフカの本は、ど、どこにありますか?」ほう。「少々お待ちくださいませ」レジを離れると彼女に告げ、応援を呼ぶためのベルを鳴らした。

「まず小説はこの辺りに」文庫のコーナーを見せる。角川と新潮、岩波、そして光文社の古典新訳シリーズ。反応が薄い。「変身」に興味がある的なライト層ではなさそうだ。「小説以外でしたらこちらへ」思想・哲学の棚へ案内した。「絶望名人カフカの人生論」などの単行本は、あえて文芸ではなくこちらへ置いている。すでに文庫になっているが単行本も売れる。装丁が内容に相応しいからだろう。

羞恥心を振り払うように左手が伸びる。「カフカはなぜ自殺しなかったのか?」(春秋社)が抜き出された。著者は「絶望名人~」と同じ頭木弘樹(かしらぎひろき)である。「最新の研究が反映された一冊です。カフカの手紙や日記がほぼ時系列に沿って紹介されているのもポイントかと」「そ、そうなんですか」

たとえば、と23ページを開いて見せた。こんな手紙が紹介されている。

「自分の城の中にある、自分でもまだ知らない広間」
「それを開く鍵のような働きが、多くの本にはある」

「た、たしかに」律儀に頷いてくれた。背中こそ丸いが長身でスリム。手足が長く、耳も大きい。穏やかな瞳はアーモンド型で整った眉毛が豊潤。まるで「城」の著者みたいに。「彼の作品でお好きなものは?」「お、『掟の門』とか」己のために用意された門を潜る決断を下せず、いつまでも悩む男の物語。「でしたら」247ページを開く。そこでカフカはこんなことを語っている。

「なんらかの矛盾のなかでのみ、ぼくは生きることができる。もっとも、これは誰でもそうなのだろう」
「人は、生きながら死んでいき、死にながら生きていくのだから」

脳内のどこかで稲妻が煌めく。本が好きで書店員は天職。この情熱を多くの同業者が心の奥で共有している。と同時に、可能なら即辞めて他の職業に就きたいのも切実な本音。矛盾する真情に引き裂かれつつ、我々は薄汚れた川の底を流れる。だが苦悩に悶えながら相反するAとBを止揚し、カフカは傑作を世に遺した。生前はフェアな評価とは無縁だったにせよ。

「あ、ありがとうございます。これいただきます」「こちらこそ」「えっ?」「お買い上げありがとうございます」深々と頭を下げた。

本を読むことでまだ知らない自分の内に潜む広間の鍵が開く。読み終えた本を紹介する行為もよく似た効果をもたらすらしい。

「君はなぜ書店員を辞めなかったのか?」と訊かれたらこの本を勧める。逃げたい本心と向き合いつつ踏み止まる彼女にも。伝えたい。俺たちにはカフカがいる、彼はいつだって味方だと。

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