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自己紹介【全身全霊篇】

我 獨立自尊、ゆえに文武両道あり。
どうも、群馬県立桐生高校です(怒られろ😇)

あ、間違えました。
あつヤングです🎉

最近、役員をやったときの写真だよ
(ちゃんと労働時間外に撮ってるよ😁)


みなさんお久しぶりです。
最近は授業が始まったり、部活でも新入生が入ってきたりして、生活がガラッと変わりました。

それに伴ってマリオカートと動画編集が忙しくて全然noteが書けませんでした😭

僕が誰だが、僕でも忘れてしまったのでまずは復習しましょうね♥

前回までのあらすじ↓



というわけで山岳部に入部したあつヤング。
ここから人生は大きく動きます。





Chapter1. 勝ちをたずねて三百粁

前回でもお話しましたが、山岳部に入部したあつヤングは山岳部にも大会があることを知ります。

山岳部にはインターハイ予選(総体)と新人戦の2つの大会がありました。

2つとも同じ山岳部の大会ですが別競技で順位を争い、僕が興味を持ったのは新人戦の方でした。

新人戦は8kgの重りを背負って、山道を走る、山岳レースです。屈強な脚力と強靭なスタミナが求められます。

僕が1年生のときの3年生の先輩に、新人戦の入賞者がいました。僕は、その先輩よりもいい練習ができていたことや、元陸上部だったこともあり、かなり自信がありました。

外周は誰よりも走っていましたし、部内で行われたTTも1位か2位(1つ上の世代にも元陸上部の強い先輩がいた)。これは手応えあり。

中学の時は部活で賞状を貰ったことがなかったので、山岳部といえど、表彰されるの楽しみだななんて思いながら、1年目の新人戦に挑みます。






Chapter2. 1年目の新人戦

練習で山もたくさん登ったし、ランニングトレーニングも300km近く走り込みました。6位入賞を目指して、自信を持って当日を迎えました。

練習で登った榛名のどこか


2019年10月19日。1年目の新人戦。

しかし!
洗礼を受けることになります😭

5km近くあるレースなのにも関わらず、最初の1kmを過ぎてまもなく、8人近く居た先頭集団から離れます。そこからはダラダラと垂れて順位を落とし、一時は30位ほどまで転落しました。それでも最後まで出し切ることが来年に繋がると思い、ラスト1kmの登りで決死のスパート。20位でのゴールでした。悔しい結果でした…

表彰式で表彰されてる上位6人の選手を見たときの悔しさは鮮明に覚えています。強豪校だった、前橋高校と高崎高校の選手が表彰式を独占。来年はここに桐生高校の自分が乱入したら面白いだろうと思い、1年間これのために本気で取り組むことを決意をしました。






Chapter3. 価値をたずねて二千粁

ここからあつヤングの反撃の始まりです。

まず、1年後の新人戦で優勝するまでを逆算したときに、結果を残すだけのトレーニングするための身体作りが必要だと考えました。

これは今(大学生篇)でもそうですが、やはりトレーニングのための土台作りが大切だというマインドはこのときから既に確立されていたとも言えます。

部活での練習だけでは県のトップ選手とは戦えるようにならないと考え、部活のあとに自主練習をしようと決めました。

11月から来年の新人戦で優勝するためのプロジェクトを始動しました。最初の2ヶ月はラントレーニングはせず、ドリルや補強, ダンスに取り組み、『毎日トレーニングをする』ということを習慣化させました。今となっては当たり前のように練習する習慣がありますが、普通の人は毎日、運動(ましてや追加の自主練習)をする習慣などありません。トレーニングを楽しんで、トレーニングを『やった』という達成感を大事にして競技と向き合いました。

この記事を読んでいる人は意識の高い人が多いでしょうから、このステップはかなり小さなステップに見えるかもしれませんが、これは自分にとって大きなステップでした。

小学生の時にやっていた柔道とピアノの練習、中学の時にやっていた陸上の練習は全てなんとなくやっていた。みんながやるからやってきた。要は、やらされていた練習だったわけです。それを自ら向上心を持って競技と向き合うようになったということはかなり大きな進歩でした。というより、自ら向上心を持って取り組みたいと思えるものと出会えたことこそが大きな経験だったのかもしれません。

勝ちを求めて始めたプロジェクトで勝ちを超越した価値に出会ったのです。(マルチ感)






