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掌エッセイ

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心に水を。日々のあれこれを随筆や掌編に。ほどよく更新。
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#ショートショート

【掌編】最後のライブ

【掌編】最後のライブ

デンジャラス・マッドの4人は頭を抱えていた。

決まらないのだ。解散ライブのセトリが。ロックに捧げた35年のキャリアの中でアルバムにして20枚、延べ300曲以上の時に激しく、時に優しいロックンロールを世に届けてきた。その中から、わずか20曲を選び出すのは容易なことではない。

とりわけ、アンコールの最後を締めくくる曲──言わば“マッドベイブ”(注:ファンのこと)たちと踊るラストワルツ──はバンドの

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【掌編】チャダ子の夏

【掌編】チャダ子の夏

腕が鳴るわ、とチャダ子は意気込んだ。

“映えスポット”としてウェーイ系に人気のキャンプ場から少し離れた、森の奥の古井戸のなかで、積年の怨念──あまりに長いこと恨みすぎて、そもそも何を恨んでいたのか忘れてしまったが──を一年かけて増幅させながら、夏の始まりを待ち続けていたのだ。

慣れた動きで四つん這いになり、蜘蛛のように古井戸の壁を駆け上がって外へ出る。そして思った──

あっつ。外あっつ。何こ

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【掌編】遅れてきたバス

【掌編】遅れてきたバス

「くそっ、十分前かよ!」と、私は毒づいた。

バスの話だ。ほんの十分の差で、最終バスに間に合わなかった。

そこは陸の孤島めいた高台の住宅街で、時刻を考えると、タクシーは簡単には捕まりそうもない。だめもとで愛用の配車アプリを開くと、到着まで三十分という表示が出た。

三十分もここで無為に待つくらいなら、駅まで歩くか。コロナ禍で運動不足が極まっているし、ちょうどいい機会だ。

そう腹を決めて駅の方向

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【掌編】最後の宅配

【掌編】最後の宅配

ピンポーン。呼び鈴が鳴った。
もう一回。さらにもう一回。

書斎でパソコンに向き合っていた私は、くそ、と毒づいた。せっかく筆が乗ってきたとこなのに。こっちは締切に追われてんだよ。

ピンポーン。
締切のことなど意に介さず、無情にも四度目の呼び鈴が鳴る。私は特盛りのため息を漏らして重い腰をあげ、書斎から廊下へと出た。

そして五回目のピンポンが鳴り響く頃、インターホンの前へと滑り込んで「通話」ボタン

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【掌編】スマホの顔認証

【掌編】スマホの顔認証

なんだよ、とおれは軽く気色ばんだ。

反応しないのだ。スマホの生体認証が。おれの顔が。だからログインできない。困るなあ、スマホくん。今からツイッタを開いて、仕事のあとの優雅なリラックスタイムを過ごそうとしていたんですけど。

そこでハッと思い至る──メガネか。

そう、おれはメガネを掛けていた。最近の生体認証システムは、なんならマスクだって意に介さず、登録された顔を正しく認識してみせるそうだ。だっ

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【掌編】チャンス君

【掌編】チャンス君

数年ぶりに会ったチャンス君は、ひどく面変わりしていて、以前のあの、こちらのどんより曇った心を優しい光で塗り替えていくような、人懐こくて尊い笑顔はすっかり消え落ちていた。

それは抜け殻だった。内外からのあらゆる感情に疲れ果て、すべてを諦めた人の顔だった。絶望と虚無に塗りたくられた顔だった。

「チャンス君、どうしたんだい?」

変わり果てたチャンス君に、私はたまらず声をかけた。数年前、モラトリアム

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【掌編】気がまわるやつ

【掌編】気がまわるやつ

田中(仮名)は昔から、よく気がまわるやつだった。

「一度きりの人生っていうだろ」

突然呼び出された先のファミレスで、私がくすんだオレンジ色のビニール張りのボックス席の向かいに座ると、田中はそれでスイッチが入ったように勝手にしゃべり始めた。

「あれ、嘘だわ」

田中はそう言うと、学生の頃から使っているブルーのリュックに手を突っ込み、何かをつかんでテーブルの上にどんと置いた。

「こちら、こけ橋

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【掌編】存在感

【掌編】存在感

エレベーターが止まった。四階で。

妙である。わが家は七階にあるから自分では四階のボタンを押していないし、七階以外のボタンがオレンジ色に光っていた記憶も、覚えている限りではない。

もちろん、乗っているのは私だけ。他には誰も見当たらない。億劫そうにドアが開いたエレベーターに、誰かが乗り込んでくる気配もない。

蛍光灯が頼りなく照らす廊下は静まり返っている。

そこで考える──忘れ物か。つまり四階に

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