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日本の麦酒歴史ができてから ❻

麦酒伝道師を目指しています重富です。
しつこく(笑)映画ができてからを書き綴っています。その準備で過去の写真を見返しながら、あんなことがあったな、あの人元気かな?そんな振り返りの時間になっています。コロナで昨年の休業中は「youtuber」になってビールチャンネルを制作しつづけましたが、今回は「日本の麦酒歴史」三昧です。

【過去投稿】日本の麦酒歴史ができるまで                開拓使麦酒仕立て 番外編 できてから     

日本の麦酒歴史ができてから 2019年 その1

2019年が始まりました。 重富は酒屋です。日本青年会議所に「酒類部会」があります。毎年新年互礼会が京都で開催されます。過去に1回参加したことがあるのですが。今年は「松尾大社」参拝というオプションがありました。松尾大社とは、お酒の神様です。

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きちんと神殿で商売繁盛、業界発展、麦酒への感謝をさせて頂きました。
その後は、料亭で新年会なのですが、ここで失礼して京都御所に向かいます。なぜ京都御所なのかと言いますと。

大久保利通が最初の麦酒をどこで飲んだのか?

映画の中で、誕生した麦酒を、東京から京都に転送し時の内務卿大久保利通が飲むシーンが出てきます。これが、大久保の自宅だったのではないかと仮定し、その場所を訪れたのです。

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ネットで調べると、大久保利通の自宅は御所のそばにあるようです。タクシーで御所まで行き、今は住宅街になっている場所で探します。最近はアプリで道案内してくれるので大助かりですが、イマイチ重富の把握理解力が足りません。なんどか辺りをグルグル回って(不審者と思われたかも)見つけました!

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今は、石碑だけが立っています。周りの自宅を写さないようにアップです。
明治10年、大久保はここ自宅で麦酒を飲んだのでしょうか?

実際には、大久保は飲んでいないのです。そのあたりは映画をご参照ください。noteでは、飲んだ場所として進めますのでご了承ください
大久保利通が麦酒を飲むシーンは27分頃からです ⇧

徒歩数分の場所に「門」があります

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大久保は、この門を潜って、御所や新政府の執務室に出かけたと思われます。執務室もおそらくこの壁の中にあったであろうと思います。麒麟が来るで、塀が壊れているのを織田信長が修復した…のはこの壁でしょうか?

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NHK麒麟が来るより⇧

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大久保が最初の麦酒を飲んだ場所は

➊御所 ➋執務室 ➌自宅

この重富の疑問を解決するために、京都に訪れたのです。地元のブルワリーの知人に聞いてみましたが…わからないとの事。それは当然の事ですよね…

他にも京都に関する案内所的なところに聞いてみたのですが、どなたもわかりません。ここなら知っているだろうとびあけん事務局に伺ったところ…ここでも解りませんと。

いろいろ調べを進めるにつれて、わかってきたことがありました。
大久保利通が京都に住んでいた時期です。

1869年 明治天皇が東京にお移りになる
 その3年前です
1866年 この年まで大久保利通が京都(石碑の場所)に住んでいた
     ※東京に住んでいる
1877年 出来上がったばかりの麦酒を大久保は京都で飲む(どこ?)

てっきり、新政府は京都だと勘違いしていました(重富は世界史専攻だった)では、麦酒が誕生した1877年に大久保は京都にいた事になっています。
何故京都にいたのか?

1877年に何が起こったかを調べてみます。

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西南戦争です

調べを進めると、このような記事を見つけました

大久保利通は、
明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した

大久保は確かに京都で麦酒を飲んでいます。それは盟友西郷隆盛との闘い「西南戦争」の最中。どのような気持ちで麦酒を飲んだのか?映画の撮影時はこの史実を知りませんでした。 もし、この史実を知っていたなら、麦酒を飲む大久保のシーンのセリフの気持ちが全く違っていたモノになったはずです。おそらく大久保利通が最初に麦酒を飲んだのは、西南戦争の指揮をした部屋でしょう。

今日はここまでです

明治10年8月西南戦争の最中「第1回勧業博覧会」が大久保の提唱で開催されています。この博覧会に「札幌冷製麦酒」が5本出品されています。
その後同年9月に初売り出しされますが売り出しではなく「払下げ」という官用語が使用されています。この言葉からも、この麦酒が日本政府の威信をかけた麦酒だということが伺えるのではないでしょうか…