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個人的な30歳成人説

今や私は30歳だ。5年くらい前まで30歳というと遥か彼方の未来でしかなかったのだけれど、到来してしまえば呆気ないものだ。

今の私には真っ当な学識も高い収入もない。そして時を一緒に過ごすパートナーもいない。一応は大学院を出ているが在学中はまともに勉強していなくて学位相応の知識・経験が身につかなかったし、現在の年収は同年代の中で中央値以上平均値未満であろう。代わりにあるのは気になって集めた雑多な知識、一つの会社の中で経験した仕事の幅広さ、それに10代の頃と変わらないほど健康な身体などだ。

この有様は偶然でもなく運命でもなく、良くも悪くもそうなるように生きてきたからだと思っている。これまでに積み重ねた選択の結果だというわけだ。そのことでもう少し深く考えてみた結果ようやく成人らしい自覚が育ってきたように感じる。このことついて詳しく書いておきたい。

私のしてきた選択とは

1つ例を挙げると、3年前に私は会社を辞めて転職したいと思った。当時の上司や仕事の内容に不信感や疑念を抱いた時だった。しかし実際にはそれから辞めることなく、しかも当時の不満が解消されることもなく今も同じ会社に勤務している。

社内の人とはそこそこ上手く信頼関係を築けていて、ある程度まで私の能力を認められてもらったように感じていた。転職を決断できなかった理由の一つは、もし今自分が辞めたら彼らからどう思われるだろうかと気にしたことだった。

私が去った後で上長たちからあいつは根性なかったと思われるのも嫌だった。それに私は10代の間に二度も体育系の部活を途中で辞めているので、就職してもそうなのかと家族・親戚に思われてしまうのが怖かった。

もう少し続ければこの会社でも有意義な経験ができるかもしれない。きっとそうだ。今はまだ辞めようとするのを止めておこう。そのように後付の理由を考えて行動しないことを正当化しようとして今日に至った。

この他のことでも私は消極的な選択をしておいて後付けの理由を考える傾向があった。大抵は「自分が本当にどうしたいのか」を考えるより「他人からどう思われたいか」を気にした。それで自分はこうしなければいけないと勝手に思い込んで自分自身を抑え込み、新しいことへの挑戦を避けてきた。その結果が冒頭に書いた現在の有様。だからこの生き方を変えようとするなら自分の行動の決め方を改めなければいけないと思っている。

己の選択に責任を持つ

そもそも人の目を気にして大事なことを決めてしまうのは、判断の基準を外部に持つことでもある。言い方を変えると自分自身の生き方・日々の送り方に責任を負おうとしないことだと考えている。私がしていたのはそのような選択だった。

単に責任というと、「責」という文字から何か良くないことが起きた場合に誰が責められるのかを指しているように(少なくとも私には)思えてしまう。

ここで捉え方を変えてみよう。英語のresponsibilityという単語の成り立ちが示すように、責任とは出てきた結果を受けて行動を起こす(response)ための意思と能力(ability)のことだと考えてみてはどうだろう。

選択の仕方で生まれる違い

自分自身の選択に責任を負うか否かで何が変わるだろうか。

まず他人の目などの外部の要因を理由に物事を決めた人が、後にその決定が正しくなかったと判明した場合にどうするか想像しよう。もしその外的要因で自分の判断を狂わされたように考えるならば、自分自身の選択に責任を負おうとしないことになる。自分の選択に責任を持つことから逃れようとする限り、その責任を被せんとする外的要因に選択が縛られて新しいことに挑戦できなくなる。変わりたくても変われるかどうかは周囲の状況次第といった状態になる。

同じ外的要因が存在しても、それに流されるのではなく一度自分なりの解釈をして考えた上で選択を行えばどうだろう。このような人はいかなる外的要因や心配事があってもあくまでも自分の意思で物事を決定することになる。たとえそれで失敗したとしても責めたり後悔したりするのではなく結果に応じて次の行動をとることができる。これが自分自身の選択に責任を負うということである。

これはもちろん他人の目だけの話ではない。例えば自分はこういうことに向いていないと認めざるを得なくなった、自分のやりたいようにやるにはあまりにも厳しい状況になったとしよう。そういった場面で元々志していたことを断念するとしても「そうせざるを得なかった」と思うか、「そうした方が良いと自分で判断した」と思うかでその後の展開が大きく変わりそうに思う。これもまた自分の選択に責任を負おうとするか否かの違いだ。

新しい視点で過去の選択を振り返る

自分の選択に責任を持たないなら何歳になろうと大人に言いつけられたことをするだけの可哀そうな子供と同じだろう。この面で私は20代の間も子供同然であった。

先ほどの例でいうと私は他人の目という外的要因を理由に行動を起こさないでいた。しかも自分はこの会社に残るしかない、仕方ないというように思っていた。問題は人目を気にしたことや会社を辞めなかったことではない。人目を気にしても、会社に残る選択をしても、何らかの考えがあって自分でそうすることにしたのならそれでいい。真の問題は自分自身の選択に責任を負おうとしなかったところにある。だから今では「この会社で働き続けることは私が選んだのだ。これからどうするかを決めるのも自分自身だ。」と考えるようになった。

自分の選択に責任を持つことは、10代のうちから当たり前にできている人もいれば、50代になってもできないでいる人もいる。早くから覚悟を決めて生きている人と、いつまでも誰かのせい何かのせいにして実はその誰かや何かに操られて生きる人、その両方の存在に気づいたことがターニングポイントだったように思う。

終わりに

30歳の誕生日は普段とほとんど変わらない平穏な1日だった。以前はもうすぐ20代が終わるということで同年代の他人と比較しては焦っていたけれど、実際にそうなってみるとすがすがしかった。これが私なりの30代の迎え方だった。

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