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自己紹介【中学生篇】

みなさんこんにちは!
おるたなチャンネルのないとーです。ウィン!
渋谷ジャパンです。

おはようございます。中学生の頃の経歴を書き連ねていきます。

僕が初めてハマったYouTuberはおるたなチャンネルでした。
何が好きかと言われたら、言語化しにくいんですけど、ちょうど見たい企画を攻めてくる感じに沼ってました。あとは明るいテンション。
当時はスライムとかぷよぷよボールとか流行ってましたから、そういったものを使った企画が好きでした。
最近はおるたなチャンネルのみならず、YouTubeはそんなに観てないです。ごめんなさい。勉強し直します。

前回までのあらすじ↑

中学入学を控えたあつヤング




Chapter1.ロングジャンパーあつヤング

小学校のときからぼちぼちやっていた陸上競技、当時は大会に出るには穴場だったという理由でハードルをやっていました。が、そこで憧れの先輩との出会いを果たし、追いかけるように中学でもハードラーの道を目指し、陸上競技部の門を叩きます。

しかし!なんということや!
中学になってハードルの高さがゴリ高くなったではありませんか!
柔道から競技転向してきた自分は体重が重すぎて飛べません!
終わったーーー😭😇😇😇😇😇

詰んだ僕を見かけた監督が、幅跳びへの転向を勧めてくれました。やりたいのはハードルでしたが、1年間幅跳びで跳躍力を培ってからハードルへ戻るという提案に乗ることにしたのです。

あつヤング、飛ぶ

とはいえ、クソ雑魚でした。自己ベストは4m85cmとかだった気がします。

部活自体も、ただ言われた練習をこなしてるだけで、強くなりたいという気持ちはありましたが、今思えば強くなれたらいいな〜程度で別に頑張ってはいませんでした。それじゃあ、才能があるわけじゃあるまいし、強くなれるはずがありません。

怒られないように練習をみんなでこなすという達成感は間違いなく楽しくて青春でした。そういう意味では部活って感じでした、が、プロフェッショナルとはほど遠かったですね。

そもそものポテンシャルが低かった分、流石に適当に練習をしていても、少しずつ記録は伸びていきました。
一応短距離ブロックということもあり、朝練でドリルもやっていましたから、他の運動部よりは幾分、スプリント能力はありました。ただ、ちょっと速いサッカー部とか、野球部には普通に負けましたけどね😇




Chapter2.爆誕! YouTuberあつヤング

変なことをやって、みんなに観てもらって、楽しんでもらうことが好きでした。
実は小6の誕生日に2万5千円のビデオカメラを購入していて、当時から旅番組を撮影していたのですが、ここからTV番組というよりYouTubeっぽい動画作成にシフトしていきます。

色んな企画を撮影しました。YouTuberのマネというより、常にYouTuberを超えるように謎に頑張ってました笑

テレビ朝日に乱入

このBlogには動画を貼ることができない(多分)ので、話を盛り上げることは難しいんですけど、割と原点はこの頃にあります。

ちなみにYouTubeには動画は投稿していませんでした。(昔は)ヤンキー中学校だったので、規制が厳しくて、あんまり自由な行動が許されていませんでした。
そうしたところでフラストレーションが溜まっていき、のちに僕は、校則がない(当時)高校に進学することになります。




Chapter3.本業迷走あつヤング

中学1年の冬。短距離も走り込みの季節です。400m×3のインターバルなど、長めのメニューも登場しました。そういったメニューで、短距離の実力以上に力を発揮した僕を見て、監督は夏に駅伝もやってみないかと提案してくれます。

僕の中学校では、3年生の夏までバリバリの短距離選手だった先輩が、最後の秋だけ長距離転向して、駅伝も走るみたいな風習があって、僕もそれに憧れていたので、2年生のうちにそれを達成したいなと思っていました。(本業の短距離はクソ雑魚でしたが…)

そうして2年目の夏を迎え、駅伝部が発足しました。僕は陸上部短距離と駅伝部を兼部することにしました。
夏休みは地獄でした…。朝は駅伝部で6kmのペース走、午後は陸上部で短距離の練習をしていたので、なまっていた身体が少しずつ絞れていきます。

