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僕らが聴いた風の歌

 村上春樹の小説について、どのように語ればよいかわからない。ここまで大きく影響を受けてしまうと、うまく距離をとってピントを合わせるということができず、どこまでも主観的な語り口になってしまうからだ。もはや村上春樹の生き方すらも僕の目指す指標そのものになってしまっていた。孤独や人生が与える哀しみ、自分の半身が引き剥がされ、もう元の自分には戻れなくなってしまったような感覚。それらさえ村上春樹の小説によってもたらされ、ハンマーで頭を殴られたがごとく僕の中に消えない爪痕を残した。どうしてそうなってしまうのか? 村上春樹の何がそんなにすごいのか? あるいは、どうして村上春樹の小説だけが特別なのか?

 ……わからない。

 すごいという表現には違和感が生じる。特別な主人公が登場するわけでもない(普通の感覚を持った人間だ)。
 
 もちろん、しっかり読んでいくと、実体を持った深い歴史の知識が物語の根幹となっていることが分かるし、好奇心がもたらす向上心や、小説家としての絶え間ない修練が垣間見え、物語の土台を支える「文章」が次第に練達していく過程を読み解くことができる。それらは村上春樹の小説になくてはならないピースであり、村上春樹自身も文章を書く習慣は崩さないことを語っている。父親が教師だったことも関係しているのかもしれない。神戸生まれで、安価で手に入れられる海外のペーパーブックがルーツになっているのかもしれない。元々文学や音楽が好きだったことも、大学で映画の脚本を学んでいたことも、ジャズ喫茶経営の経験も村上春樹文学のピースになっていることは間違いない。しかし、それらはあくまでピースであり、同じ経験をして、文章の習熟を怠らなければ同じような小説を書けるようになるわけではない。――もちろん。

 先頭バッターのデイブ・ヒルトン(アメリカから来たばかりの新顔の若い内野手だ)がレフト戦にヒットを打った。バットが速球をジャストミートする鋭い音が球場に響きわたった。ヒルトンは素速く一塁ベースをまわり、易々と二塁へと到達した。僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。晴れ渡った空と、緑色を取り戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれを確かに受け取ったのだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること(人はどのようにして走る小説家になるのか)』

 才能というピースは当然ある。村上春樹の普遍的でありながら個人的な感覚が共感を生むというのも間違いない。しかし、村上春樹が小説家として生み出した作品の『ヴォイス』は単なる「共感」を与えることに留まらず、そのテキストと読者が「共鳴」し、物語が読者の心に棲まうようになってしまう。

 共感を受けない人にはとことん村上春樹の小説は合わない。プロットなんてないようなものだし、初期の作品には稚拙な描写がころころ見つかるし、結局何が言いたいのかわからない「テーマ」のない文学。そういう批判は分かる、分かってしまう。でも、一度「共鳴」してしまった読者はそれが本質でないことを知っている。言葉でもたらされた言葉にならない感覚。それが胸の奥にある鍵付きの引き出しに残っているから、僕らはときどき村上春樹の小説を引っ張り出しては、テキストの至るところに目を留め、自分だけの安心できる部屋に戻ってきたかのようにふっと息を吐くのだ。

 「風の歌を聴け」は村上春樹のデビュー作。ほかの小説に比べれば細部のこだわりや、物語の土台の強靱さなどはまだ見ることはできないが、それ故に初夏の港町に吹き抜けるような淡い風の歌を聴くことができる。村上春樹が小説を書くきっかけになった天啓そのままに書き下ろされている印象だ。自然に、等身大に、ただ風の音をスケッチするように。しかし、すらすらと読めてしまうテキストの中にも一筋縄ではいかない「つっかえ」があり、決して一言でまとめることのできない余韻を残す。

 言葉によってもたらされる言葉にできない感覚。僕はそれだけを信用している。村上春樹の解説本なんて『糞くらえ』だ。ただ、村上春樹の小説を読んで感じたことだけを大切にしていきたい。その感覚だけを忘れずに生きていきたい。

