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「失われた時を求めて」を巡る冒険④

数日前に↓を読了しました。

元・大使のノルポワ侯爵という人が出てきます。いささか保守的とはいえ、海外を渡り歩き、各国の有力者と交際してきたがゆえの知見に富み、様々なジャンルに一家言を持つエリートです。

しかし知らないことや詳しくないことをそうと告白せず、すべてを古い物差しで測ってしまう弱点が少しずつ浮き彫りになってくる。評価の定まった名作には鋭い見解を示すけど、現代作家についてはピントのずれた批評をする。有価証券への推奨も的外れ。文学は社会的課題に応えなくては、みたいな考え方にも賛同できません。

いわゆる「無用の用」という視点を持たない人は、価値観と心が狭い印象を受けます。学生時代に「読書する暇があったらバイトしろ」「小説なんか読んでも仕事の役には立たない」とよく言われました。あの人たちからしたら、給料や地位の向上とダイレクトに繋がらぬ知識など無駄だったのでしょう。

社会の改善に役立つことや実利的要素を意識した文学があってもいい。でもすべてがそれでは息が詰まるし、そういった状況を強いる空気が文壇に満ちていたら、国民の日々の実感とも無縁ではない。

太宰治「惜別」に、こんなセリフが出てきます。

「文芸はその国の反射鏡のようなものですからね。国が真剣に苦しんで努力している時には、その国から、やはりいい文芸が出ているようです。文芸なんて、柔弱男女のもて遊びもので、国家の存廃には何の関係も無いように見えながら、しかし、これが的確に国の力をあらわしているのですからね。無用の用、とでも言うのでしょうか、馬鹿にならんものですよ」

太宰治「惜別」新潮文庫 289P

文学の豊かさ=国が内包する価値観の豊かさ。言い切ることはできませんが可能性は感じます。「惜別」の主人公・魯迅が文芸で国民を啓蒙せんと志すのは、ある意味でノルポワと同じ姿勢。でも他の手段ではなく(魯迅は元々医者を目指していた)文学で、という点こそが肝でしょう。

私が毎週日曜に更新している「ハードボイルド書店員日記」は文学なんてシロモノじゃありません。でも目指す方角は魯迅のそれに近いかもしれない。ノルポワには酷評されるでしょうけど、少なくとも私は書くことで自分自身が救われている。そこを出発点にしないと使命感だけでは続かない。

改めて「己が小説を書く理由」を見直しました。

なお、全14巻を読むに当たり、ふたつのルールを設けています。

1、1冊読み終えてから次の巻を買う。
2、すべて異なる書店で購入し、各々のブックカバーをかけてもらう。

1巻はリブロ、2巻は神保町ブックセンター、3巻はタロー書房、そして4巻は↓で購入しました。

池袋西口にある「文庫ボックス大地屋(おおちや)書店」です。C3出口の斜め向かい。ビルの1階に入っています。

「文庫本専門店」とのことですが、入り口の手前に旅行ガイドや雑誌のコーナーがあります。店内にも少しだけ単行本が置かれていました。本だけの本屋は静かで落ち着きますね。

創業は大正12年。続いてほしいです。いつか私が本を出し、文庫になる日が来たらこちらで買わせてください。

「失われた時を求めて」皆さまもぜひ。

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