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もし過去の自分に手紙を宛てられるなら

 これまでnoteにはよく内省・自己分析の投稿をしてきましたが、ここでその総まとめを書いて一区切りつけたいと思います。私自身の話が多いですが、後半で誰にとっても重要なことを述べるつもりです。気力と体力があるはずの10代、20代でありながら様々な物事に無関心になってきたような方には特に読んでいただきたいと思います。私がどのような仕事をしている人間なのかはこちらの投稿で分かるようにしています。

 以下の文章を書き始めたのは私が10代、20代で不本意な過ごし方をしてしまったと思うからです。思い返せば私の場合どんなことが好きで何に関心があるかは比較的早い時期から分かっていました。基本的にはそれに従って生きればよかったでしょう。人の感性は多くの時間をかけて向き合ったものに対して鋭くなりますから、シンプルにできるようになりたいこと実現したいことに最も多くの時間を割くべきです。しかし現実にはそうすることができませんでした。

 やりたいことができなかった直接的な原因は、
 ・難しいと感じた瞬間から目の前のことに集中できない
 ・何が分からないか、本当はどうしたいかの意思表示をしない
といった私の習性だったと考えています。こんなことにならないために必要だったと思うことを書いていきます。

1. 心配しないで今できることに集中する

【要約】今の時点で能力が足りなくてもこれから伸ばしてくことができる。だから今うまくできなくて自分の未熟さを曝け出してしまっても大丈夫だ。

 勉強やスキルの習得では一つのことに長い時間集中し続ける必要があります。高度な知識や技能を身につけようとすれば一度に全てを理解できなくて当然で、感覚的に分からない状態や曖昧さを受け入れて先に進まなければならないこともあります。

 その時にはある意味で無防備(vulnerable)な状態になるでしょう。それが私にはなかなかできませんでした。勉強などをしていて何かが分からないと感じると私は怒られたり嘲笑れたりすることを想像しました。それで反射的に別のことを考え始めて目を背けました。

 ここで必要だったのは成長マインドセットの考え方と、後述する過剰な自意識に気づくことだったと考えています。

【要約】
成長マインドセット (growth mindset)と硬直マインドセット (fixed mindset)はアメリカ人心理学者Carol Dweckが提唱した概念で、前者は自分の能力が挑戦することでどんどん伸びていくと信じる姿勢、後者はそれが一生変わらないままだと信じる姿勢を指す。成長マインドセットを持っていれば挑戦して失敗することで自分は成長できるのだと思って喜んで努力したがるのに対し、硬直マインドセットの持ち主は失敗して自分の無能なところが周りの人に知られるのを恐れて挑戦を避けたがる。有能さ・無能さが根本的にもう二度と変えられないようなものではなく今は無能でもこれから成長していけると信じていれば小さな失敗は怖くなくなって新しいことに挑戦して努力し続けられる。

 何かが分からない状態で不安に感じて逃げたり引きこもったりするのは、自分の能力がそこまでだと思っているからでしょう。今は足りない力もこれから伸ばしていけると思えば不安だからこそ止まらないでできることを徹底的にやれるでしょう。

 「ダメなところをこれからよくしていけるなんてできない」とか「一度失敗したら終わりだ」と思わされるような体験が過去には何度もあったけれど、そんな考えは捨ててしまえばいい。本当に取り返しのつかない失敗も世の中にはあるがお前の悩みはそれよりはるかに小さい。だから恥ずかしがらないで、余計な心配をしないで今できることに集中しよう。そのような発想が私には必要でした。

2. 何が分からないか、本当はどうしたいか素直に言う

【要約】いくら優れた発想を持とうとしても「何が分からないか」「本当はどうしたいか」を素直に言わなければ何も変わらない。

 元々はこのことを書きたくてこの文章を書き始めました。もしこれを中学の同級生が読んでいたら卒業文集を開いてみてください。同じようなことが書かれています。あれから15年も経って結局未だ似たようなことで困っていました。

 小中学生の頃からつい最近に至るまで、様々な出来事がきっかけで悩みや苦しみが生じていたけれど、大事なところで疑問・関心・好意・熱意・反対意見などを素直に言えなかったこと、つまり「意思表示」をしなかったことが全てに共通していると最近になって気づきました。

