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過去ログ「小記事の備忘録」

(経過説明)「今週までのパレット」に書いた記事の抜粋を、暇なときに「小記事の備忘録」に転記するつもりでした。

①しかし、転記自体が二度手間ですし、「小記事の備忘録」の構造上、目的地(例えば中ほどに)転記するのが、なかなか手間なのが分かったのです(閲覧と違って、行ったり戻ったりのスクロールが必要で、見出しクリックでは飛べません)。

②かといって、今までのように「今週までのパレット」に書きためておくと、ワープロソフトのようなワード検索が、note様では現状出来なさそうで、後が困りそうです。

③なので、今後記入する「小記事の備忘録」は、分野ごとに1ページをつかった、新しいものにする事を計画しています。独立したページにして、マガジンで綴じるのです。

独立したページがあり、直接書くようにすれば、単純にそのページの最上部に書き加えていくだけですから、①の問題は解決しそうです。そして、ページごとに見出し機能が使えますから、②の問題も概ねクリアできそうです。

その後も「今週までのパレット」は使いますが、内容は事務連絡が中心になると思います。③の「小記事の備忘録」へのリンクを付記すれば、読者の方々は今まで通り、最初に「今週までのパレット」を覗いていただくだけで、映画レビューのように目的地にご案内できそうです。

④小記事も映画のレビューのような独立記事にして、マガジンで綴じる方法も考えました。それがnote様の基本スタイルでありますが、独立記事にすること自体、敷居が高いです。それに、写真を吟味する事が、きっと文章を書くより時間がかかりそうなので、その際は、写真無しになりそうです。すると写真無しが多くなり、マイページが地味になりそうですね。そんな事を考え、消極的な気持ちで迷っています。

どちらにするか分かりませんが、近日中に移行したいなと、このような、事を考えています。

(2022.10.4現在、方針を決めて移行中ですので、こちらは過去ログとさせて頂きます)。

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新記事は各項目の上部にあります。

見て頂きありがとうございます。独立投稿しない小記事を、検索しやすいよう分類し、随時、ファイリングしています。

法律等については、在職中に勉強をした事を中心に(昔話として)書いていますが、記憶の書き換えも無いとは言えませんし、その後の法律改正等もありましょう。昨年買った六法全書があったとしても、今年、自動更新されるわけではありません。実用資料にするには法務省のホームページや担当する役所等にご確認ください。

今週までのパレット 小記事の備忘録


【 公務員 の話題 】・・・・・・・・

  (固定)一押しの公務員ドラマ

TVドラマ(漫画も)「健康で文化的な最低限度の生活」。ご承知のとおり、吉岡里帆さん主演の、区役所のケースワーカーのお話です。私の知る限り、公務員の仕事を、そして区役所内部の空気感を、とてもリアルに描いた稀有な作品だと思います。公務員の仕事は世間で言うようには楽ではありません。それを知るためにも、就職希望の方には、特にお勧めします。


  「公務員と徴兵」

それまでは考えたこともありませんでしたが、2012年に映画「赤いハンカチ」のレビューを書いて、初めて「公務員と徴兵」について気がついたのです。先の大戦当時には、もしかしたら、そんな事もあったのかもしれないと。

今の日本には徴兵制度もなく、憲法では戦争の放棄を謳っています。だから「公務員と徴兵」など歴史の中に埋もれた話であり、死語同然でしょう。しかし、ウクライナへのロシア侵略が起きた現在、日本でも他人ごとではありません。その場合、専守防衛の日本もウクライナのように本土で戦うことになるはずです。ウクライナの再現なのです。映画「生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事」の追記に書いた記事を、ここにも再掲しておきます。

『 追記Ⅴ 2022.3.29 ( 公務員は管轄に就く )

戦争で疎開する人々を描いたドラマは沢山あります。しかし、焼け野原になっても、おそらく多くの公務員は疎開できないのでしょう。命がけで、残っている住民のお世話をし、管轄を管理する責務があるからです。

先の大戦で、公務員は徴兵を免れたという噂があるようです。しかし、本当だとしても、徴兵を免れたというのは、あまり人聞きの良くない表現だと思いました。兵隊さんも役所の事務員も、公務員であることに変わりありません。そして、役所の事務員は自ら手を挙げて(ある意味「事務員への志願兵」)、公務員になったのです。

兵隊さんが不足しているからと言って、そんな役所の事務員を戦地に送り、欠員の役所に新人事務員を採用して育てるというのは、志願した者に対する敬意の問題や、労力の不合理があるように思います。そして、戦後の復興期などには公務員の仕事は山ほどあるはず。3.11で被災した自治体では公務員の数が足りず、全国の役所から応援にかけつけています。専門性が必要なため、アルバイトでは務まらないのです。

ですから、役所には手をつけず、別途、兵隊さんを採用して育てた方が理に適うのでしょう。そんな足かせがある公務員が疎開できるのは、この映画に描かれているような職務専念義務からの法的な開放が、必要なのだと思いました。

「公務員から徴兵しろ」という世論が出る事は予想できます。しかし、それは形を変えた公務員バッシングのような気がします。その上「国の存亡をかけた戦時に無政府状態にしろ」と言うのに等しく、国益を考えた時、国は簡単には受け入れないと思います。またエッセンシャルワーカーの一部にも、公務員に準じた措置が取られることがあったようです。

又、先の大戦当時と違い、現代の役所では電算化が進み、その対価として減員も進んでいます。電算化にはお金がかかりますから、減員とセットで行うのが定石のようです。そんな現代において、もし戦争で電算システムが破壊されたら、応急的に手作業で事務を行うのは大変な事です。手間も大変なら手順も違ってきます。その上、復興で追加の事務も出て来るでしょう。今と同じ職員数では、同じ事務は出来ない可能性が大きいです。だからといって、あわてて増員してもすぐにはベテランにはなれません。なのに、もし減員にでもなっていたら、さらに混乱は深まります。 』

   避難所は被災しない周辺自治体が設置する


『 日本での「美談」が欧米では「人権侵害」

またイタリアでは、災害が発生すると政府から州の市民保護局に対して、72時間以内に避難所を設置するよう指令が下ります。ここでのポイントは、指令を受けるのは、被災した自治体の市民保護局ではなく、その周辺で被害をまぬがれた自治体の市民保護局という点です。

日本では被災した自治体の職員が避難所に寝泊まりして、管理、運営を担当するでしょう。当然ですが、被災自治体の職員も、被災者なんです。避難所運営に奔走する自治体職員の姿が、日本では美談として取り上げられますが、アメリカやヨーロッパなら、人権侵害、あるいはハラスメントとして問題になるでしょうね。

――なるほど。避難所のあり方がハラスメントに該当する場合もあるんですね……。

避難所が、被災者の立場や人格を尊重しないハラスメント状態になっていることを支援者だけでなく、被災者自身も気づいていません。なかには、食事などの環境をよくすると被災者が自立せずに避難所に居着いてしまうと口にする運営者もいます。』

〈 『 「体育館を避難所にする先進国なんて存在しない」災害大国・日本の被災者ケアが劣悪である根本原因 』より抜粋 「BLOGOS」PRESIDENT Online2022年03月11日 12:57 (配信日時 03月10日 17:15) 〉