 以下、引用。村上春樹の作品を模写(模描?)するのは楽しい。当然といえば当然のことだが、自分で書き写したものでも村上春樹の『ヴォイス』が消えることはない。

 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないのと同じようにね」
 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家が僕に向かってそう言った。僕が本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
 しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕にかける領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
 8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。――8年間、長い歳月だ。

 この文章には何度も助けられた。小説を書きたいと思いながら何も気の利いた言葉が頭に思い浮かんでこないとき、何度もこの文章を読み返しては僕も同じように慰められていた(小説を書きたいなんて思ったのも村上春樹のせいだちきしょー)。

 もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
 20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、ぼくはそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋を渡るように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってこなかった。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。
 
 今、僕は語ろうと思う。
 もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態はまったく同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くという行為は自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
 しかし、正直に語ることはひどく難しい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈んでいく。
 弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。付け加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。上手くいけばずっと先に、何年か何十年か先に救済された自分を発見できるかもしれない、と。そしてそのとき、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。

 『結局のところ、文章を書くという行為は自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ』
 ……なんですか、この救いと絶望が絶妙に入り混じった表現は。


 ハートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。
 「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分を取り巻く事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」
 僕がものさしを片手に恐る恐る周りを眺め始めたのは確かケネディー大統領の死んだ年で、それからもう15年にもなる。15年かけて僕は実にいろいろなものを放り出してきた。まるでエンジンの故障した飛行機が重量を減らすために荷物を放り出し、座席を放り出し、そして最後には哀れなスチュワードを放り出すように、15年の間僕はありとあらゆるものを放り出し、そのかわりにほとんど何も身につけなかった。
 それが果たして正しかったのかどうか、僕には確信は持てない。楽になったことは確かだとしても、年老いて死を迎えようとしたときにいったい僕に何が残っているのだろうと考えるとひどく怖い。僕を焼いた後には骨一つ残りはすまい。
 「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない」死んだ祖母はいつもそう言っていた。
 祖母が死んだ夜、僕がまず最初にしたことは、腕を伸ばして彼女の瞼をそっと閉じてやることだった。僕が瞼を下ろすと同時に、彼女が79年間抱き続けた夢はまるで歩道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった。

 「風の歌を聴け」の冒頭は好きで、すべて書き写したくなってしまう。重苦しくはない。ネガティブに沈んでいるわけでもない。それでも、僕の心の暗い部分に自然と入り込み、じんわりと共鳴を果たしていく。優しく包み込むとか、心が温かくなるというのではない。ただ、僕の心とそのテキストが同化していく感覚。

 僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヶ月かけて一行も書けないこともあれば、二日三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。
 それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
 十代の頃だろうか、僕はその事実に気づいて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える……そんな気がした。
 それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートの真ん中に一本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。
 僕が認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い溝が横たわっている。どんな長いものさしを持ってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。真ん中に線が一本だけ引かれた一冊のただのノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。

 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で思索に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。
 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。
 そして、それが僕だ。

 そして、それは「僕」でもある。

 文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのと同じだ。いいかい、ゼロだ。もし君がお腹が空いていたとするね。君は「お腹が空いています」と一言喋ればいい。僕は君にクッキーをあげる。食べていいよ。(僕はクッキーをひとつつまんだ)君が僕に何も言わないとクッキーはない。(医者はいじわるそうにクッキーの皿をテーブルの下に隠した)ゼロだ。わかるね? 君はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア・ゲームだ。やってごらん。
 僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃあ消化不良だ。
 消化不良……。

 次に僕たちがやったことはフリー・トーキングだった。
 「猫について何でもいいから喋ってごらん」
 僕は考える振りをして頭をグルグルと回した。
 「思いつくことならなんだっていいさ」
 「四つ足の動物です」
 「象だってそうだよ」
 「ずっと小さい」
 「それから?」
 「家庭で飼われていて、気が向くと鼠を殺す」
 「何を食べる?」
 「魚」
 「ソーセージは?」
 「ソーセージも」
 そんな具合だ。
 医者が言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことがなくなったとき、文明は終わる。パチン……OFF。