Chapter4. 感化してきた箱根駅伝

トレーニングを開始してから約2ヶ月、ぼちぼちラントレーニングにも取り組み始めていました。どんなに部活が終わるのが遅くても週4~6で、5kmくらい走り込んでいました。

そして年は明け(おめ)、2020年。
この年の箱根駅伝を観て、さらにトレーニングに火がつきます。

特に印象的だったのが、4区で区間新記録を出した青山学院大学の吉田祐也選手。彼は元々強い選手ではなかったものの(十分強いですけど😇)、とにかく泥臭い練習を積んで、4年目にして最初で最後の箱根駅伝に出走。引退レース(その後、競技を続行することに変更したが。)として挑んだ4区で力走し、首位奪還&区間新記録。『努力は嘘をつかない』を体現する姿に感動した記憶があります。

そこでトレーニングのモチベーションが上がった僕は、練習頻度も増えました。
さらに週一で山トレーニング(ポイント練習)も実施しました。

高校の近くにある水道山が新人戦を想定したいい感じの山で、ここで走り込むことで、山の適正を付けることができると考えました。

水道山中腹。カーブが続く
水道山頂上付近。斜度がきつい
鬼門のヘアピンカーブ。ここが一番きつい

強豪校の前橋高校(新人戦優勝者を輩出したり、インターハイで入賞を果たしたりしている)は、近くに山がないため普段は外周でとにかく走り込んでいると聞いていました。(噂ですが。)

つまり、高校の近くにこういった練習場所がある分、自分たちは強くなるうえで有利と考えました。

が、それと同時に、前橋高校がとにかく走り込んでいるように、自分たちも山練習ばかりでなく、平地での土台作りも大切だと考えました。

これらのいいとこ取りの練習を1年間積み上げれば、強豪校のライバルに勝つことも不可能ではないという計算でした。


また、トレーニングのモチベーションの維持のためと、レース慣れするためにも定期的に市民マラソン大会に出場しようと決めました。これによって僕は山岳部兼市民ランナーのような形として活動するようになります。

当時の僕は箱根駅伝に感化されていたということもあり、市民ランナーの駅伝大会にエントリーしました。

場所は千葉です。そう。みなさん、おわかりでしょうか。全中クロカンをやったあの場所です。昭和の森です!
※詳しくは中学生篇をご覧ください

山岳部のタケルと、先輩2人を借り出して4人で出場しました。僕はアンカーでした。

アップをするよしとき先輩
4位でした!!!(7チーム中)
4区:9'23"(3'45"/km)  頑張った!
レース後に近くで食べたラーメン旨すぎた記憶

2.5kmの区間で、目標は10分切りでした。クロカンでしたし、キロ4は難しいかなと思っていましたが、思っていたより走れて嬉しかった記憶があります。

ただ、やはり中学生の頃くらいの走力は欲しいなと思いました。陸上部じゃないといえど、山岳レースですから、走力はあるに越したことはありません。

むしろ、山岳部なのに陸上部並の走力があればかなり強力です。やっぱり走力をつけたいなと思った大会でした。






Chapter5. コロナ禍は追い風

駅伝大会を終え、まもなく、新型コロナ(COVID‑19という呼び方のほうがあるべき姿ですが、便宜上、コロナという表現を用います)が、日本国内でもまん延し始めました。

それに伴って、全国的に学校が休校になり、僕の桐生高校も休校となってしまいました。
あらゆる行事がなくなってしまったことはもちろん、当たり前のように会えていた皆とも話せなくなる悲しみは確かに大きかったです。

しかし、僕はこの状態を『チャンス』であると感じました。

ライバル校も部活ができていない。高いモチベーションを持った選手以外は、ここで振り落とせると。

そして何よりも膨大な時間を獲得したことにより、『競技に時間を注げる』と思いました。

この期間を経て、僕の今の礎でもある『競技に時間を注ぐ』も確立されました。運命です。

ありがたいことに自分が新人戦で優勝するための条件は揃ってしまいました。あとは本当にやるだけです。ここから優勝していきます。

練習のあと、よく登っていた吾妻山山頂
60'ダウンjogより凄くて草






Chapter6. 覚醒の夏~speed star~

期間ごとにスローガンを決めて、取り組んでいました。これは夏に掲げていたスローガンで、ゴロが良かったのでよく覚えています。

しかし、一度春に戻って話を続けます。

4月。赤点を見事に神回避し続けた僕は、高校2年生になることに成功しました。しかし、新学期が始まっても、学校は休校のままでした。

この頃の練習サイクルは既に大きく成長しており、以下のようなものでした。

月:6kmペース走(設定:4'00"/km) 消化率は50%前後😇
火:10kmペース走(設定:4'15"/km) 消化率は80%
水:10km jog(疲労抜き。設定ペースは無い)
木:10km jog(または、レスト)
金:距離調整jog(そんなに走らない)
土:ガチゆる走* or 水道山練習
日:アクティブレスト(妹とバドミントンなど)