   公務員というサンドバッグ

『(フカボリ)悪質クレーム「カスハラ」、苦しむ公務員 暴言・説教・居座り・脅迫 』という記事が新聞にあり、被害は何割と書いてありました。しかし、直接住民と接する市町村役場のような場所では、被害100%だと言っても過言ではないと思います。では、なぜ調査では低く出たのか。多くの公務員は、記事にも書いてある通り、「行政窓口には正当なクレームは必要。市民にはその権利もある」ということを承知しています。その為、民間では「カスハラ」認定されるような事例は当然として、それ以上の迷惑行為であっても、「ご意見・ご要望」として謙虚に受け止めるのが、あるべき仕事、矜持だと思っているのです。だから比較的大きなトラブルだけをカウントしている可能性があります。

民間企業では質問しただけでも「カスハラ」扱いされかねない昨今ですが、(私の知る限り)役所内部では「カスハラ」という言葉を職員が使うことは暴言に近く、「クレーム」という言葉さえも無神経に感じられるほど、公務員はストイックなのです。TVドラマ「ハコヅメ~たたかう!交番女子~」に「警察官はサンドバッグ」という言葉もあったように。ですから、民間並みの基準で再評価すれば100%の被害だと言っても良いと思います。

もちろん、この傾向は、近年「しかし、業務に支障が出るような度を越したクレームは問題ではないのか」という考えも出てきて、再考する方向にはあります。新聞によると、改善策の一つとしては、「自治体職員の対応をできる限り共通化して、ばらつきをなくすこと」だと書かれています。そして「役務」と「サービス」の区別を明確にする事、「対応ルールの統一」だと。しかし、公務員の仕事には「公平と適正」が求められます。コンピューター受付のように対応を明確化していくことは、逆に、人間味ある接遇とは、相反する道に入って行く可能性があるのではと心配しています。このあたり難しい問題です。

(追記)多くの住民は「私の問題を解決して欲しい」と役所に訪れます。無意識に「一部の奉仕者」であることを要求してくるわけです。しかし、公務員は「全体の奉仕者」ですから、全体の視点から考えます。そうすると、同じ問題でも結論が違ってくることがあるわけです。ここにトラブルにつながる「宿命的」な問題があるように思います。

   自治体に学歴分断は少ない

@ (先日の新聞に「日本は学歴分断社会である」旨の記事がありましたが、それが少ない職場もあることをお知らせしたく、これを書きました。)一口に公務員と言っても色々あり、他の事は知りませんが、私の知る限り、自治体には、ほとんど学歴分断はありません。例えば、TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」(ケンカツ)の舞台になったような区役所では、課長クラスを高卒で務めている方もいらっしゃいます。主事(平職員)の間にも差別感情はありません。大卒も高卒も机を並べ、同じ仕事を分け合っているのです。上下関係はありません。そして、人格と能力で同僚・上司から評価されるのです。もちろん目上の人にはそれなりの敬意を払う事は必要ですが。

( 大・高卒の公務員比較についての私の過去ログがありましたから、以下に加筆再掲させていただきます。)

@ 大学の法学部卒の人と一緒に、法律を知らない高卒が役所の法律相談の窓口に立ち、はたして務まるのかという疑問があるかと思います。大卒でも全員が法学部卒だとは限りませんし。

しかし、例外もあるでしょうが、役所の通常業務程度の法律なら、新聞を読める程度の学力があれば、担当になってからの勉強で務まるのです。いや、担当になってから勉強をするのが、(専門職以外の)役所の基本システムでしょう。採用試験はその学習能力も見ているわけです。

役所の係は5年前後で人事異動がありますから、人事異動してきた素人は、遅くとも2~3年で一人前になる必要があります。そして後輩を指導する(そんなベテランも、異動後は指導を受ける立場になる。高卒も大卒もありません。定年までその繰り返し。だから、人間関係を狭くすると自分にも不利になる。それも学歴分断を防いでいる理由の一つだと思います)。ですから、仕事は整理されていますし、専門書もあり、研修も充実していますから、心配はいりません。そして、電話と窓口、書類の審査、実地調査等でいやおうなく鍛えられます。好き嫌いを言わず毎日を頑張ってさえいれば。そして新人も、2~3年でプロの顔になり、5年前後の人事異動で新しい係に去っていく、役人としての教養を増やしていくのです。ちなみに係長以上は2~3年で異動があります。

(追記)一口に役所と言っても、内部には①住民相手の部署と、②おもに上級官庁を相手にして連絡調整をしたり、マニュアルを作成したり、条例を作ったり、職員を指導したりする、管理的な部署があります。一流大学の法学部卒の人は、最初の数年間は①で修業をしても、その後は②に異動することが多いはず。よって、①に残っているのは、それ以外の人たちが多いので、極言すれば、高卒も大卒も似たようなものなのです。

(追記2)職員同士は、毎日顔を突き合わせて仕事をしている仲間の、実務能力と人格を評価基準にしますので、学歴は無関係だと言ってもいでしょう。もし執拗に仲間の学歴を気にする人がいたら、逆に変人だと敬遠されかねません。そんな中であえて同僚の学歴を話題にする場合、それは対象者を「あの人は学歴の割には・・・」と言外にほのめかす場合が多いかも。

(追記3)そんな役所の職員が、学歴よりも評価の対象にするのが、通称「バッジ」と呼ばれる模範職員のバッジです(どこの自治体にもあるのかは知りません)。就職すれば全員、職員バッジがもらえるのは当然ですが(職員番号が刻印されており、無くしたら始末書もの、退職時には返還しなければならない)、後々に、模範職員だと上層部から評価されると(学歴は無関係)、たぶん住民には区別がつかないほど、ほぼ同じデザインで、微妙にひとまわり大きなバッジがもらえるのです。しかし職員には分かります。これは、例えが適当かは分かりませんが、「職員の国民栄誉賞」みたいなもので、役所内の噂になりますし、一目置かれます。羨望と、もしかしたら嫉妬の対象にもなっています。異動する場合にも「バッジの人」は引く手あまたで歓待されます。

(追記4)どうしても大学に未練があるなら、高卒公務員になった後で、夜間大学に通う方法もあります。今はあまり流行らないかもしれませんが、一昔前はそんな苦学生も珍しくありませんでした。これで大卒の肩書になります。役所も協力してくれるはず。ただし、公務員試験は①高卒枠で合格しただけですから、給料は増えません。しかし、高度経済成長期と違って、今は民間より、概して公務員の給料の方が多いはずなので、それなりに良い生活ができると思います。

もっとお金が欲しいという方は、役所の②大卒試験に合格する必要があります。ただし、合格してもヒラのままです。

あるいは、①のままでも係長試験に合格すれば、係長以上になれるうえに、給料も上がります。大卒試験よりこちらの方がお得かもしれません(係長試験は大学に行く必要がありません)。

@ 高卒公務員の給料が安いと言う人は、大卒公務員と比較している場合が多いと思います。高卒と大卒を比較すれば、民間に就職しても高卒の方が安いのは普通でしょう。だから、本当は高卒公務員と高卒会社員の給料を比較すべきだと思うのです。そう思っていたら、この方のブログに分かりやすい比較表がありましたのでご紹介します。

https://texasinvancouver.org/3160.html

https://public-allabout.com/kousotsu-nensyu/

(追記)公務員の仕事の多くはマニュアル化されていますが、これは公平な仕事のためでもあります。しかし、住民の要望で例外の是非まで考える必要がありますので、机上ではなく実践的な法律が身につきます。役所の窓口で法律相談を受けるという事は、その道のプロになるという事です。そして5年前後の人事異動で、定年まで新しい法律を学び続けます。大変ですが、定年後には感謝するはず。

