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ハラスメント防止についてのあれこれ

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理想の稽古場とハラスメント防止についてのあれこれ、についての記事です。
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記事一覧

法律を越えて自由を抑制することへの疑念と、「若者よごめん」てな言葉が帯びる欺瞞について。

法律を越えて自由を抑制することへの疑念と、「若者よごめん」てな言葉が帯びる欺瞞について。

2022年10月07日のツイートより

近年の演劇界のハラスメント防止にまつわる議論に対して、僕が特に疑問を抱いているのは、先輩は後輩に○○してはならない、といったハラスメント規約が明らかに法律を越えた禁止、すなわち自由の抑制を含んでいる場合に関してだ。恋愛禁止などもそうだが、その、本来保障されるべき個人の自由を抑圧している権力の主体は何なのか? 誰なのか? 

仮にその権力を振るうのが劇団の主宰

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望まない行為を強要される喜びについて

望まない行為を強要される喜びについて

2022年12月10日のツイートより

近頃またあれこれと舞台を拝見していて思うのだが、俳優というのは本当にいろんなことを求められる仕事だ。泣いたり叫んだり、半裸になったり全裸になったり、暴力行為、罵倒、土下座…。どれも舞台の上ではよくあることだが、そんなことが「よくある」とされる仕事は本当に特殊なものだ。

ある俳優は役柄の発する差別的な発言をしなければいけないかもしれない。根っからのリベラリス

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演出家から「処罰」の権限を奪うこと、あるいは「帰りの会」という実験

演出家から「処罰」の権限を奪うこと、あるいは「帰りの会」という実験

2023年03月12日のツイートより

さて。『天国への登り方』の本番が近づいてきた。ハラスメントについての議論を今回、座組でも劇団会議でもかなりの時間を割いて行った。いや、行い続けている、というべきか。僕が割りと既存のハラスメント防止のための議論を全肯定するのは危険だなあ、と思う性質なので、劇団としても時間をかけ、独自の取り組みをさせてもらっている。

最近、導入してこれは画期的だな、と思ってい

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どういう規約がいいんだか。

どういう規約がいいんだか。

2023年6月23日のツイートより

ハラスメント関連の諸問題について、ここ数年、なんとか劇団としての理念を文章化したいと行動しているんですが達成できておりません…。内部的にはコンプラ委員の設置や、「帰りの会」実施など、自分たちなりの独自の取組を実行してきたのですが、理念を公開、という段階に至れずでして…。ただ、今夏にはなんらかの形にしたいな、と思っております。既に様々な劇場/団体、個人がハラスメ

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ネットにおけるハラスメント告発と、広田のプチ炎上について

ネットにおけるハラスメント告発と、広田のプチ炎上について


まえがき

僕は先日、ここ最近にあったいくつかのハラスメント事案の告発とその反響に対して、自分の思うところをtweetしました。それに対して複数の方からご批判を頂戴し、複数の方にご不快の念を抱かせる結果となってしまいました。僕の投稿に賛意を示してくださった方にも何とも申し訳なく、また、ご批判に対する僕の応答も含め、全体として建設的な議論になるどころか却って無用な混乱を招く結果になってしまい、大変

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自由とハラスメントについてのモロモロ

自由とハラスメントについてのモロモロ

近年、ハラスメントについて様々な団体がガイドラインを定めており、そのうちのいくつかは広く一般に公開されている。そういった業界の流れは非常にいいことであると思うし、これまで見過ごされてきたハラスメントの問題が少なくとも議論の俎上にあがるようになったことだけでも大きな進歩といえるだろう。ただ、僕個人としては現在、流布されつつある共通認識に対して違和感を覚えることも多い。それも片言隻句について微妙なズレ

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内面化された差別問題。

内面化された差別問題。

差別の問題を考える際によく、図らずも傷つけてしまった発言なのか、意図的な差別なのか、ということが問題にされているように感じます。言い換えれば「過失や失言としての差別」なのか「差別感情に基づくもの」なのか、という問題。当然、後者の方がより悪質性が高いものと判断されるわけです。

「内面化された差別意識と向き合う」というような表現に出くわすこともしばしばあります。勿論、大枠として自らの言動、行動を省み

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私たちは、crime(犯罪)を避けられるかもしれないが、sin(罪)からは逃れられない。

私たちは、crime(犯罪)を避けられるかもしれないが、sin(罪)からは逃れられない。

私たちは、crime(犯罪)を避けられるかもしれないが、sin(罪)からは逃れられない。また、私たちは「悪」を避けることはできるかもしれないが、「業」からは逃れられない。中島岳志さんの本を読んでいてそんなことをふと思う。

そもそも、落語(芸事)とは業の肯定であり(立川談志)、文学とは、九十九匹のための政治の言葉では救われぬ逸れた一匹のためのものではなかったか(福田恆存)。

そんなことを前提とし

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