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弱者を犠牲に、強者を幸福に。そして自己正当化するために後悔や罪悪を抱く化け物たち。

固執した美学を手放した先に残った色彩こそが求めていたものなのかもしれない。

結局のところ、自分の中にあるものしか僕は綴ることができない。

意図的だったり作為的に何かを試みようとしても、それはきっと多くの人には看破されてしまうことだろう。

それに僕の心に対して共感を覚えていたり、重なりを感じていたりする人に対して裏切る様な行為になるだろうから今日もこれからも在るが儘に自分の生を書き記していきたい。

正直なことを言うと最近は純粋に忙しかった。仕事に追われて、コミュニティはおろか文章を綴ることさえできない日々が続いていた。

ただ僕は書いていて思う、自分が忙しいと言う状態は自らの選択の上で行っていることなのではないかと。そもそもこの日本で生きる中で、本当にやらざるを得ないような強いられる出来事などあり得るのだろうか。

途中で放棄できる可能性が限りなく0に等しい場合だとしても、必ず逃げ道は存在している。きっと鍵は部屋の中に必ずある。その鍵を探すこともせず、見つけても開錠しないのはそうすることを君が選んだからだ。

では何故君(僕)は自ら忙しくなろうとしたのか。少し考えてみた。結論から言うと、自分を壊すいい機会だと思ったからだ。

僕は曖昧なことが嫌いだ。社内会議などでも、やることは既に決まっているのに、誰が担当するのかが定まらないままに話し合いが終わることがある。この状態が許せない。

きっと皆は気付いている。誰かがしないといけないことに対しては、頭の賢さに関わらずそれなりに理解しているはずだ。けれども何も言わないのは、生贄が存在していることを知っているからだ。

『言わずともきっと彼(彼女)ならやってくれる』

そんな意識が僕や同じような優しさを抱く人たちを今日という日まで殺してきたのだ。

きっと誰かを捧げるという構造は変わらない。それは会社だけではない、弱者を犠牲にして強者に利益を齎らすのがこの世界の理だ。

本当はこんな下らない世界の枠組から早々に脱却して、自分が幸せになれる場所を作りたかったけれども「此処で死んでもいいかもしれない」と思ってしまった。

僕は別に過労死したいなんて思ってなどはいない。ただ本当に死ぬ人間というのは、場所や手段に対する拘りは余りなくて「ただただ疲れたから終わりたい」という所謂衝動的な要素が多いと考えている。つまるところは、「楽になる」という目的さえ果たすことができればそれでいい。何故ならどんな場所、手段を選んだとしても、死んでしまえばその先の未来の様子なんて拝むことは出来ないから。また仮に家族に迷惑がかかるなどを理性的に考える余力があるなら死ぬこと自体は辞めておいたほうがいい。

少し話を戻そう。僕は結局のところ、何もかもが面倒になって都合よく自分を壊すことのできる機会がやってきたからそれに乗ろうとしたのだ。

「くたばるまで俺は一人で働き続ける」

そう決めてからの仕事の時間は何もかもが幸福で満ち溢れていた。時間の制約もなければ、誰かに気遣うことも必要がなく、一人孤独にやるべきことを淡々とこなしているときの全能感。

きっとどれだけ足掻いても仕事が終わることは無くて、この過程の中で燃え尽きるのだと分かっていても、僕が......いや俺がこの会社、いや世界に対して抵抗している姿は美しいと自ら思った。

僕が過労で倒れたとき、周囲の人たちは漸く生贄にしていた者に対する罪悪感を抱くのだろう。

僕はずっと疑問に思っている。誰かが必ずやらねばならないことがあって、「この人に負荷をかけているだろうな」と皆は分かっているのに助けようとせずに放置する。そう自ら決断して人を見殺しにしているのに、何故彼らは後から罪悪感や後悔を抱くのだろうか。

「あのとき助けていればよかった」

と皆は口を揃えて言うけれども、そうしたのは君たち自身じゃ無いのか。

なら罪悪も後悔も抱くなよ。

お前たちは弱者の善意や優しさを見殺しにすると決めて放置しているのだから自分の選択に関しては胸を張れよ。

やはりこの世の人間(バケモノ)は可笑しい。


『分かっていても助けない』

『自分のために人を犠牲にする』

『事象が起きてから後悔をする』


そして自分の都合の良いように、

「犠牲を無駄にしないように頑張っていこう」

などと綺麗事を語る奴らが蔓延る世界をやはり俺は許容できない。

サポートが嬉しいと言うよりも、君という1人の人間に楽しんでもらえたことを実感できることが何より嬉しいです。