(追記2)有給休暇について書きます。民間の有給休暇は「絵に描いた餅」の場合もあるかもしれませんが、公務員の有給休暇は「職員の権利」です。だから完全消化は普通の話。土日・祝日とくっつけて長期休暇はあたりまえです(もちろん繁忙期は避けて)。同僚に(チョコ一粒づつでも良いので)お土産を忘れずに。

ちなみに有給休暇は翌年度まで繰り越せます。つまり就職した初年度に20日もらえたら(初年度は少ない場合もありますが)、5日しか使わなければ2年目は35日(繰越分15日+新規20日)になるのです。しかし、繰り越した15日は3年目には権利消滅しますから、2年目に完全消化する必要があります。こうやって、公務員は就職初年度は有給休暇をできるだけ取らないで仕事に専念し、2年目には前年度の分を消化するのです。以後、同様に、退職まで前年度の残り物を使い続けます。常に現年度分20日は保険に取っておくのです。つまり、皆、残り物の休暇を取っているわけなので、それも取得に寛容な理由の一つなのです。

(追記3) 海外旅行について書きます。総務課に渡航届を出す必要がありますが、渡航届といっても簡単で形式的なものです。危険な場所でなければ問題ないでしょう。旅行社や入管などに提出する書類の総量と比べれば、オマケみたいなもの。たとえ渡航届の制度が無くても、直属の上司には海外旅行の日程表のコピーを渡して挨拶しておくのは、必要な職場のマナーだと思います。

@ 人気TVドラマ「ハコヅメ ~たたかう!交番女子~」のヒロイン・川合麻依(永野芽郁さん)は20歳の設定です。警察学校も出なければなりませんし、年齢的にこちらも高卒公務員の可能性がありますね。良い先輩に恵まれて幸せ者ですね。

https://www.ntv.co.jp/hakozume/chart/

彼女が高卒だとしても、警察学校と警察官としての実務で様々な事を学びますから、22歳までの4年間は、大学に行っていたかように成長の時間になるはずです。そして、これは警察官だけでなく、区役所に職員になっても言えることだと思います。すぐ法律を学び、現場で実戦をしますから。

(追記)以前、例えば区役所では遅くとも2~3年で一人前になり、すぐ後輩を指導して、5年前後で次の係に去っていくと書きました。つまり、高卒18歳で配属されたひよっこ新人も、大卒と同じ22歳には一人前になり、自分の両親のような年齢の後輩や、アルバイトを指導する、係で中心的な存在になるのです。

その時、大きな係で職員が20人いる場合、15人ぐらいは後輩になっていることもあります。繁忙期にはアルバイトの大学生が10人ぐらい来ることもあるでしょう。そのアルバイトの女性が、自分とほぼ同じ年齢なのに20人もの職員の中心的な存在になって、法律に詳しく、職員・アルバイト・住民をもこなしている職員を見て、どう思うでしょうか。自分よりも優秀な人だと思っても不思議ではありません。

(追記2)公務員の仕事への満足度は概して低いと思います。大多数の人は、ただ安定を求めて公務員になったのですから、当然と言えば当然の帰結。「公務員になる=我慢」なのです。ただ、定年までに、その我慢の向こうに微かな喜びを見出せるかどうかです。人気TVドラマ「ハコヅメ ~たたかう!交番女子~」を観れば分かるかも。

公務員からの転職・独立の難しさですが、そもそも公務員になる人の多くはそれを希望していません。安定を求めるという気持ちには終身雇用も入っています。スキルについては(良くも悪くも)公務員らしさはスキルの内ですし、実践的な法律に詳しくなるのもスキルです。特に法律に関しては、在職中に独学で担当外まで勉強するようにすれば、税理士とか行政書士とか、そんな資格も夢ではないのではないでしょうか。(2021.7.11~2021.7.17の再掲)

@ 2022.2.19の記事の続きです。「高卒公務員は出世が遅い」という話があります。しかし、これは「民間でも高卒の出世が遅いのと同じこと」でしょう。公務員に限った話ではないと思います。

その上で申し上げますが、確かに公務員の出世には難しさがあります。大卒でも簡単ではないのです。係長試験(合格すれば係長以上になれる)という難関を突破しなければ、定年まで主事(平職員)のままになる自治体が多いためです。そして、昨今は「出世だけが人生の目標ではない」と考える職員も少なくありません。

( 以下は映画「箱入り息子の恋」の私のレビュー本文からの抜粋です。参考にご覧ください。ネタバレです。)

『 ところで、女の親、どこかの会社の社長らしいですが、総合的な雰囲気を見ると、大企業ではなく、中小企業の社長さんと言ったところですね。従業員は300人以下でしょうか。そんな彼が市役所勤続13年で、今なお平職員である男をお見合いの席で侮辱したのです。風采の上がらぬ男ですから、たたき上げの社長さんから見れば、ある意味「ぬるい奴」と見られても仕方ありません。

でも市役所と言えば、もっとも小さな市であっても、管轄内の住民は数千人おります。大都市なら100万人単位です。そんな市役所の担当者は、たとえ平職員であっても、多数の住民への仕事上の責務を背負っていることになるのです。ですから平職員と言うだけで、中小企業の人事と同じ物差しで計っていては判断を誤る事になります。

また、市役所の男が所属する係が全10人であったとします。その係長は、単に10人のトップであるだけでなく、多数の住民へ奉仕する係の責任者であるわけです。そうなると、さらに重責であり、試験は簡単ではありません。少しオーバーに言えば、もう一回市役所の採用試験を受けるがごとく難しい場合もあるのです。映画「県庁の星」で、すこぶる優秀な係長が出てきましたが、係長試験に合格するとは、概ね、ああゆう事なのです。

ですから、女の父の言動は的を射たものではなく、女の恋愛感情を無視したのと同じく、独善かつ偏向的なものであったのだと思います。』

(追記)公務員の係長試験は難しいと言いましたが、公平な試験でありますから、受かりさえすれば、出世欲のない人を追い越して(意外にいる)、やる気ある高卒が出世するという構図もあるわけです。そういう意味では公平ですね。では、民間企業ではどうかと言えば、例えば映画「箱入り息子の恋」に出てきたような、頑固なお父さんの会社の従業員が主人公だった場合、お父さんとは反りが合いそうもありませんから、(娘と結婚できない限り)出世は難しそうですね。他の会社であっても、出世は、公平な試験ではなく、上司・社長の裁量が入る余地が大きいのではないでしょうか。

(追記2)私の知る限り、市役所の昇任試験は係長試験だけです。試験内容は市役所の業務全般(担当者レベルの細かい部分まで出題される)と作文です。しかし、課長以上になるには試験は無く、民間と同じように上層部の裁量で合否が決まるようです。ハイブリッドな評価基準ですね。

