私になるまで29

朝日がビッグホエールの屋根を照らしている。そこは和歌山で1番大きいイベント会場だ。数年前ゆずもそこでライブした。病室の窓から見える風景だ。

その後中々和歌山には来てくれない。手術前日に入院しその翌日検査と手術、少しハードスケジュール。大部屋だったが、病院の配慮からか 広い部屋に私1人だけだった。脳性麻痺の乳がん患者は初めての受け入れらしい。看護師達も戸惑っている様子だった。しかししっかり受け答えが出来るのが分かると、ちゃんと聞いたことに対して説明してくれた。入院し翌日は手術、何か体が火照る検査薬を点滴され、体が熱い顔も燃える。その後MRIを撮る。「動かないでください。」と技師さんに言われたが、自分は動いてないつもりでも、不随意運動があるため、頭がちょっこりうごく。その度に機械が反応し、「動かないでください!MRIに注意された。が撮るのは胸の断面図だったのでなんとか終わり、その後も検査室を回った。その後診察室へ、先生「お腹空いたやろ?もう少し頑張ってよ!」と言われ、お腹空いたというより喉がカラカラだった。この後麻酔医が、他の病院から来たら手術というスケジュール。それまで病室で手術着に着替え、両足を包帯でキツく巻かれ待機。中々麻酔医がこない。口の中がパサパサになりうがいくらいならいいと言われ何度もする。。母は前日から泊まっていた。大部屋だったが、付き添い用のベッドを用意してくれ、私の隣で大いびきをかいて寝ている。疲れてたのは分かるが、そのおかげで寝付けなかった。2人の娘たちは家でお留守番。ご近所さんが、学校に持って行くお弁当を、作ってくれたらしい。ありがたやー。

父は私と母を置いて、前日に帰り翌日いとこと共に来院した。いとこに笑顔で話していると、「強いな。」と言われた。スマホには大学時代の友やゆず友やSNSで出会った友達からのメッセージでいっぱいだった。ひとりじゃないという思いを笑顔の中に封じ込める。

夕方4時ようやく麻酔医が到着した。看護師に連れられて手術室に入る。テレビでよく見るような手術室。何人かのスタッフと執刀してくれる主治医が笑顔で迎える。名前と手術する部分を聞かれ答えた後、手術台に上がる。頭がチクッとした瞬間遠い記憶の中で意識は薄れた。私はゆずライブで飛び跳ねる夢を見ていた。だから、身体を揺すられて、私の名前を呼ばれた時、〘あと少しで終わりやったのに。 〙と朦朧とする中で思った。手術は4時間ほどで終わった。1晩観察室と呼ばれる部屋で過ごした。しばらくすると、主治医の先生が来て、「悪い部分はみんなとったからな。リンパの転移もなくて乳房も残せたからな。」と言われた。別に乳房があろうがなかろうが関係ないと思っていたけれど、何故か涙が出た。小さい腫瘍は2つあったらしい。このまま放置しておけばどんどんその小さい腫瘍が増えていくらしい。不幸中の幸いだった。

私の胸が洗濯板だったから自分で見つけることができ、早期に治療することが出来た。もしも巨乳だったら分からないまま、今こうして文章化することなど出来なかっただろう。人は永遠の命ではないけどまだまだやりたいこと、やらないといけないことがあった。子供達が成人するまでは、元気でいたいと、切に願った。

次の日から痛みはあったが、普通病室に戻り、途中2日間母は家に帰って、1人になるが、うちの親の友達が隣の市に住んでいたので。毎日お見舞いに来てくれた。市内に住む従姉妹も忙しい中来てくれた。うちの親があちこちに連絡をいれた。そんな事せんとい!っ言う私の意見は無視。親も我が子がガンだと知り不安だったのだろう。

母方の祖父母は癌で亡くなった。だから、母はよく「わたしもがんで死ぬ」っていうのが口ぐせだった。しかし自分を飛び越し娘がガンになってどれほど動転したか!心配かけてごめん!心の中でつぶやく。

その後5日後退院し自宅療養をした。これでもう終わり。と思ったが、その後ホルモン療法が待っていた。先生は「5年ホルモン剤飲んで」とその時は、言っていたが、今も飲み続けている。今は「10年でガンは完治する。」というのが医学界の常識らしい。ホルモン剤を飲むと副作用がでて、最初は更年期のような症状が出た。子宮ガンになる確率が高くなると半年に1度は婦人科で検診をするように言われたが、最近足が遠のいている。

今ガンは早期に治療すれば、怖い病気ではない。だから、検診を生きるためにして欲しい。。自分ももうそろそろ検診を受けなければ!と思う。


今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。