*土曜日はガチゆる走というポイント練習か、水道山で山用のトレーニングをしていました。水道山では、坂で1km×5や5kmTTなど。ガチゆる走は以下の記事を参考に、スタミナの強化を図っていました。

また、6kmペース走の練習達成率は毎回低く、やはりこのときからペース走は苦手なんだなと思いました。基本的には垂れて撃沈ゴールか、萎えてDNFでした。なぜ、4'00"/kmだったかというと、中学生のときの朝練がこのペースで4~6kmのペース走だったため、この練習の消化率が上がっていく中で、現役との差を確認できるからと思っていたからです。

しかし、練習効果を考えるのであれば、もう少しペースを見直して練習消化率を上げる方が効果的だったと思います。しかし、半ばTTのような意図もあったので、当時の僕には必要っちゃ必要だったのかと思います。

月, 火, 土曜以外のjogは距離調整みたいな感じで、週間50kmのために、残りを補うために走るこむといった感じでした。
要はポイント練習重視で、jogは疎かにしていたとも言えます。また、早く練習を終わらせたいがために、ついついjogのペースが速くなり、ペース走と同等の疲労を溜めてしまうなど、不適当な取り組みでもありました。

とはいえ、当時の自分からすれば、月間200kmを当たり前のように積めるようになり、自信は高まっていきました。
新人戦の優勝に向けて、誰よりも努力をしているという自信がありました。

高いモチベーションを維持したまま、練習を続けていきます。


5月。この月は土台作りに目覚め、走り込みました。12km以上のjogを週1以上で取り入れ、30km走も2回実施。そのうち1回は誕生日(5/22)に5時起き6時スタート!😭。

とにかく走り込んだ覚えのある1ヶ月でした。

朝飯入れてないんよ?頑張ったでしょ



6月。インターバルトレーニングを導入し、練習サイクルが、若干変化しました。また、学校や塾が徐々に再開したこともあり、ポイント練習をバンバン詰め込むというよりは、平日はjogメインの練習へと変化します。以下が、当時のサイクルです。

月:12km jog 
火:Rest(塾のため)
水:10km jog
木:4km ペース走(設定:4'00"/km)
金:5~10kmjog(疲労抜き)
土:水道山練習
日:400m ×10

jogの量が少しずつ増えていきました。そして、キロ4のペース走は消化率が低かったことから、6kmから4kmにノルマを減らし、消化率を上げることを図りました。水道山練習では、変わらすインターバルかTT、そして日曜にショートインターバルを実装しました。400mを大体80"くらいで走っていたでしょうか。レストは200mをゆっくり。とにかく心肺機能に刺激を入れることを目的としていました。いい練習ですね〜。

水道山練習のあとはダウン登山!


7月。走力を上げていく上で、400mのインターバルが一番効果的だったような気がします。そのおかげもあってか、3kmのTTで高校ベストを更新(10'54"→10'36")することにも成功しました。

そして、月末には『片品ゲレンデクライムRUN』という大会にもエントリーしました。タイトル通り、ゲレンデを走るとかいうタフなレースで、人生の中で一番キツいレースでした。前回大会の結果から8kmの部は59分台を出せば、3位入賞。58分台で大会新記録&優勝かなと想定していました。

そして当日、現地入りをして、ゲレンデを見て、そしてちょっと走ってみて、そのキツさに絶望しました。

そもそも滑るために作った坂を走るのがおかしい
写真だと分かりにくいけどエグいです

5月までの走り込みと6, 7月のインターバルの成果を試すためのせっかくの舞台だったので、レース序盤から積極的に先頭集団で走ることにしました。
8kgの重りは背負いませんが、新人戦を想定して走りました。

ゼッケン番号108。白のランシャツに黒のランパン
なんか幼いけどかっこいい

しかし、レースは思っていた以上にハイペースで進み、2km過ぎから単独走となってしまいました。それでも想定より速いタイムでゴールできたことや、一人で淡々と走り切れたことは評価したいですが、やはり先頭集団で勝負できなかったことは悔しかったです。なによりも、想定より速くレースが進んだことに驚きました。新人戦でも、想定より速いタイムでレースが進むことを考慮する必要があり、もっと強くならなければと感じました。