(追記3)映画「箱入り息子の恋」で、父親が怒っていた裏の事情を考えると、盲目の愛娘、一人娘の幸せを考えて、次期社長候補の婿養子を取りたかったのでしょうか。それなら娘に不自由な生活をさせる心配はないでしょうから。そこに、出世しそうもない安月給の公務員(社長にはそう見えていた)が現れたわけです。これが、ぎらぎらと力のみなぎった男なら、公務員を辞めさせて自分の会社にひっぱればよいと思っていたのかもしれませんが、カエルのような男ではダメだと判断したのでしょう。それで、カエルに本音をぶつけた。「(公務員なら公務員でも良いが)13年たってもヒラなのか、出世を目指さないのか、野心は無いのか」と。

では、妻はというと、かつては、そんな野心にまみれた現夫に惹かれて結婚したけれど、今ではその野心が他所に女まで作っている。そんな浮気男より、ささやかな生活を大切にし、優しくて娘を大切にしてくれるカエルの方が、100倍良いと思っているのかもしれません。

そして、カエルは昇任試験を受けることにしたのです。映画「カサブランカ」でもふれましたが、「男が一人で生きていくには何をしても食べていけるが、結婚するなら、背筋を伸ばして日向を歩いて行かなければならない」という世界観が、ここにも描かれていたのかもしれません。

(追記4)ちなみに、妻が夫の浮気を知っても黙っていたのは、盲人の娘に良縁を誘うには、母子家庭よりも社長令嬢の方が良いと思ったからだと思います。娘が結婚した後に、妻は夫に不貞による離婚を迫るのでしょう。(2022.1.19~2022.1.20)

【 行政・政治 の話題 】・・・・・・・

 

 ( 戸籍・住民登録 )

   

   出生届の届出人

@ 既婚者から出生届が提出されると、自治体の窓口職員には、届出人を父にしたいバイアスが働きます。いうまでもなく戸籍の記載は一生(相続問題等で死後も)ついて回りますので、子どもが大人になってから要らぬ詮索をしないで済むよう、戸籍謄本の提出先の人が誤解をする事の無いように、戸籍の記載を無難なスタイルで確定しておくことを提案したいからです。後から説明不足だと言われても取り返しがつきませんし。

ちなみに、未婚者の出生届では届出人が(原則)母ですが、不用意に父に変更すると認知の効力が発生してしまいますので、質問を受けない限り窓口職員は静観するはずです。不慣れな新人職員が既婚者と同じ扱いをすれば、誤った認知が起こってトラブルになることもありますから注意が必要です。もし認知が必要なら後から認知届を出すことが出来ますので、誤って認知してしまうよりも良いのです。未婚者に対して「父はだれですか?」などという不躾な質問もせずに済みますし。

(追記)妻の氏を選択する婚姻届が出た場合も注意が必要です。ほとんどの婚姻届が夫の氏を選択している現在、誤記ではない事を届出人に確認しておく必要があります。

さらに、ほんとうは(婿養子)養子縁組婚姻のつもりではないのかの確認も必要です。養子縁組婚姻を希望しているのなら、まず「妻の両親」と「娘の夫になる人」が養子縁組届を出します。すると「妻の両親」の戸籍に養子として入るのです。娘とも同じ戸籍になりましたから、二人は同氏という事です。なので妻・夫どちらの氏を選択しても同氏になります。ただ、選択した方が戸籍の筆頭者になるのです。これは、単なる妻の氏を選択する婚姻とは似て非なるものです。相続関係にも影響してきます。この辺りご存じない方もいらっしゃるので、説明してから受け付けることが必要です。私の知る限り2/3ぐらいの方が養子縁組婚姻をご希望でした。

(追記2)追記で相続関係の話に触れましたが、銀行などでは出生から死亡までの除・戸籍謄本を提出しないと預金が下せなくなることがあります。除・戸籍謄本は、亡くなった人だけでなく、ご健在の方までのプライバシーの塊です。あれに顧客名簿をプラスすると、住所・氏名・生年月日・預金額・勤務先だけでなく、家系図のような親族・出生関係などの徐・戸籍情報も丸裸になるわけで、あらためて考えると、役所に続くような究極のプライバシー保持組織でもあったのだと思いました。

   出生届の届出期限

@ 出生届は出生から14日以内に届出することが定められています。もし、届出が遅れると5万円以下の過料に処せられることがあります。遅れた場合には、(現在は知りませんが)自治体での受付時に、遅延理由書のようなものも添付することが求められたと記憶しています。その内容で簡易裁判所が過料の審査をするためでしょう。

では、いわゆる内密出産の場合はどうなのか。両親の氏名を記した普通の出生届をした人が、一日遅れただけで過料を払うのに、内密出産の人が自動的に過料を免れるとしたら、行政として両者のバランスをどう確保するのか。国民感情としてはどうなのか。あるいは、裁判所が過料を請求する(あるいは免除する)対象者を特定するために、その書類を作るために、両親の名前は必要にならないのか。裁判所にも秘密にできるのか。そんな事が頭に浮かびましたが、過料問題は出生届を出した時点で発生する話しなので、出さなければ、そもそも問題にならないのでしょう。(2022.2.11)

   戸籍は役所の文書の大元になる

戸籍はすべての役所の文書の大元になるものと言っても良いでしょう(民間の文書にも大きな影響を与えます)。例えば生年月日が本人の申し立てと違った場合でも、通常、役所は戸籍を優先するはずです。それが不服な場合、本人は証拠書類を添付して戸籍係に戸籍訂正の申し出をし、認められれば、訂正後の戸籍謄本等をとって必要な部署に提出し、やっと変更が認められるのです。そのような重要かつ根幹的な戸籍事務に対して、役所と十分な協議をせず、「独断専行で現状変更をしようとする」者がいたとしたら、役所側からはどう見えるだろうかと考えるとき、不覚にも、無政府状態、あるいは香港や台湾に対する中国の視点を連想してしまいます。(2022.2.6)

 ( 税務 )

   

  「生命保険の乗り換え」「個人年金の受給時」の税金に注意

「生命保険の乗り換え」というものがあります。①旧・生命保険を解約し、②その解約返戻金で、③新・生命保険に加入するとします。すると、②の時点であなたの収入になり、税金の申告が必要になることもあるのです。あなたの手元に1円も残らなくとも。「自分の掛け金を返してもらっただけだ」という弁明があります。仰るとおり、自分の掛け金は経費となりますが、利息が付いていれば、利息分は計算対象になります。銀行預金を思い出せば理解できるでしょう。これは、乗り換えだけでなく、「個人年金の受給時」にも起こります。個人年金でも利息分は計算対象になります。(2022.2.20) 

   廃止された古い税制のお話

そう言えば、ふと「みなし法人課税」を思い出しました。現在は廃止された制度ですが、同じく廃止された「資産合算制度」と共に、若い頃に学んだ記憶があります。今年も申告時期が近づきましたね。 

(追記)もう正確には覚えていませんので、間違っているかもしれませんが、「みなし法人課税」とは、一定の要件の下、個人事業主の営業所得を給与所得と配当所得とみなし、給与所得控除と配当控除を余分に取れる制度だったと思います。つまり節税になるのです。しかし、どんぶり勘定では認めてもらえませんので、記帳を奨励する意味もあったのかもしれません。

