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【掌編】チャダ子の夏

腕が鳴るわ、とチャダ子は意気込んだ。

“映えスポット”としてウェーイ系に人気のキャンプ場から少し離れた、森の奥の古井戸のなかで、積年の怨念──あまりに長いこと恨みすぎて、そもそも何を恨んでいたのか忘れてしまったが──を一年かけて増幅させながら、夏の始まりを待ち続けていたのだ。

慣れた動きで四つん這いになり、蜘蛛のように古井戸の壁を駆け上がって外へ出る。そして思った──

あっつ。外あっつ。何これ。

不気味に伸びた長い黒髪をばさりと振り上げ、暖簾状になった前髪の隙間から空を仰ぎ見る。そこには超新星爆発の直後のような激しさで、太陽がぎらついていた。

チャダ子は怯んだ。年々暑さが増していたのは確かだが、今年の暑さは桁違いで、存在の次元を超えて霊魂を直接炙ってきた。外に出てほんの数秒しか経っていないのに、一年かけてせっせと高めた怨念のすべてが「暑い」という思念で上書きされ、あらゆる意欲が消え失せてゆく。

今年はもうおとなしく井戸に帰って、スイッチでもやるのが賢明かしら──

が、わずかに残っていた怨霊としての本能が抗った。せっかく一年待ったんだ、やっぱりやろうぜ。呪おうぜ。せめて一人くらいはさ。

チャダ子はハッと我に返った。そうよ、呪わなきゃ。恨まなきゃ。それが私の存在意義だもの。

それでもこの暑さは耐えがたい。そこでチャダ子はまず、むさくるしい髪を切ることにした。濡羽色の長髪は自分の矜持でありトレードマークだが、今後何十年も呪っていくことを考えたら、地球の気候変動に合わせたスタイルのアップデートも必要だろう。かつて、ひたいの白い三角巾を取り払った時のように。適者生存は幽霊でも同じだ。死んでいるのに生存は変だが。

恨めしいけど、まずは髪を切りましょう。

すぐさまチャダ子は「美容室」と念じながら霊的な体をデジタル化させ、日本のどこかの美容室に置かれたテレビの中にワープした。

が、ワープ先のモニター上に現れた瞬間、いつものクセで、反射的に「カカカ」と奇声を上げてしまった。気づいた時には遅かった。異音に気づいて振り向き、テレビの画面を目にした美容師とおぼしき女が「きゃあ!」と叫んで尻もちをついた。

しまった、つい習慣で怖がらせちゃった。今は髪を切ってもらわないといけないのに。これじゃあ本末転倒じゃない!

チャダ子は焦った。ワープ先のフラットテレビが天井から吊り下げられていることも見落としていた。ずるずるとゆっくり画面から這い出せばよかったが、あわてふためく両手で虚空をつかんで、ぶざまな感じで画面の枠からどさりと床に落ちた。

謝らなきゃ!誤解をとかなきゃ!

そう思い、すぐに顔を上げる。漆黒の乱れ髪の隙間から、血走った目がおぞましく覗いた。

美容師らしき女は「ぎゃあああ!」と叫んだ。大きく見開かれた両目から涙を流し、鼻を垂らし、腰が抜けて立つこともできない。

チャダ子は困った。もう、なんで怖がるのよ!私は髪を切ってもらいたいだけ。なんとか敵意がないことを伝えなきゃ!

だが口を開いても、出てくるのは「あ、う、あ、え……」という恨めしげな呻きだけで、かえって女を怖がらせてしまう。女はもう恐怖のあまり失禁している。

まずいわ、呪い殺しちゃう!

チャダ子はカウンターの上に見えたペンと紙をとっさにもぎとり、そこに文字をしたためて女に見せた。

「ボブカットにしたいいいいい」

それを目にした瞬間、美容師の女は口から泡を吹いて絶命した。

チャダ子の夏は始まったばかりだ。

(了)

これもう猫めっちゃ喜びます!