 14歳になった春、信じられないことだが、まるで堰を切ったように僕は突然しゃべり始めた。何をしゃべったのかまるで覚えていないが、14年間のブランクを埋め合わせるかのように僕は3ヶ月かけてしゃべりまくり、7月の半ばにしゃべり終わると40度の熱を出して3日間学校を休んだ。熱が引いた後、僕は結局のところ無口でもおしゃべりでもない平凡な少年になっていた。

 ここら辺のリズム感、ユーモアも好きだ。

 やあ、元気かい? こちらはラジオN・E・B、ポップス・テレフォン・リクエスト。また土曜日の夜がやってきた。これからの2時間、素敵な音楽をたっぷりと聴いてくれ。ところで夏もそろそろおしまいだね。どうだい、良い夏だったかい?
 今日はレコードをかける前に、君たちからもらった一通の手紙を紹介する。読んでみる。こんな手紙だ。
 
 「お元気ですか?
 毎週楽しみにこの番組を聴いています。早いもので、この秋で入院生活ももう三年目ということになります。時の経つのは本当に早いものです。もちろんエア・コンディショナーのきいた病室の窓から僅かに外の景色を眺めている私にとっての季節の移り変わりなど何の意味もないのだけれど、それでも一つの景色が去り、新しいものが訪れるということはやはり心躍るものなのです。
 私は17歳で、この三年間本も読めず、テレビも見ることができず、散歩もできず、……それどころかベッドに起き上がることも、寝返りを打つこともできずに過ごしてきました。この手紙は私にずっと付き添ってくれているお姉さんに書いてもらっています。彼女は私を看病するために大学を止めました。もちろん私は彼女には本当に感謝しています。私がこの三年間にベッドの上で学んだことは、どんなに惨めなことからでも人は何かを学べるし、だからこそ少しずつでも生き続けることができるのだということです。
 私の病気は脊椎の神経の病気なのだそうです。ひどく厄介な病気なのですが、もちろん回復の可能性はあります。3%ばかりだけど……。これはお医者様(素敵な人です)が教えてくれた同じような病気の回復例の数字です。彼の説によると、この数字は新人投手がジャイアンツを相手にノーヒット・ノーランをやるよりは簡単だけど、完封するよりは少し難しい程度のものだそうです。
 時々、もし駄目だったらと思うととても怖い。叫び出したくなるほど怖いんです。一生こんな風に石みたいにベッドに横になったまま天井を眺め、本も読まず、風の中を歩くこともできず、誰にも愛されることなく、何十年もかけてここで年老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思うと我慢できないほど悲しいです。夜中の三時頃に目が覚めると、時々自分の背骨が少しずつ溶けていく音が聞こえるような気がします。そして、実際そのとおりなのかもしれません。
 嫌な話はもうやめます。そしてお姉さんが一日に何百回となく私に言い聞かせてくれるように、良いことだけを考えるように努力してみます。それから夜はきちんと寝るようにします。嫌なことは大抵真夜中に思いつくからです。
 病室の窓からは港が見えます。毎朝私はベッドから起き上がって港まで歩き、海の香りを胸いっぱいに吸いこめたら……と想像します。もし、たった一度でもいいからそうすることができたとしたら、世の中がなぜこんな風に成り立っているのかわかるかもしれない。そんな気がします。そしてほんの少しでもそれが理解できたら、ベッドの上で一生を終えたとしても耐えることができるかもしれない。
 さよなら。お元気で。」
 名前は書いてない。
 僕がこの手紙を受け取ったのは昨日の3時過ぎだった。僕は局の喫茶室でコーヒーを飲みながらこれを読んで、夕方仕事が終わると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。君の病室から港が見えるんなら、港からも君の病室も見えるはずだものね。山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のものもあれば、会社のものもある。実にいろんな人がそれぞれに生きたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久しぶりだった。でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。
 僕は・君たちが・好きだ。
 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。
 彼女のリクエストをかける。エルヴィス・プレスリーの「グッド・ラック・チャーム」。この曲が終わったらあと1時間50分、またいつもみたいな犬の漫才師に戻る。
 御静聴ありがとう。

 季節は過ぎる。人は死んでいく。実にいろんな人々が、いろんな思いを抱きながら。僕は・君たちが・好きだ。その一節に、読後感をすべて持っていかれる。音楽は終わっても、音楽がもたらしてくれた魔法は消えない。

 


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