惜しくも入賞を逃す


8月。『覚醒の夏』を掲げ、夏休みを使って走り込みました。サブタイトルがspeed starという通り、インターバルをガシガシやって追い込んでいきました。
200m×5の日もありましたし、1km×7のときもありました。jogの土台もあり、インターバルを積んでも怪我はなく練習を回せたのがとにかく大きかったと思います。
また、この年の新人戦のコースが発表されたということもあり、8月は2回試走に行きました。車、ありがとうパパ😇

スタート付近
アップをするあつヤング

1回目の試走ではとにかく歯が立たなかった記憶があります。
コースは全長5km弱で、最初の1kmは下り、そこからずっと登ってラスト1km付近になると1度平坦になり、またラスト300mは猛烈な登坂といったものでした。
登り坂区間の4kmは最初の2kmくらいがとにかくキツく、そこで力を使い果たしてしまい、後半の平坦でスピードを出せる区間でも遅いペースになったしまったり、ラストの急坂で足が止まってしまったりなどの試走で多くの課題を発見できました。

コースを熟知して戦略を確立することで、より優勝に近づくことができると考えたため、定期的に試走は取り入れることにしました。ここまでやってる選手はそう多くないでしょうから、これでは本当に自分が優勝しちゃうぞ😏とモチベーションを高く保って練習を継続させました。

また、マンホールに落ちたのもこの月になります。平日の学校のあとに水道山に練習へ行き、夕立から逃げるように下山し、暗くなった校内で足元が見えず、何故か蓋が空いていたマンホールに落下しました。出血多量でした。詳しくはここに書いたような気がします。書いてなかったら直接質問してください。






Chapter7. いよいよ迫るリベンジの瞬間

9月。今までの練習サイクルに試走を取り入れ繰り返しました。1km×3のインターバルでは、3'20"以内でこなせたことがかなり手応えのある練習だったと思います。平地では、3kmを9分台で走る実力があれば十分と想定していただけに、この練習はその達成を大きく感じさせる練習でした。また、試走の度に、課題を改善していき、着実に自己ベストを更新していったのも楽しかったです。

帰るのが夜遅くになってしまうときも。
水道山山頂より。




10月。新人戦本番まで、あと1ヶ月です。長かったようであっというまでした。そもそも運動習慣すらなかった自分が、この大会でムキになったがために、毎日こんなに走るようになってしまうとは。

雷がなってるのに走ってる日は、頭おかしいと思われたし、誕生日の朝から30km走もなかなかにキモい。

でも、あともう少し。『1年後、優勝します』と言ったとき、誰も相手にしてくれなかった。簡単に勝てる相手ではないし、ましてや自分が。

それでも信じてくれる人がいた。

だから諦めたくなかった。

少なからずこの1年で自分は変われた。こんなに何かに熱中したことは初めてだったし、それに対して本気で取り組んだ時間は間違いなく財産だと思った。だから、負けても後悔はないと思った。どんな結果が待ち受けていようと受け止められるだけの努力はできていた。

あともう少し。あともう少しです!
この月で10kmの自己ベストも更新(40'50"→37'58")しました。40分は切りたいと思っていましたが、まさかここまで走れるようになるとは驚きました。キロ4で6kmのペース走ができなかった頃が懐かしいですね。

試走でも自己ベストをバンバン更新し続けました。8kg背負って山道を走ることも慣れてきました。
過去の優勝タイムからレースペースを算出し、この年のコースなら、28分を切れば優勝だと予想しました。そして、最後の試走のタイムは28'04"。ここに調整を加えて、大会のアドレナリンが入れば、27分台は確実です。しかし、片品ゲレンデクライムRUNのときのように想定より優勝ラインが高い可能性もと思っていました。ただ、27分台で走れて、優勝を逃す分には仕方ないなと思っていました。それだけやれることはやってきたはずです。

水道山山頂。この景色を見る度に強くなった。
いつも応援してくれてるバーバラ。
試走も観に来てくれたね^_^


さあ!
ついに次回、1年越しのリベンジの新人戦です!

あつヤングはどのような結末を迎えるのか。
感動、間違いなしです!

次回、【山頂篇】。お楽しみに!





次回↓


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