「資産合算制度」とは、株の配当所得などは小学生の子供名義の場合もありますが、実態は親のものであり、子供名義にして課税逃れをしようとしている可能性も考えられるわけです。同じ金額でも子供名義にすれば、累進税率を回避できるかもしれませんし、基礎控除が余分に取れるからです。ですから、一旦、全部親の所得とみなして税額計算し、その税額を所得に応じて子どもに案分する計算方法です。当局は、これで公平が保たれると考えていたのかもしれませんね。

(追記2)実は資産合算制度は、時に役所にとっても厄介なものだったのです。配当所得は確定申告にも書いてありますが、別途、法定支払調書も出て来ます。確定申告で計算後に、遅れて法定支払調書が出てきた場合など、手計算で税額修正になることがありますが、正規の計算明細書を一件作るのに2~3時間かかってしまうのです。半日作業になりかねません。

小学生の子供にごく少額の法定支払調書が追加で出てきた場合など、徴収(賦課)の合理性と申しますか、増額される税金は職員の事務コストに比べてどうなのか、かえって損をするのではないのか、という問題もあるのです。それが、資産合算制度廃止の理由の一つだったかは知りませんが。(2022.2.3)

 ( 納税 )


 ( 福祉・年金 )  


   ベーシックインカム実現の問題点

ベーシックインカム実現の問題点。 これが正解だとか、これがすべてだとは言いませんが、とりあえず書いてみました。 

① 毎月10万円(あるいは7万円)を支給する予算はどこからもってくるのか。
② 予算のめどがついたとしても、毎月10万円(あるいは7万円)の現金支給だけでは解決しない社会福祉の問題は、どう解決するのか。
③ もし①②の問題が解決したとしたとしても、現在の社会福祉制度からベーシックインカム移行時に予想される不公平問題をどう解決するのか。

(追記)コロナ過もあってかベーシックインカムへの期待が高まり、先の総裁選挙ではこれに言及した候補の方がいらっしゃいました。あのプランは面白いと思いましたが、世論の関心は高くなかったようです。そうこうしている内に、ロシアのウクライナ侵略が始まり、防衛に対する常識がひっくり返される事態になって、日本も他人ごとではなくなりました。今は、日本の防衛を考える(予算も)ことが政治家の優先課題かもしれません。

(追記2)ベーシックインカムは、日本のような先進国よりも、社会保障制度があまり整備されていない開発途上国の方が、比較的導入しやすいのでしょう。既存の制度が未発達な分だけ、②③の問題があまり発生しないからですね。ですから、日本でも朝ドラ「おしん」の時代なら、もっと簡単に制度設計できたのかもしれません(国が貧しくて①の予算も無いかもしれませんが)。これは工業製品の改良の場合に似ています。改良する場合、旧製品との互換性を保つために、かなりのエネルギーを使うそうです。もし互換性を放棄すれば(当然に非難も予想される)、新技術のみに専念できますから、高みが違ってくるはずです。(2022.5.8)

①ベーシックインカムについてはこちらにも書いてあります。 

②ベーシックインカムについてはこちらにも書いてあります。 

③ベーシックインカムについてはこちらにも書いてあります。


   自治体間の情報共有の問題点

@ 例えば、施設に10人入居しているとします。10人とも入所前の住所地(市町村)は違います。

仮に、入居者Aさんに虐待を受けた疑いが持ち上がったとき、Aさんの自治体が調査をするようですが、調査をした結果、「虐待無し」との認定をした場合には、そこで終わってしまうようです。でも、そんな場合でも10の自治体すべてで情報共有しておけば、今後B~Jさんに虐待の疑いが上がった時に参考資料となるというご意見があるようです。「あの施設では虐待疑いが続発しているから怪しい」という重要情報になるのです。

しかし、Aさんに「虐待は無いとの認定」をしたのですから、裁判で言えば「無罪」という事だと思います。無罪なのにブラックリストに載せて他の自治体と情報共有するというのは矛盾しますし、営業妨害・名誉棄損・人権問題などにもなりかねません。それを考えると、軽々には、Aさんの自治体は外へ情報を出さないのだと思います。もし「虐待有り」なら自治体間で情報共有する正当な理由になりましょうが、情報共有したいが為にグレーゾーンを「虐待有り」にしたいバイアスが生まれては、それこそ冤罪事件になりかねません。「疑わしきは罰せず」の精神は忘れてはいけないと思います。

しかし、そこをかいくぐって虐待事件は起きたのです。これらをふまえると、仮に「虐待無し」まで情報共有をするにしても、一次的には「年月日と人数のみ」にする方が良いと思います。それ以上の情報開示は管理職決裁で個別に対応するのです。受けた自治体も外へもらさないように厳重管理することが必要です。(2022.2.8)

   扶養照会と民法の扶養義務の整合性

生活保護の扶養照会の話です。役所が行うおお元の根拠は民法の扶養義務だと思います。福祉事務所が民法との整合性を考え、さらに「生活保護に俺の税金を使うなら、その前に扶養照会しろよ」という世論にも配慮するなら、一次的に扶養照会を考えるのは定石だと思います。民法のその条項を廃止すれば良いのかもしれませんが、はたして公助良俗に叶う事なのでしょうか。そう考えると廃止は困難だと思います。

しかし、一方では生活保護申請者からの「やめて欲しい」という声も現実としてあるわけです。TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」の中にもこんな話がありました。申請者の老婆にケースワーカーが「扶養照会しましょう」と言うと、「息子に迷惑を掛けたくないので、やめときます」と答え、困らせていたのです。これは「息子には迷惑を掛けたくないので、他人のあなたに(納税者に)お金を出してもらいます」と言ったようにも聞こえるのですが、おそらく老婆には自覚が希薄なのでしょう。お金が天から降ってくるとでも思っているかの如く。こんな時、全体の奉仕者である公務員は、納税者に対しての正当な言い訳を、一人心の中で探しているのかもしれません。「いい加減な仕事をするな」と叱られることに怯えながら。

もし民法との整合性のため、扶養照会の完全撤廃ができないのなら、扶養照会ができる妥協点はどこなのか。現時点で私の考えるものは「税金の被扶養者である場合のみ、扶養者へ扶養照会をする」というものです。これをもって「便宜的に扶養照会したとみなす」のです。税金の申告書で「私が扶養しています」と自主的に申告しているわけですから、被扶養者が路頭に迷っている場合に「たすけてあげて」と役所が連絡するのは、(原則として)妥当な行為だと思います。それで、もし扶養者から「たすけられない」との返事が有れば生活保護を適用し、かつ「扶養親族名に疑義在り」として税務当局に通報すれば良いのです。税務当局は調査し、必要なら職権で扶養を取り消し、住民税・所得税を追徴することになるはずです。この場合、会社の扶養手当にも影響する可能性があります。

それ以上の扶養照会は、私は現状では厳格でなくて良いと思っています。不正受給は後から取り返せますが、厳格にしすぎて餓死者が出ては取り返しがつかないからです。

(追記)生活保護申請者が扶養者からDVを受けて逃げてきた場合など、扶養照会が適当ではない場合もあります。その場合は「特例」扱いが必要になることもあると思います。

又、扶養者に「貧しい」などの事情があって、(別居している)被扶養者の全面支援が困難な場合もあるでしょう。その場合は一部支援をすれば、税法上、扶養につけても問題はなかったはずです(東京の大学へ通っている子どもがバイト生活していても、地方に住む親が一部仕送りをしていれば扶養につけられるのと似ています)。不足分は生活保護で支給すれば良いと思います。つまり扶養控除と生活保護が両立するのです。(2022.2.5)

