私になるまで20

翌週から働き始める。ハウスはマドレーヌ、パウンドケーキ、アイスボックスクッキーを事務所より受注連絡を受け作る。工場を壁で区切りカウンター席があり、コーヒーを飲めるスペースがある。近くに団地があり、団地のおばちゃん達がコーヒーを飲みに来る。地域の中で溶け込んでる感じが凄くいい。それまで障害者は、山里外れたところに隔離するか、在宅で過ごす事が多く、だから障害のある人に対して差別や誤解が生まれる。知的障害者も身体障害者も精神障害者も健常者も同じ土台で生き生き仕事する。地域の中で生きる意味とはその地域に溶け込んでるということだ。しかし、知的障害者はメンバーと呼ばれていた。給料も月1万。それ以上出すのは、限界があったのかもしれない。その時は軌道に乗り始めた時らしく、注文はどんどん増えている時期だった。材料を測り生地をこね、棒状にし凍らせて焼くのがアイスボックスクッキー卵、砂糖を合わせ泡立て、のの字が書ける程度になると、それに小麦粉を入れふんわり感を出すようにそっと合わせ、溶かしバターを加え型に入れて焼くのがマドレーヌ。バター、マーガリン、卵、をミキサーで捏ね、小麦粉を合わせまた混ぜ、抹茶やココアなどを加えて焼くのがパウンドケーキ。ほとんど無添加無農薬。手作り。私はメンバーと呼ばれていた人が材料を測り合っているかどうか確かめたり、喫茶の方のお金の管理がおもな仕事だったが、忙しくなると、私もクッキーを丸め生地を鉄板に並べる。マドレーヌも最初は、下手くそだったが、続けるとマシに作れるようになっていた。仕事は大変だったが、

楽しかった。今でも材料の分量を言えと言われたら言える。毎日の繰り返し。しかし、仕事が終わった後に同僚達と呑む酒は美味かった。障害者の自立について熱く議論し合う。その時言われた。頑張りすぎは良くない。出来ると思っても出来ないことは出来る人に任せたらいい。

そう言われたのが印象的だった。けれど今までの固定観念を覆されたことに反論する。出来ると思ってできないことを放棄するのはナマケモノと違うの?

違う。そうわかったのはまだまだ先の事で。私は一所懸命仕事した。

そうしているうちに、肩が痛くなりだし、次は首が痛くなった。

それを見兼ねた同僚の友達に、自分が通ってる病院の主治医に診せる為に私に有無言わせず連れていった。友達は痙直型脳性麻痺で特に足が不自由だった。車は、アクセルもブレーキも手で操作出来るもので、初めて乗せてもらった時は驚かされた。友達の主治医は、首のレントゲンを診てちょっと歪みがあるように見える。週一でこの病院に来ている首の専門の先生に診てもらえるように手配してくれ、再び友達についてきてもらい、診察を受けた。

今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。