しかし!頑張りましたが、先輩方や長距離を専門としている選手たちとの壁は高く、メンバー入りを果たすことは出来ませんでした😭

それでも、オープンチームとして監督が出走させてくれました。これが人生で初の駅伝です。

夢だった駅伝 初出走
中間地点でブレーキを悟る

区間順位とかは全く覚えていませんが、とにかく歯が立たなかったことは覚えています。
順位は上げることもできませんでしたし、かと言って、抜かれてはなかったと思います。不発デビューでした。

とはいえまだ2年生ですし、僕の本業は幅跳び。いい経験ができたと思います。


9月の新人戦。幅跳びとハードルに出場する予定でした。しかし、あつヤング、まだこの時期になってもハードルを3歩で飛び越えられませんでした😅
監督からの勧めもあって、幅跳びと800mに出場することに!
なかなか無いですよ笑。この組み合わせ
その結果がこちら。

安定の😭。
専門外にしては思っていたより速く走れた?

大会が終わったあと、監督と二人で話した記憶をまだ鮮明に覚えています。
長距離もやりたいです。って自分から言いました。

しかし、まだハードラーの夢も捨てきれず、短距離の練習に参加する日と、長距離の練習に参加する日がありました。僕みたいなイレギュラーな人間に対し、フレキシブルに対応してくれた監督。いつも、大きい声で怒鳴っていた印象も強いですが、熱血な方で僕たちのことをよく考えてくれていたのです。そういうことに気がつくのって大体、その監督と別れたあとで、この頃の僕は監督のことを恐がってビビっているばかりでした😇

まあなんやかんやあって、長距離も少しずつ本格的に取り組み始めます。




Chapter4.長距離ランナーあつヤング

2年生の冬頃から本格的に長距離転向します。正確に言うとハードルやリレーの短距離系と半分ずつの取り組みだった気がしますが、長距離をやった記憶しか鮮明に覚えてないので、長距離にしっかりシフトしたってことにします。

2年生の1月にあった、群馬県の新人駅伝ではメンバーに選んでもらいました。
しかし、なんと2区。準エースが集う区間に投入されました!🤮

周りの顔ぶれを確認し、覚悟を決める(笑)
走る前に泣きそうになるあつヤング

苦しい走りになりました。またもや、全く歯が立たなかったです😭

区間21位のブレーキ(41チーム中)

とにかく悔しかったです。ガチ泣きしましたし笑
もっと頑張らなきゃって思いました。
次の区間では、現在、國學院大學で活躍してる青木瑠郁選手が快走してました。

話それますけど、群馬県伊勢崎市のレベルが高すぎるんですよ笑
同期には青木瑠郁(國學院)選手や松島竣成(専修)選手、少し先輩には塩尻和也選手や、西山和弥選手…。
レジェンドには諏訪利成選手も居て…。僕もそこに一石を投じていきたいですね…😈


2年生の2月。全中クロカンに出してもらいました。目的は、全国のレベルを楽しむこと。もちろん、ボコボコにされました。が、めっちゃ楽しかったです😁

優勝は石田洸介選手、7位に吉居駿恭選手
あつヤングは221位😇
なんと、144位に現在のチームメイトの大峡選手!
97位には現在信州大の出澤選手!
(勝手に紹介してごめんなさい🙏)

このブログを書いてるときに気が付きましたが、結構なメンツと走ってたようです笑。トップ選手と戦っていたことは知っていましたが、まさか大峡選手とここで既にバトっていたとは😅

ゼッケン344番:大峡謙選手
ゼッケン331番:金子敦哉選手

僕が大峡選手に負けていますが、僕はこれの後に控えたジュニアロード(5km)の調整として走ったので本気じゃないよ!笑
いや、ゆずくん速〜い😵‍💫


そして1週間後のジュニアロード。強風の中ですが、まあまあいいタイムで走れたんじゃないでしょうか。

優勝は15:55で塩原匠(現 順天堂)選手でした

まあ、風強かったですしこんなもんでしょう笑
18分切が目標だったのでOKです👌


こんな感じで僕は本格的に長距離に取り組むようになってきました。
特に冬は長距離のシーズンってこともあり、この頃はハードルもリレーも忘れて打ち込んでいました。
この頃は結構楽しかったですよ。この中2の冬くらい。純粋に走ることが楽しめていたような気がします。

しかし、3年生の春を迎え、金子敦哉くんは病み始めてしまうのです。
走ることにハマり始めたはずなのに、走ることが嫌いになり始めてしまいます。どうなる?! あつヤング〜😮

次回に続く。。。


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