   扶養照会が必要だと思われる事例

@ そう言えば、NHK朝のラジオで、私の聞き違いでなければ「ある若者が、お金が無いので、毎日食パン一枚で生活している」旨放送していました。それに対してリスナーから声が寄せられ、ほぼすべてが「公的支援をすべし」という趣旨のものだったのです。

しかし、若者なら親御さんはご健在である可能性が高いので、実家に戻れば普通の生活ができる可能性はないのか。親御さんの扶養家族になっているのではないのか。あるいは仕送りは出来ないのか。何かの映画にもあったように、一旦都会に出てきた若者は、成功せずに田舎帰れば「負け犬」の烙印を押されかねないので、意地でも頑張っているのではないのか。

それらの可能性があるなら、公的支援よりも扶養照会を考えるのが先決ではないのかと思うのですが、そのような意見は聞こえなかったようです。(2022.2.9)

 ( その他 )

   『ネット中傷抑止へ侮辱罪厳罰化 懲役…』


   名古屋にはお城が三つある

映画「生きる」のレビューでお借りしたお城の写真は、たしか大阪城だったと記憶しています。美しいお城です。たすかりました(これからは、色々な方から写真をお借りすることになるかと思いますが、よろしくお願いいたします)。ところで、地元の方ならご存じでも、遠方の方はそうではないかもしれませんので、名古屋市にあるお城も三つご紹介したいと思います。地下鉄・名城線「市役所」駅で地上に出ると、三つとも見ることが出来ます。外国人観光客の中には、県庁や市役所を「名古屋城」と勘違いされる方もいらっしゃるとか聞いたことがあります。ここは広々として美しい(歴史的な)官庁街です。

「 名古屋城公式ウェブサイト 」
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/
「 愛知県公式Webサイト 」
https://www.pref.aichi.jp/soshiki/zaisan/0000022202.html
「 名古屋市公式ウェブサイト 」
https://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000062076.html

   ロシアのウクライナ侵攻が日本に突き付けたこと

専守防衛はかつての沖縄のような本土決戦につながり、抑止目的の敵地攻撃能力は核武装になってしまうジレンマ。

(追記)専守防衛では日本もウクライナのような本土決戦になるのでしょうか。そして、もしウクライナが北朝鮮ぐらいの核兵器を持っていたら、今回の侵攻は無かったのでしょうか。逆に、核兵器を持っているロシアは、ダメ押し的に核で威嚇する発言をしているようですし(このように核で威嚇されたら、日本の場合、日米同盟は機能するのでしょうか。ウクライナのように米国から放置されないのでしょうか)。私はこのような問題は素人なので分かりませんが、日本の周囲にも「明日は我が身」的な状況があるように思います。

(追記2)湾岸戦争が始まったとき、私は会社で、1週間の窓口担当でした。ロビーには大型TVがあり、一日中、ミサイルの飛びかうようすを映していました。その映像を見ながら、押し寄せるお客様の相手をしていたせいか、とても怖かった。しかし、今回はあまり恐怖心はありません。ウクライナの方々には申し訳ありませんが、少しだけ慣れてしまったようです。でも、何も考えないでいると、明日は我が身になりかねないという、新たな心配は膨らんできました。

(追記3)核というと非核三原則が出て来ます。しかし、これは手段であり、「大事な目的」は「日本には絶対に三発目の核兵器を落とさせない」、そして、つけ加えるならば「ウクライナの様には侵攻させない」事だと思います。でも、もし国際情勢の変化で目的の達成が困難になれば、手段の変更を検討することは常識的な事だと思うのです。(2022.2.22)

【 オーディオ の話題 】・・・・・・・

【 映画・TV・ラジオ の話題 】・・・


   映画レビューに対する私の考え方

この機会に、プロフィールの追記みたいなお話を、色々させて頂きます。

( 映画について )

昔は、人が「面白い」と言えば「そんなに面白いなら観ないわけにはいかない」と、人が「つまらない」と言えば「その、つまらなさ、自分の目で確かめてやろう」と、休日はほとんど映画館に入りびたりでしたが、最近(コロナ前)は映画館は週に1~2回になりました。

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( 掲示板について )

人にものを伝えるのは難しいことです。対面していても難しい。ましてや掲示板に書き込んだだけで、完全なる意思疎通をするのは困難だと思っています。老若男女、生まれも育ちも違う無数の人たちが匿名で参加しているのですから。私の書き込みに反感などをもたれた方は、それは私の本意ではないと好意的に解釈してください。

ときどき「その解釈は違うと思う・・・」とか、返信を下さる方がいますが、できましたら御自分のスレッドを立ち上げて、返信ではなく、自主的な発表として、あなたの解釈をお披露目してください。その方が嬉しく思います。返信を下さるほどの自信とエネルギーが有る方なら、ご自分のスレッドを立ち上げることは容易だと思います。

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( 私のレビューについて )

子供のころ学校で「本を読んだら次の順序で読後ノートをまとめるように」と教わりました。

①あらすじ、②主題、③感想、の順です。

この中で私がいちばん興味をもっているのが②主題さがしです。私の投稿はおもに「独りよがりな主題探しの打ち明け話」で、レビューとしては中途半端なものです。少なくとも③の感想をプラスして初めてレビューの体をなします。③の感想は何を書いても良いのですが、主題が分からないと的外れなものになりかねないので、こちらもまた難しい。

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( 映画の解釈方法について )

私は映画の解釈をするとき、ふと「映画とはシンフォニー」ではないかと思ったことがあります。たぶん「どちらも小さなパーツが集まって展開し、相似形の全体が完成している」からです。だから、どこか「小さなパーツひとつを解釈することで、映画の全体が理解できるのでは」と、仮説を立てたのです。つまり「パーツAの解釈が、パーツBやC、Dなどにも当てはまるか、そして映画全体にも当てはまるか」を考えていくのです。そうすると、だんだん、その映画が解ってくると。

ところで、昨日、新聞を読んでいたら、理論物理学者の方の、面白いコラムを見つけました。

「 …私は、科学者、特に物理学者であることがどういうことか明確な感覚を持っています。観測や実験から得た情報に基づき、初期の理論を組み立てる。うまく行ったら、より多くの現象、より小さなスケール、より大きなスケールに当てはまる数式にまとめていく。常に実験や観測に照らしつつ、さらに異なる現象を統合し、より統一された理論を目指す。それが科学です。… 」( 2016.6.8 朝日新聞朝刊インタビュー「オピニオン&フォーラム『科学者とは』・アリストテレス 科学の源流でない 実は退屈な詩人 」理論物理学者、米テキサス大学教授 スティーブン・ワインバーグさん より抜粋 )

きっと皆さまは「つまり君の解釈は科学的なのか?」と、お尋ねになりたいと思います。それには「1パーセントぐらいのレビューは近いかもしれません」と、お答えしておきます。「では、あとのレビューは?」とは聞かないでください。「あとは退屈なポエムですらありません」から。(追記)以前は解釈の結論だけ書きましたが、最近は考えた過程を書いて行くように変化してきました。歳を取るとその方が楽ですから。それに、解釈できなかった作品も記録するようにしました。ご容赦下さい。