 まず疑問のことを素直に言えなかったのは、分からないことを聞けなくて初歩的なところでつまづいたまま何も身につかなかった経験がこれまで何度もあるということです。

 [努力放棄・脱落のパターン]
 1. 初歩的なところでつまづく。
 2. 硬直マインドセットが発動する。
 3. 自分にできないことを隠して後でやり直そうとする。
 4. どうすればいいか分からなくてつまづいたところから進まない。

 小学生の頃に二重跳びや逆上がりができなくて惨めな思いをしたときも、中学校の部活の野球でバントの構え方が本当に分からなくて怒られたときも、大学の線形代数の講義で「対称行列の対角化」が分からなくて徐々に脱落していったときも、全てそうでした。これらはいずれも何年も経って初めてできました。当時良く分からなかったのは小さな間違いや誤解が原因で、そのレベルにおいて才能や意志の強さは関係のない(irrelevant)ことでした。

 もし疑問を口にすることができれば、つまり

「説明してくれたことの意味が分からない」
「この言葉の意味がよく分からなかった」
「この部分にどんな意味があるか教えて欲しい」
「なぜうまくできないか分からない」

といったことを適切な言葉にして聞くことができれば余計なことで苦しむ必要はありませんでした。

 疑問以外の意思表示もしっかりとはできていませんでした。子供の頃から私は親や友達に対して自分が何に関心を持っているか、何が好きか、何をしたいのかなかなか素直に言えませんでした。他の子と違ったところに着目し、変わったことが好きになってもなかなかそれを言えませんでした。反対意見があってもなかなか言い出せませんでした。

 それから私の親がしっかりし過ぎていて、小さい頃から何でもやってもらっていたため自分から意思表示しなくても不自由なく生きてこれたことも関係しているかもしれません。本当はどうしたいか自分ではっきり言わないものだから、周りからはそれが私のやりたいことだと思われたでしょう。しかしながら本当はいつも本心が別のところにあったので本気にはなれませんでした。

 それに好きになった異性に対しても素直になれなくて、せっかく仲良くなれる機会があっても自分の方から避けてしまいました。それでも諦めることはできなくて後で尋常じゃない方法で執着してしまったこともあります。少し前に「愛着スタイル」が話題になった時に、私には間違いなく「不安型」と「回避型」の両方の傾向があると思いました。

 もし伝えるべきことを素直に言えれば、同じことで悩み苦しみ続けることはなかったでしょう。実際には怖くて、あるいはどう言えばいいか分からなくて言うべきことを言うのを避けてばかりでした。自分がどうしたいのか伝えなければ、何もかも周りの都合のいいように決められてしまって誰かにただ利用・搾取されるだけの存在に近づいていきます。頑張って意思表示しようとしても、そのやり方が上手くなければ簡単に不審がられ気味悪くも思われます。今までの人生はそれらの繰り返しが多かったように思います。

 そもそもなぜ素直に意思表示しなかったのかというと、第一にやはり硬直マインドセットがあります。今の時点で何かが理解できない・上手くできない、あるいは今一つ説得力や魅力がないような状態が一生そのままであるように心の底で思っていました。その後ろめたさがあるためになかなか自己開示できなかったのでしょう。

 さらに私には「自分のことをこう思っている」というだけで「他の人から同じように思われている」と考えてしまう傾向がありました。以前このことについて詳しく書いたのでそこから抜粋します。

私は少年野球から始めて中学校でも野球部にいたのですが、年齢・身長に比して体が弱くスポーツ全般が不得意でした。そのため野球も下手だと認識していて、それゆえ劣等感を持っていました。それ自体もあまり良いことではないけれど、何でもそのせいにしてしまうのは明らかに間違っていました。今思うと変な話ですが、10代の頃に好きだった女の子に嫌われたり避けられたりした(ように感じた)とき、自分の言動を省みることなく「野球が下手だからそうなったのだ」というように内心では捉えていました。当時はそれで頭が一杯だったわけです。冷静になってみると彼女らがそう考えたといえる根拠は何一つなく、そしてこの時もスキルや知識がないからカッコ悪いと思っていたのは私自身でした。
自分がこんな人間だと思われたと感じたとき、実際にそう思っていたのは私自身でした。それは他の人にどう思われるかの不安や恐怖に自己象を重ねてしまっている、言い方を変えると自己嫌悪の言葉を脳内で他者に代弁させているに過ぎないということです。その自己像と同じイメージを他人が持っているとは限りません。この点では繊細というより、ある種の自意識が強すぎたのだと思います。このことに気づいて驚愕しました。私個人に向けられたこれまでの全ての言葉の意味とか、色々な前提が覆ったように感じられました。それと同時に自分はなんて無意味なことに悩み、そして本来大いに悩んで考えるべきことをなんて安直に決めてしまったのかと思いました。

