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私になるまで

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2020年4月の記事一覧

私になるまで27

私になるまで27

アラフォーになり、少し自分のしたいことをしようと、以前から絵が描きたいという思いを持っていたが、中々手がだせないでいた。思いきって、小学生の時お世話になった恩師に手紙を書いた。その恩師は、地域の絵のサークルに入っていた。だから、私の手紙を送った後にすぐ返事が来て、「絵描くの賛成!一緒に描こう。」ととりあえず、道具を揃えるところから手伝ってくれた。油彩画を描くのは初めてだったが、「水彩画と同じ。ただ

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私になるまで22

私になるまで22

新緑の季節だったと思う。またまた友達の車で講演会に行く。この時は職場のおばちゃんが、「私も二次障害の事知りたい。」と3人で行くことになった。場所は、神戸。あの大地震が起きる数ヶ月前の神戸だった。詳しい場所は忘れてしまった。割と大きな建物の大会議室って感じ。前にスライドを映すスクリーンがあり、先生はそこに映し出される症例を見て説明する。身体が歪み車椅子に座るひと。首の手術後の様子。首のMRI写真。見

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私になるまで19

紹介してもらった作業所に履歴書を送ると、その作業所の事務局長なる人物から電話がかかてきた。会いたいから、来てください。最寄り駅でこちらに連絡して貰えたら、迎えに行きます。」それで連絡先の電話番号をメモして電話を切る。

よし!今度こそ!と気合い入れる。

面接当日。ー大阪駅から4駅目だったと思う。ーで下車、電話をかけようと番号を書いた紙の切れ端。カバンから出そうと探す。え〜忘れた。頭が真っ白になる

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私になるまで18

先行き不安な私に、ゼミの先生が、大阪市内で自閉症の人達の作業所を立ち上げるから、行ってみないかと、救いの手を出してくれ、とりあえず面接に行く。中度知的障害があり、その母親と共に待つビルの一室で面接。「あなたのようなな端的に指示を出してくれる人が欲しいです。」あまり初対面の人とベラベラ話す事が、苦手な私をそんなに喋れない人だと思ったらしい。給料はちゃんと払うと言うので自閉症の人との関わりは少し不安だ

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私になるまで17

そもそも「普通」って何だろう?普通に暮らす。普通に学校にいく。普通に仕事する。

何故かそれが一般的な考えになっている。大学4年時は、バブルも弾け就職氷河期に入った時。バブル期は人材確保に企業も引っ張りだこの学生は就活に苦戦を強いられる。私は、あと一年頑張って採用試験を受けようかと悩んだが、やめた。

卒業まであと少し。進路の決まってない子もいたが。私の友達はだいたい行き先を決め次のステップへの準

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私になるまで23

私になるまで23

当時、私は市の障害福祉課からヘルパーさんを週2回利用するようになった。自分でやれば時間がかかる「そうじ、洗濯、ご飯の下ごしらえ」をサポートしてもらう。

これで少し生活は楽になった。しかしあの時ヘルパーに「浅野さんならこのくらい出来るんじゃない?」その些細な一言が胸に突き刺さる。そう!出来るよ。ちょっとだけ無理すれば。心の中で囁く。その時は、まだ首の状態が酷い訳でもないし。外出は1人で出来る。だか

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私になるまで20

翌週から働き始める。ハウスはマドレーヌ、パウンドケーキ、アイスボックスクッキーを事務所より受注連絡を受け作る。工場を壁で区切りカウンター席があり、コーヒーを飲めるスペースがある。近くに団地があり、団地のおばちゃん達がコーヒーを飲みに来る。地域の中で溶け込んでる感じが凄くいい。それまで障害者は、山里外れたところに隔離するか、在宅で過ごす事が多く、だから障害のある人に対して差別や誤解が生まれる。知的障

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私になるまで21

私になるまで21

翌週の土曜日、再び友達の車に揺られて病院に行く。

予約制のようで、待ち時間なしで、診察室に入る。細面の三十代くらいの医師が、私の首のレントゲンとにらめっこしていた。私たち2人に気づくと、穏やかな表情を浮かべ、友達に「彼女?」と尋ねる。ふたり顔を見合わせ、頭を横に振り。「友達です。」即座に答える。先生はちょっとニコッとし、「これMRI撮ってみないとわからんけどもしかすると、手術になるかも。」首の手

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私になるまで24

私になるまで24

親に啖呵を切り一人暮らしを続行した私は、自問自答する。「私のやりたいこととは何?」

今まで地域の中で普通の生活をしたい。その一心で頑張ってきた。少しだけ背伸びしていただけなのに。今までの生活は間違いだったのだろうか?いや、答えなんて無いのだ。前へ前へ進まなければ。自分が自分でなくなりそうな不安に駆られた。

けれど今までの事を振り返ると、私は人徳な部類に入るだろう。いつの時も、良き理解者に恵まれ

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私になるまで25

私になるまで25

辛辣な思いはしたけれど、私は大切なものを授かった。2つの生命。しかしまぁ2度も出産したものだ。周囲の反論はあったが、「会いたかった。」ただその後にどんな苦労が待ち受けていたとしても、自分の遺伝子を持った我が子に会いたかった。上の子が5歳の時私に「なんで私を生んだん?って聞かれたことがある。横にいた私の母は、言い訳のように「あんたに色んな事させてあげよと思ったからやよ。」というも、なんか?って顔をし

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私になるまで26

私になるまで26

少し話は横道に逸れるが、本文を読んでくれてる方はご存知の通り、本名「浅野 愛」愛は「ちか」と読む。初めてあった人には、絶対に「あいさん」と呼ばれてしまうので、名前の上にルビを打つのが、学生時代からの癖になった。

ところで私は、とてもゆずが好きである。爽やかな香りの柑橘系の果物も好きだけど、私の敬愛するゆずとは、平成のさわやかフォークデュオのキャッチフレーズでデビューした2人組みの「ゆず」である。

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私になるまで28

43歳の誕生日が目前6月。母に付き添われて、クリニックの乳腺外科にあしを踏み入れる。受け付けが終わり、看護師の問診。私は何歳ですか?と聞かれ、まだ42なのに「43歳です。」と言ってしまう。若く鯖を読むならまだしも1つ歳を多めに言うなんて。余程緊張してたんだと思う。問診の後、「マンモグラフィ撮りますけどいいですか?」って言われ首を縦に振る。検査室で上半身裸にされ、検査機器の前に立たされ技師さんに「ち

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私になるまで29

朝日がビッグホエールの屋根を照らしている。そこは和歌山で1番大きいイベント会場だ。数年前ゆずもそこでライブした。病室の窓から見える風景だ。

その後中々和歌山には来てくれない。手術前日に入院しその翌日検査と手術、少しハードスケジュール。大部屋だったが、病院の配慮からか 広い部屋に私1人だけだった。脳性麻痺の乳がん患者は初めての受け入れらしい。看護師達も戸惑っている様子だった。しかししっかり受け答え

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私になるまで30

私になるまで30

ところで、ゆずライブのチケット先行予約は、どうなったか?退院したのが、エントリー目切りの2日前。ギリギリ間に合い、無事にチケットを取ることができた。

ライブ当日、ゆず友に会場で会う。私わぁーと思い切りハグされた。

元気になっての再会を喜ぶ。その後のライブはとても楽しかった。アリーナの真ん中より少し後ろ。ゆずは豆粒にしか見えなかったが、サプライズ!ゆずが後方に歩いて移動してきて2人で弾き語り。当

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