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( 映画、TV、原作本について )

映画の解釈に迷ったとき、原作本を読んで答えを知ろうとする人もいますが、あなたはどうしてますか。

正しい解釈に早く辿り着きたいのなら、読まないほうが良い、と申し上げておきます。なぜなら、映画と原作本は、近似の、しかし別々の物語(パラレル・ワールド)だからです。この二つの情報を同時に頭に入れることは混乱を招きやすく、解釈の情報処理に得策ではありません。

数ある映画の中には、細部に仕掛けをして、一見原作と同じに見えながら、実は逆の結末を用意したものも在るようです。どこかワンシーンの描写、ひと言のセリフで解釈がひっくり返る仕掛けを映画に仕込むのです。現実でもフロッピー・ディスクの改ざん事件がありましたが、あの現実の示すとおり、ほんの少しのことで結末はひっくり返るのです。

原作本に心酔し染まってしまうと、それは映画を冷静に観ることにはマイナスに作用すると思います。監督は観客が騙されるのを遠くから「してやったり!」と、ほくそえんで見ているのかもしれません。映画の解釈は原作本から離れて静かにすべきです。映画の補足説明ですら原作本に求めるべきではないと考えます。映画の事は画面の中だけで完結してください。(TV版ドラマも同様です。)そして、めでたく解釈が完了してから原作を楽しみましょう。別物として。

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( 映画の記号について )

津波と水素爆発で破壊された原発の映像がニュースに流れていましたが、その映像に私は違和感を感じました。バックの空がとてもきれいな青だからです。破壊された原発の残骸から受ける悲惨なイメージに打ち勝つほどに強く美しい青でした。それはワイキキの浜辺に似合うほどです。もし、これが映画なら、空は少なくとも曇天でなければなりません。嵐の時のような真黒な雲ならお似合いです。逆に言うならば、映画で不穏な雲がでてきたら、その後には悲劇が起こるという記号でもあります。

私のレビューには記号の解釈がいくつか出てきます。もちろん真面目に書いていますが、どれも私の独断と偏見で解釈したもですので話半分で読んでください。ご質問を頂いても多分お答えできません。

かつて私は「映画の記号辞典」を手に入れたいと思い、本屋さんで探した事がありましたが、売っていませんでした。その時に立ち読みした本(タイトルは忘れました。)によると、「記号というのは、ある程度の普遍性があるにしても、映画によって、また時代背景によっても変化するので、完全なる記号辞典は出来ない」というような事が書いてありました。

結局、映画の記号を解釈するには、多少の知識は必要だとしても、最終的にはその映画文脈の前後から動的な判断をするしかないのでしょう。専門書や原作に拘りすぎる静的な判断は間違いのもとです。一本の映画と言うものは、それだけで唯一無二の完結した世界、であることを忘れてはいけないのです。


【 音楽 の話題 】・・・・・・・・・・


   ギターの弾き語りは一日で出来る

フォークブームだった学生時代、ギターに夢中になったことがあります。一夜漬けで試験勉強をするときも、すぐにイヤになるので、脇に置いてあるギターを抱かえてそのまま寝ころび、しばしの間、ジャカジャカと鳴らしていました。

今は年金生活者になった私の周囲にも、「楽器を弾けるようになりたかった」という人はいますが、「(アバウトな話)ギターで歌うぐらいなら、1日で出来るようになります」とお話しています。もちろん、一日で名人になれるわけもなく、そんな事を言ったら名人に失礼です。

しかし、①ギターのコードはとりあえず(循環コードと言いますか)5種類ぐらいを覚えればよく、②しかも、難しい正統的な押さえ方だけでなく、指の少ない簡易版な押さえ方もあるので、簡易版を覚えて、ジャカジャカならすだけなら、1日でも大丈夫なのです。すぐにギター片手に歌えるようになります。今でも初心者向きのフォークギター教則本があるはずです。例えば「C」というコード、こちらの画像をお借りして説明させていただくと、これも簡易版のようですが、私が最初に覚えた簡易版はさらに指が少なく、「1と3」だけを押しました。 慣れて余裕がでてきたら、指の多い正統的な押さえ方に移行しても良いのです。

③歌いたい歌のコードが難しかったら(よくある話)、自分が使える優しいコードに移調!?してある楽譜を探せば良いのです。それでも不足するコードがあれば一つづつ覚えていけば良いし、素人芸ですから、とりあえず、アバウトに無視してもなんとかなるはずです。

(追記)『 簡単&名曲で使われる 超定番のコード進行【循環コード】 』
動画をお借りしますが、一例として、前半にある「スタンド・バイ・ミー」(Stand by Me)の弾き語りを見ていただけければ、①②私の話のポイントも理解していただけると思います。忘れてはいけないのが、映画「魔女の宅急便」にも使われていたユーミンさんの「ルージュの伝言」です。あんなに斬新なメロディーの名曲なのに、簡単な循環コード4つで構成されていたとは、驚きです。素晴らしい動画でしたね。

(追記2)③の話ですが、「マリーゴールド」のコードを、定番コードに移調!?した楽譜がここにありました。こうやって楽譜を探せば(自分で移調すれば)、少ない持ちコードでも多くの曲を歌えます。
『 あいみょん マリーゴールド ギターコード譜 for Lesson(カポ2)

(追記3)生楽器の音は、電気増幅の歪みがゼロなので、うるさく感じませんが、想像以上に大音量が出ています。特に集合住宅の夜間は練習を控えた方が良いかもしれません。昼間の練習でも「消音機」「弱音気」などと呼ばれるモノをつけた方が良いかもしれません。彼女のギターの穴(サウンドホール)は塞がっています。何かは知りませんが、形としては似たようなものが多いようです。  『 氷の世界 / 井上陽水 Cover by megumi mori〔012〕

(追記4)弦と指板(下の板)のすき間が大きすぎると、人によっては弦を押さえにくく、楽に演奏できません。初心者は指先にタコも出来ておらず、押さえにくいのが当たり前ですが、しばらく練習しても押さえにくいようでしたら、自分に合っていないかもしれませんので、ショップに相談してみてください。すき間が小さくなるよう、有料で調整することも出来るようです。

(追記5)私は正規の音楽教育を受けたわけではありません。数年間、独学でフォークギターを楽しんだだけです。ですから、とんでも理論を口にしているかもしれませんので、そのつもりでお読みください。

私はいくつコードを覚えたのか。今日、ネットにあるギターコード表を見て数えたら、20ぐらいは見覚えのあるコードでした。しかし、実際に多用していたものは、前述した「スタンド・バイ・ミー」の循環コードや、移調した「マリーゴールド」にも使われている基本コードなどの、合計10ぐらいでしょう。その10を基本として、随時、残りの10が顔を出すといった感じでしょうか。それ以上の数を覚えなかったのは、移調した楽譜をさがせば、その数で、好きな歌は、ほぼ、なんでも歌えたからです。

当時の私の関心は、コードをたくさん覚える(左手)よりも、指さばき(右手)で、アルペジオとかスリーフィンガー奏法の練習に夢中でした。元気なジャカジャカはもちろん良いですが、指さばきが上達すると、しんみりとした曲がより楽しめます。

