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「生まれてくれてありがとう」誕生を祝う文化が僕にとっては気色悪い。

誰かに認められずとも、自分を貫きその先で死にたい。


誕生日を特別誰かに祝われたいと思ったことはない。しかし自分に対する普段からの感謝の気持ちとして、プレゼントを貰うことは嬉しいし本当にありがたく思う。

イタリアでは誕生日を迎えると、本人が集まってくれた人たちにご馳走するという文化があるのだが、僕にはこっちのほうがしっくりくる。ただ祝われるというのはとても申し訳ない気持ちになるので、こちらとしてもこの機会に皆に感謝を伝えたい。

結局のところ、"釣り合いが為されていないと気持ち悪い"と感じてしまう僕の心に起因しているような気がする。ただただ相手から与えられるのは、どうしても許せない。自分が無価値でどうしようもない人間だと思っているからこそ、理由もなしに与えられることを喜べないのだ。また喜べないだけなら良しにせよ、何かしら打算的な意図があって与えようとしてきているのではないかと疑り深くなってしまうことも多い。

与えられたら、それに見合う同等の代価を支払わないとずっと心にモヤが残り続けてしまうから、できる限りは早々に何かしらを返したいという気持ちが強い。

イメージとしては、借金をしている感覚に近い。借りたくもないけれども、相手が勝手にお金を貸し付けてくると断ることが出来ない。また返さずに放っておくと、「こいつはいつ金返してくれるんだろうな」という相手の見えざる声が聞こえて来るような気もして心が休まらない。

自己肯定感の無さにより自分に人の優しさを許容する器がないのもそうではあるが、何よりも人を信じることの出来ていない人間不信な部分がこういった天秤思考に拍車をかけていると僕は思っている。

ただ今の自分を改めた上で他人を信じてみようとは僕は全く考えていない。と言うのも、純粋な気持ちで誰かに与えようとする人はこの世界においてはあまりにも少なく、多くの者たちは何らかの意図があるからこそ人に何かを与えている。

もちろんその意図というのが、双方間でwin-winになる形であれば良いが、実際にそういう風になっていることは少なく、相手を利用して自分にとっての利を獲得しようとしている人たちが過半数というのが現実だろう。

不用意に人を信じてはいけない。特に僕のような人間は直ぐに他人を信頼するし流されがちだからこそ意識的に自衛しなくてはならない。だから今の状態を続けることに対して、僕は違和感はないし誤っているとも思っていない。

きっとこのままでは、自分はずっと生きづらい人生を歩み続け、一体何を行っていたのかさえ分からずに死にゆくような感覚がある。

それはあまりにも世の中というのが自分にとっては凶暴で苛烈で残酷だからだ。またそんな劣悪な環境に違和感を感ぜずに日々を笑っていられるような者たちは人では無くもはや怪物だと思っている。

幾ら自衛して降り掛かる火の粉を全て払い除けようとするのは不可能で、きっといつかはまともに避けることも儘ならぬようになり、その先で僕は焼死することだろう。

自分が自由に生きるために、僕は活動を行い続けている。今こうして文章を綴っていることだって「自分の想いは此処に在る」ということを忘れずに記録するために行っている。多くの人たちと関わる中で己を見失いそうになったとしても、自分が書いた記事を読み返すことで再び僕は大切なものを取り戻せる。

また怪物たちに自分が飲み込まれずに過ごすためにも物理的な環境の構築はよりいっそう行なっていきたいと思っている。自分が自分らしくいることが出来、心が休まる場所を作っていきたい。最終到達地点としては、化物が蠢めく世界との関わりは必要最低限で済み、ずっと落ち着ける環境下で居られるような状態にしていきたい。

人を疑わずに安心したい。けれどもこの世界では僕はきっとその願いを叶えることは難しい。別に自分を無理に肯定しなくてもいい。人を信じられないままでもいい。この世界と馴染めないことに疎外感を感じなくていい。ありのままの自分が常に在って、無理に自己開示をしようと思わずとも、簡単に想いを伝えることができ、また他の人たちも恐れることなく気持ちを素直に話すことができる。

そんな夢のような場所を作るために、僕はまた一年、人と向き合いながら苦しみ、もがいていければと思う。

産まれてよかったなんてやっぱり僕は思えない。

ただ今存在していることで、自分と同じような苦しみを抱える人たちの救いになっているのであれば、少しは産まれた意味はあるのかもしれない。

◆生誕

誕生日とは、一種の効果測定なのかもしれない。

世間では、友人や恋人の誕生日にお祝いのLINEを入れたりする習慣がある。僕はこの習慣はあまりにも残酷だと思っている。誕生日の連絡の有無によって、自分に対してどれ程の人が興味関心を示しているかが分かってしまうからだ。何か理由があったりする場合などもあり、感謝などの気持ちでは無く形式上の労いの言葉を送っているのかも知れないが、無関心よりはよっぽどマシだと思う。当然後日に会ったときに祝おうとする人もいるのかも知れないが多くの場合はそうではない。毎年誕生日を迎えると、自分に対して誰もが興味を持っておらず、お前なんて必要されていないと、世間から言われているような感覚があって毎年苦しい思いで過ごしている。また人という生きものが自分以外の人間に興味がないという事実がありありと伝わってくるこの日が本当に嫌いだ。

◆祝祭

祝われることは好きではないが、誕生日を祝うことは僕は好きだ。いつも自分と関わってくれていることに対する感謝の思いを違和感なく伝えられるよい機会だと思っている。何もない日常の中で不意にありがとうと伝えたり、ましてや急にプレゼントを渡すとなると受け取る側も臆したり、急にどうしたんだ?とか申し訳ないと感じてしまうこともあるだろう。だから自分の気持ちを伝えつつも、相手も気を遣わずに自然に受け止められるイベントというのは本当に良いと思う。また相手のことを考えて何を渡せば喜んでくれるだろうかを考える時間も渡した時に笑ってくれる瞬間も好き。ただ祝いたいと思える人というのはこの世界では余りにも少ない。また僕が渡したい人に限って僕と同じように祝われることを望まない人が多いので何をどうすべきかを悩むことも多い。ただ自分の想いだけは伝えておきたい。



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