村上春樹の小説について、どのように語ればよいかわからない。ここまで大きく影響を受けてしまうと、うまく距離をとってピントを合わせるということができず、どこまでも主観的な語り口になってしまうからだ。もはや村上春樹の生き方すらも僕の目指す指標そのものになってしまっていた。孤独や人生が与える哀しみ、自分の半身が引き剥がされ、もう元の自分には戻れなくなってしまったような感覚。それらさえ村上春樹の小説によってもたらされ、ハンマーで頭を殴られたがごとく僕の中に消えない爪痕を残した。どうしてそうなってしまうのか? 村上春樹の何がそんなにすごいのか? あるいは、どうして村上春樹の小説だけが特別なのか?
……わからない。
すごいという表現には違和感が生じる。特別な主人公が登場するわけでもない(普通の感覚を持った人間だ)。
もちろん、しっかり読んでいくと、実体を持った深い歴史の知識が物語の根幹となっていることが分かるし、好奇心がもたらす向上心や、小説家としての絶え間ない修練が垣間見え、物語の土台を支える「文章」が次第に練達していく過程を読み解くことができる。それらは村上春樹の小説になくてはならないピースであり、村上春樹自身も文章を書く習慣は崩さないことを語っている。父親が教師だったことも関係しているのかもしれない。神戸生まれで、安価で手に入れられる海外のペーパーブックがルーツになっているのかもしれない。元々文学や音楽が好きだったことも、大学で映画の脚本を学んでいたことも、ジャズ喫茶経営の経験も村上春樹文学のピースになっていることは間違いない。しかし、それらはあくまでピースであり、同じ経験をして、文章の習熟を怠らなければ同じような小説を書けるようになるわけではない。――もちろん。
才能というピースは当然ある。村上春樹の普遍的でありながら個人的な感覚が共感を生むというのも間違いない。しかし、村上春樹が小説家として生み出した作品の『ヴォイス』は単なる「共感」を与えることに留まらず、そのテキストと読者が「共鳴」し、物語が読者の心に棲まうようになってしまう。
共感を受けない人にはとことん村上春樹の小説は合わない。プロットなんてないようなものだし、初期の作品には稚拙な描写がころころ見つかるし、結局何が言いたいのかわからない「テーマ」のない文学。そういう批判は分かる、分かってしまう。でも、一度「共鳴」してしまった読者はそれが本質でないことを知っている。言葉でもたらされた言葉にならない感覚。それが胸の奥にある鍵付きの引き出しに残っているから、僕らはときどき村上春樹の小説を引っ張り出しては、テキストの至るところに目を留め、自分だけの安心できる部屋に戻ってきたかのようにふっと息を吐くのだ。
「風の歌を聴け」は村上春樹のデビュー作。ほかの小説に比べれば細部のこだわりや、物語の土台の強靱さなどはまだ見ることはできないが、それ故に初夏の港町に吹き抜けるような淡い風の歌を聴くことができる。村上春樹が小説を書くきっかけになった天啓そのままに書き下ろされている印象だ。自然に、等身大に、ただ風の音をスケッチするように。しかし、すらすらと読めてしまうテキストの中にも一筋縄ではいかない「つっかえ」があり、決して一言でまとめることのできない余韻を残す。
言葉によってもたらされる言葉にできない感覚。僕はそれだけを信用している。村上春樹の解説本なんて『糞くらえ』だ。ただ、村上春樹の小説を読んで感じたことだけを大切にしていきたい。その感覚だけを忘れずに生きていきたい。
以下、引用。村上春樹の作品を模写(模描?)するのは楽しい。当然といえば当然のことだが、自分で書き写したものでも村上春樹の『ヴォイス』が消えることはない。
この文章には何度も助けられた。小説を書きたいと思いながら何も気の利いた言葉が頭に思い浮かんでこないとき、何度もこの文章を読み返しては僕も同じように慰められていた(小説を書きたいなんて思ったのも村上春樹のせいだちきしょー)。
『結局のところ、文章を書くという行為は自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ』
……なんですか、この救いと絶望が絶妙に入り混じった表現は。
「風の歌を聴け」の冒頭は好きで、すべて書き写したくなってしまう。重苦しくはない。ネガティブに沈んでいるわけでもない。それでも、僕の心の暗い部分に自然と入り込み、じんわりと共鳴を果たしていく。優しく包み込むとか、心が温かくなるというのではない。ただ、僕の心とそのテキストが同化していく感覚。
そして、それは「僕」でもある。
ここら辺のリズム感、ユーモアも好きだ。
季節は過ぎる。人は死んでいく。実にいろんな人々が、いろんな思いを抱きながら。僕は・君たちが・好きだ。その一節に、読後感をすべて持っていかれる。音楽は終わっても、音楽がもたらしてくれた魔法は消えない。