 先ほど過剰な自意識と書いたのはこれです。これもまた一種の思考の癖で、硬直マインドセットと同じく今やるべきことに集中するのを妨げる要因の一つでもありした。

 そもそも人間は特別な理由がない限り他の人にあまり関心を持ちません。過去には私の下手さを笑ったり理解の遅さに怒ったりした人がいたかもしれないけれど、今周りにいる人たちがそうだとは限りません。それに私のやっていること自体が自分で思っているほど他の人からは悪く見えないかもしれません。

 だからいつまでも過去の記憶を引きずっていないで「何が分からないか」「本当はどうしたいか」を素直に言えばいいはずです。それによって恥をかきそうで怖いと感じたら、自分がこんな人間だと思われたと感じたとき実際にそう思っているのが私自身であることを思い出すようにしたいです。気にした方がいいことがあるとするなら今心配しているのと別のことでしょう。思ったことを言ってみて怒られるなら、内容ではなく言い方やその時の状況に問題があると考えた方がいいでしょう。

 先ほど書いたマインドセットのことは今から4年と半年ほど前に知り、その当時にはある程度有意義な変化もありました。しかし最近では成長が停滞しています。スキルを上げようと勉強してもなかなか進まないし、肝心なことが全くできていないように思います。近い年代には私の倍以上の収入を得たり結婚して子供がいたりしている人がいるようだけれど、私はそれらの面で3年前からほとんど何も変わっていません。

 一体何が足りないのか、あるいはネックなのか判然としなくて毎日悶々としていました。この状態では家族とも会いたくなくなっていました。以前書いたようにマインドセットからの繋がりで自己啓発系のコンテンツを読み漁り、YouTubeでも勉強になりそうな動画をいくつも観ました。そうしている間に在籍している会社では異動で全く新しい業務を一から覚えるようになりました。そうした中で見出したのがこの意思表示の問題でした。

 もし中学校を卒業するまでの自分自身に手紙を出すことができるなら具体的な出来事や人物の名前を挙げながらこれら2つの習慣、つまり
・心配しないで今できることに集中すること
・何が分からないか、本当はどうしたいか素直に言うこと
を心がけるように説得します。しかし高校入学以降ならばこれらに加えてもう一つ忠告したいことがあります。それが次に書くことです。

3. 結果に責任を負うつもりになって選択する

【要約】自分の選択に責任を負うのは自分自身である。だからどうするのが最良の選択か自分で判断したならその通りにしていい 。

 小中学生の間は先ほどの2つさえできていればよかったと思います。しかしながら振り返ってみると高校の3年間で少しずつとある変化が起こっていて、それゆえ正しく認識すべきことがもう一つあると思いました。その変化とは自分自身の選択に対して追うべき責任が発生することです。

 ここでは「起きてしまったことを受けてどうにかすること」とそうする義務が責任、どうにかできることが責任能力であるとします。この考え方は責任を意味する英語のresponsibilityが「反応する (response)」と「能力 (ability)」から成ることに由来します。

 例えば店舗やチームの「責任者」とはそこで起きる様々な出来事に対応すべき人物であり、そのために相応の権限が与えられています。何らかの決定に責任を持つとは、その決定によって好ましくない結果になった際に何らかの対応をとる義務を引き受けるということです。

 責任は組織だけでなく個人の意思決定にも発生します。読んだことのある方なら分かると思いますが、このことは例えばかの『7つの習慣』の序盤の方にも書かれています。私は10代の頃に親の本棚にあったこの本を一度通読しましたが、1番目の習慣の大前提になっていたこの事柄の意味を理解していませんでした。

 以前私は外的な要因だけを理由にして大切な物事を決めてしまうことについて書きました。それは自分の選択に責任を持つことから逃れようとするのに等しく、その責任を被せんとする外的要因に縛られて新しいことに挑戦できなくなります。たとえ同じ決定をするにしても外的要因を理由にして「そうせざるを得なかった」と思うか、決定に責任を負うつもりで「そうした方が良いと自分で判断した」と思うかでその後が全く違うと考えています。

