自己紹介【小学生篇】
どうも、クソガキです。
ダラダラと経歴、書いていきます。
僕は今、大学生なので、これはもう10年以上前の話なのですが、僕は6年間も小学生をやっていました。
思い返せば本当にクソガキで、クソガキでした(語彙)。
ゲームとかはやってなくて、外で遊ぶのが好きな系の小学生でしたね。とはいえ、サッカーとか野球とかはルールを知らなくて、やっても上手くなくて面白くなかったので、自分で遊びを作ってみんなでやってました。
特に鬼ごっこの開発に力を入れていて、何種類も発明しました。連中でバズったものもあれば、不発だったものもあります。ただ、やっぱりノーマルな鬼ごっこが僕は好きでしたし、結局1番多くプレイしました。
Chapter1.柔道少年あつヤング
習い事は色々やらせて貰っていました。贅沢なガキです。
小学1年生、あるいはそれより少し前くらいからだったか忘れてしまいましたが、結構長い期間、柔道をやってました。
クソ雑魚で試合はいつも初戦敗退。マジでやってて楽しくない。投げられまくりだったので、受け身だけが磨かれていく。本当にずっと辞めたかったです。
あと、負けると親父に怒られるので、マジで試合は鬱でしたね笑。勝つためというより、怒られないための試合をしてたような気がします。
負けたら坊主という謎の賭けもしていたため、基本小学生時代はショートヘアでしたね。可愛いでしょ。
しかし、小学生5年生くらいになると急に勝てるようになってきました。
なんとなく、転機の試合は覚えていて、小5のなんかの大会で3位になったんですよ。そこから勝てるようになった気がします。
この話のおもろいところは、その転機になった試合は、仕事かなんかで始めて親父が見に来れなかった試合だったんですよ。それでノンプレッシャーだったのか、めっちゃ強かったですね笑。なんてクソガキなんでしょうか。
そのあと、親父が見に来てくれた試合でも勝てるようになりましたよ笑。
フィジカルが強くなかったので、立技はまあ、雑魚でしたね。ただ、そこで一本取らせずに、寝技に持ち込んで勝つというのが、僕の勝負スタイルでした。
勝った試合のほとんどは、寝技で勝ったんじゃないでしょうかね。一本とった記憶は6年間で数回しかないです。
特に僕が真価を発揮できたのが『団体戦』でした。
5対5の個人戦で、勝ち点を競うってだけなので、結局は個人戦なんですけど、仲間の為なら頑張れるタイプでした。
訳あって、今の僕は駅伝やってるんですけど、このときからそういうのが好きだったんですね多分。
団体戦だと、格上相手でも怯まず戦える、ある意味、素直なガキでした。偉い偉い。
当時はやらされてる感強くて、あんまり柔道が好きじゃなかったですけど、今は少しやってみたい気持ちがあります。陸上辞めたら、次は柔道やってみたいなとかリアルに思ってます。まだ、親父がバリバリだったら、そのときにリベンジマッチなんてやってみたいですね。武道じゃなくてもいいですけど、格闘技転向はかなり積極的な選択肢のひとつです。
でも、確かに勝ててからは楽しかったですけど、勧められてノリで始めた柔道って感じで、特別やりたいって感じでもありませんでした。あと、中学の柔道部が坊主確定演出と知ってからは、なんとか柔道部に入らない口実を作るために、小学校高学年から競技転向を模索し始めていました…。
そんなこんなでちゃんと柔道をやっていたのは小学生のうちだけでした。
Chapter2.天才発明家あつヤング
小学校6年生になって、僕の異端児性というか、悪い意味でのカリスマ性を評価してくれる大人が出始めました。ガキにそんなことしたら勘違いを引き起こすので危険です。
『図工』という科目からも夏休みの宿題は出題されてました。選択必修で、課題からひとつ選んで制作するという形でした。選択肢の中には、動物愛護ポスターとか、選挙運動ポスターとか、the小学生の夏休みの宿題みたいなやつがズラリ。ただね、僕は絵が苦手だったんですよ。で、選択肢の中に、絵じゃないやつがあって、消去法でそれに取り組みました。
『創意くふう作品』という課題でした。要は発明品を創ればよかったのです。発明品といっても、画期的なロボットとか、AIシステムじゃなくて、もっと身近なものです。百均とか、百貨店に、今までありそうでなかった丁度いい便利グッズみたいなのってあるじゃないですか。そういうのを創ればいいのです。
