見出し画像

私になるまで25

辛辣な思いはしたけれど、私は大切なものを授かった。2つの生命。しかしまぁ2度も出産したものだ。周囲の反論はあったが、「会いたかった。」ただその後にどんな苦労が待ち受けていたとしても、自分の遺伝子を持った我が子に会いたかった。上の子が5歳の時私に「なんで私を生んだん?って聞かれたことがある。横にいた私の母は、言い訳のように「あんたに色んな事させてあげよと思ったからやよ。」というも、なんか?って顔をしたので、私は「会いたかったから。」って言うと、「ふーん。」と嬉しそうな笑顔になったのを思い出す。島での生活の中で、育児という大切な仕事を得た私だったが、その裏で父母やご近所さん、親戚の人の支えがなければ、成し遂げられなかっただろう。ど田舎の島での生活の中で子供達は色んな壁にぶち当たった。上の子は小学高学年にいじめにあった。その後中々友達が出来ないままだ。それでも登校拒否などせず、学校に通っていた。心の中に計り知れない傷を負っていただろう…それでも自分のしたいことを見つけた。小学生の時からものづくりが好きだった。高校生になる頃には自分で操作して折り紙を折るようになった。文化祭では毎年「○○の部屋」というものを設けてもらい作品を展示させて頂いた。その後ものづくりの学校に行った。

一方、下の子は、音楽好きで、小学生から高2までピアノ教室に通って、高校生活は吹奏楽に没頭した。それぞれが好きなことをみつけ、一心になる姿は私の宝物であり、誇りだ。この3月下の子は、高校を卒業し、自分の夢に向けて旅立った。

こうして、子供達は成長する中、私の身体に異変が出始める。40代は魔の時代になった。

今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。