 例えば就職や転職において魅力的であるがリスクの大きい選択肢があったとして、それを選んでも選ばなくても後になってから後悔する可能性があります。元々その決定に自分で責任を負うつもりでいれば、たとえ後悔したとしても自らの判断の誤りを認め軌道修正しようとか次はもっと賢い判断をしようと考えるでしょう。そうすれば次に繋がってより良い職に就ける可能性が増えます。

 しかしその責任が自分自身にあることを理解しないで待遇、仕事内容、その他の労働条件などを理由に途中で思考停止した状態で決めていれば「こんなはずじゃなかった」と思って他責し始めます。これではいつまでも真の意味で自立できなくて、できることは増えていきません。

 もう一つ例を挙げるならば、もし自己啓発の内容を実践してみて良い結果が出なかったり逆に何かを失ったりした場合です。そのようなときにアドバイスされたようにやってみることを選んだ自分の責任だと思って次の行動に移るか、それとも期待を裏切られたとか騙されたと思って筆者を恨んでしまうか、どちらの人間が成長できるかと言えばきっと前者でしょう。自己啓発に没入するのは個人の自由だと思っていますが、そのコンテンツを批評するのは滑稽なことです。

 責任というと「責める」の漢字や「責任を追及する」等の文脈のイメージがあるため、好ましくないものであるように感じられます。確かに関わりたくないようなことで責任を持たされるのは負いたくない義務を負わされるということで災難であるかもしれません。その一方で自分の人生に責任を負おうとするのは素晴らしいことです。他の人にどう思われようと、親などに何と言われようと自分がこうすればいいと思ったことができるということなのですから。

 仕事でも恋愛などでも、次のステージに進むためにはどこかでリスクの伴う選択肢を取る必要があると思います。たとえ敷かれたレールから外れるほどのことでないとしてもです。そしてリスクの伴う選択をするためには自分の選択に責任を持つつもりでいなければいけません。もし仮にそれで失敗しても埋め合わせとなる行動をして一度踏み外した道を修正することができます。それが責任能力です。小さな子供にはそれがないけれど、10代の間に少しずつ獲得していきます。

 自分にもその能力があるのにそれを発揮しないでいるのは、自ら搾取され不幸になることを選ぶに等しいことでした。根本の問題は意思の強さでもセンスの良し悪しでも心の余裕でもなく、自分の言動に責任を負うつもりでいるかどうかです。誰かに言われたようにするのではなく自分の責任の範疇で物事を決めればいいです。私が10代、20代の間にそうしてこなかったことが実年齢に比して未熟なところのある原因だと思っています。

7/24 追記 Twitterでこれを見かけました。はい、そういうことです。自分だけでなく様々な経緯でこうなってしまった人はたくさんいるのだと分かりました。)

 先ほどは何が分からないか本当はどうしたいか素直に言うようにしようと書きましたが、高校入学以降にはそのような意思表示のためにも自分の言動に責任を持つことが必要になっていったと思います。親に守られるだけだった存在から自立した一個人へと変わっていく間にその変化が起こります。高校の3年間でその自覚が育たなくても多くの人は大学生活の中で変わっていったと思いますが、私はそうなりませんでした。だから高校入学以降の自分自身に言葉をかけられるならばこのことを強調したいのです。皆さんはいかがでしょうか。

最後にまとめ

1. 心配しないで今できることに集中する
2. 何が分からないか、本当はどうしたいか素直に言う
3. 結果に責任を負うつもりになって選択する

 理論上、これら3つのことができれば私が過去と同じ失敗をして後悔することはなくなります。なので過去の自分に手紙を送れるのならばこれらのことを忠告したいです。しかしそうすることは当然できません。だからこれまで30年間生きてきて得たこれらの教訓を胸に刻んで今日を生きます。

 ここまでまるで意義深い発見をしたかのように書いてきましたが、いずれも本来特別なことでなく二十歳になる前から同じことを当たり前に実践している人もたくさんいるだろうと思います。

 そういった事柄はもっと早いうちに知っていればよかったと後悔してしまいがちです。しかし本当にそれらを過去のある時点で知っただけで本当に人生を変えられた人ならば、同じことを今知っても次の日の行動を変えられるはずだと考えています。私が実践しようとしているのはそういうことです。

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