すでにアイディアは思いついていて、群馬大学のガキ向けの科学サイエンスラボみたいなのに参加しているときに思いつきました。
何を作ったかというと、大したものは作ってなくて、ドライヤーを固定できるスタンドを作りました。いや、何に使うんやと思うでしょ。ドライヤーを固定して使うと、両手を使って髪を乾かせるんですよ。いや〜、画期的でしょ!()。
まあ、正直夏休みの宿題の課題なんて出せばいいみたいな感じで、ヤケクソ提出でした。
でもね、これがなんかウケちゃったんですよ笑。
伊勢崎市のコンクールで、地元紙の上毛新聞社賞を何故か頂きました笑。勘弁してください。
こういう系で始めて表彰されました。誇れることです。
で、勢いはとまらず、県でも表彰されました。学校の授業を休んで表彰式にいくという、マジでよくわからん展開。生きる時代ガチャって大事や〜…😅
まあ、この作品はヤケクソ提出だったので、大した思い入れはなかったですけど、ものづくりは昔から好きで、テレビでロボコンとか見るのが好きでした。だから、中学に入ったら、柔道部(にはいると坊主にされるので、)じゃなくて科学部なんて面白そうだな〜と思ってました。
ちなみに小学校のクラブ活動では3年連続、実験クラブで、クラブ長もやってました。こういうの好きっす。
Chapter3.ハードラーあつヤング
柔道以外にも習い事はいくつかやらせて貰っていました。贅沢なガキです(定期)。
塾に通わせてもらったり、ピアノに通わせてもらったりしてましたが、実は陸上教室にも週1だけですが通わせてもらってました。
動機としては、主にダイエット。柔道が強くなり始めた小学校高学年から体重も増加!😭
これはいかんと思い、走りたかったんです。
あとは、柔道をやっていたこともあり、体力がまあまああって、マラソン大会では中学年くらいまで活躍できていました。ただ、周りがサッカーやら野球やら始めると流石に柔道の体力ではランに対応できなくなり、マラソン大会で勝てた相手にも勝てなくなり、それも嫌で通ってました。
種目は長距離が良かったんですけど、大して速くなかったしキツかったので、短距離なんてどうだろうと思いました。リレーとか憧れていましたし。
ただ、流石に柔道少年の重い身体に短距離はキツくて、穴場のハードルに味をしめてました。
で、何故か50mのタイムより50mHのタイムの方が速いとかいう現象も起こりました😅
別に速くなかったです。チーム状況的にハードルなら選手になれるからハードルやってたというだけで、大会では箸にも棒にも掛からない結果でした。
でも、1個上に憧れのハードルの先輩がいて、その先輩が中学の陸上部でもハードルをやってると知って、中学でもハードルやりたいなと思うようになりました。
柔道からの脱出準備は整ったってわけです。笑
こんな感じで、柔道(というより坊主)から逃げるようにして出会った陸上競技。中学でも陸上競技をやることになるのですが、この選択が後に人生を狂わせることになります。
さて、どうなるあつヤング?! 死ぬな! 生きろ!!
↓次回!!
番外編.why am i atsu-young?
知りません。ただ、最初はあつヤングコーンというニックネームでした。が、これは全く流行っておらず、みんな僕のことは敦哉呼びです。
恐らくですが、友達の兄貴があつヤングコーンと呼んでた気がします。そう呼んでたのは彼だけですが。
あと話変わりますが、昔から、名前で呼ばれることが多かったです。だからあんまり名字に馴染みみたいなのがなくて笑。児童を名字で呼ぶ先生も僕のことは、敦哉って呼んでました。敦哉顔なんですかね。まあ、金子顔じゃないだけって説もありますが。名字に馴染みがない分(?)、この『敦哉』って名前が気に入ってます。最近は、あつヤングとか、ヤングって呼ばれることが増えましたが、敦哉って呼ばれると懐かしいというか、別の嬉しさがあります。まあ、あつヤングでも、ヤングでも嬉しいね。
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