(追記6)アルペジオの私の定番曲は、加藤登紀子さんの「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」です。これはイメージ通りの奏法ができるようになりました。奏法はそれほど困難でもなく、誰でも知っていて、一生歌える名曲なので、初心者にもおすすめします。

スリーフィンガーでは、加藤和彦さんと北山修さんの「あの素晴しい愛をもう一度」です。カッコ良いと思って、ギター雑誌の楽譜を必死で覚えましたが、やっと出来るようになってみると、レコードの「あの素晴しい愛をもう一度」とは奏法が微妙に違うのです。しかし、少なくとも当時は他の奏法を紹介した楽譜は、私には見当たりませんでしたので、悶々としていました。

それが5年ぐらい前でしょうか、ネットに、「レコードの奏法は特殊で難しく、ご本人でも、ステージで歌と同時に行うことは困難だっただろう」みたいな記述を読み、やはり素人には見果てぬ夢だったと、納得したものです。その後、レコードと同じかどうかは分かりませんが、私が習得したスリーフィンガーよりもさらに似たイメージの楽譜を見つけましたが、今は歳ですし、ギターも中断しており、ブログ書き等に忙しく、いまさら練習する余力はありません。学生時代に出会っていたらと思います。

イメージ通りだったスリーフィンガーは、吉田拓郎さんの「旅の宿」でした。これもレコード時代の曲ですが、シングル盤と違って、LP盤はギター一本で演奏しています。そのLP盤の演奏に近いイメージの奏法が出来るようになりました。

同じく、吉田拓郎さんの「リンゴ」「ガラスの言葉」も、ギター一本のカッコ良いスリーフィンガーが聴けますが、これもギター雑誌に楽譜を見つけてマスターしました。たぶんレコードの完コピではないでしょうが、イメージとしては近いものです。そして、これらのアルペジオやスリーフィンガーをマスターすると、当然ですが、他の曲にも応用が利くようになりますし、いつしか、少しぐらいはアドリブのまねごとも出来るようになるのです。

若さ+惚れた曲があれば、練習は苦にならないものです。これは恋愛ですから、合理的判断とは次元の違う話です。

(追記7)静かに練習したい場合にはサイレントギター(「消音機」「弱音気」の事ではありません)もあります。数年前にギターを再開したいと思って、一流メーカー製のそれを買ったことがありますが、胴体の部分が枠だけなので、重心が長い首の方にあり(あるいは胴体と人体のグリップ力が減るのか)、本物のギターに比べ演奏中に首が下がってくるのです。「そんな事は気にならない」人が大多数だから売れているのでしょうが、私には違和感を感じました。

それにサイレントギターは音を出すために電気増幅のアンプを必要とします。すると、安物のアンプだと音も安物になりますし、高級アンプを買ってもやはり電気増幅した音なので、生楽器特有の美音とは違うわけです。ちなみに、重心の問題を解決するには、いっそエレキギターを買うという選択肢もあるようです。試したことはありませんが。(2022.5.14)

   ジャズとクラシック


『(中学生の頃)帝王マイルス・デイビスのトランペットは「ぷ~」と一音鳴るだけで心に沁みました。しかしクラシックは50代になるまで良く分かりませんでした。』( 映画「ジョン・コルトレーン チェイシング・トレーン」 私のレビューより抜粋 )

私の場合、子どもの頃の問題だけでなく、不本意な仕事にも就いたので、50代に早期退職をするまで苦しみ続けました。気持ちが楽になったと思えるのは、少なくともリタイアして5年以上たった頃からでしょう。在職中はずっと事務職でしたが、リタイア後には週3回のペースでアーチェリーに通い、大空を仰いで、日光を浴び、風に吹かれて運動したのが、転地療養のように効いたのだと思います。年齢のせいだけでなく、それもあって、リタイアする頃からクラシックも沁みるようになっていったのだと思います。

ジャズは中学生の頃から染みたと書きましたが、傷口に塗る軟膏のように癒しに効くジャズは、(マタイの福音書7章13節―14節)「狭い門から入りなさい…」ではありませんが、昔流の「我慢は美徳だ」みたいな教育もあって、私は「甘え・堕落だ」と感じたのです。そして、毅然と立っているクラシック音楽に、我慢しながらでも顔を向ける事こそ正しい道のような気がして、癒されてジャズを聴くことからは罪の意識さえ感じていたのです。

今でも、聴いていたジャズのCDをクラシックのCDに交換するたびに、(微かな冷たさがあるからこそ)正しき道に戻ってきたと思ってしまいます。

【 気功・オーラ の話題 】・・・・・・

  (固定)大きな「気のボール」を作ってみましょう

「気」という単語を知っている方は多くても、大多数の方には「気」についての実感が無いのです。実感が無いものは信じがたいですし、人に説明する時でも説得力に乏しい。

ですから、「気」に興味を持たれたら、いきなり最初から「三円式タントウ法」にトライし、「もたれ掛かれるほど強靭な、直系1mぐらいの気のボールを作る」ことに挑戦してみると良いです。この夢のような神秘体験をすると、「気」に対する疑念は吹き飛びます。「これは錯覚だ(汗)」という科学者の方がいらしたら、ご自分を実験材料にして解明されれば良いのです。

三円式タントウ法」は、毎日15分~20分ぐらいの練習を、3~4カ月間続ける必要がありますが、私の場合、ある日突然、ほんとうにある日突然「気のボール」ができるようになりました。

テキストは「気功革命 癒す力を呼び覚ます」(盛鶴延 著)です。

上記には何種類も出て来ますが、私が最初に買った気功の本がこれです。文章も読みやすく、分かりやすいので好感が持てます。これで3~4か月間、毎日練習したら、ある日突然、大きな気のボールが作れるようになりました。
「気功革命―癒す力を呼び覚ます」 単行本 – 2004/4/1

これはステマではありません。

   「気」は情報である 

『 あなたの肉体のまわりには、腕を完全に伸ばしたところまで、全身を包んでいる「気の場」がある。

この気場は、情報センターであり、きわめて高度な知覚システムでもある。

このシステムを通し、私たちはまわりにあるすべてのものと、つねに「コミュニケーション」をもっている。

このコミュニケーションとは、まわりの人の身体とメッセージのやりとりをする、一種の「意識の電流」だ。

この気場から発するメッセージが、直観力を持つ人間が知覚するものなのである。』

( 「7つのチャクラ」キャロライン・メイス著、第一部 第二章  「気の医学と直感」 より抜粋  )

ですから、他のレビューでも書きましたが、初対面なのに、自分と相性が良いか悪いか、直感的に判ったりするのだと思います。

今、あなたの持っている「気」が情報を発信、受信、しています。


自分に属している気を「内気」と言います。

それに対し、外にある自由な気を「外気」と言います。

前述したとおり、自分の「内気」にメモリーしてある情報は、他人に近接した時に、他人の「内気」にコピーされることがあります(映画「ヒア アフター」では手に触れることで情報伝達が起こりましたが)。

でも、かならずしも他人に接近しなくとも、「内気」→「外気」→「内気」と、「外気」経由で他人にコピーされることもあるようです。電波のように。

空気中には、自由な「外気」が満ちていますから、そこを伝搬するのだと思います。

気功には「遠隔気功」と言って、外国にいても、日本にいる気功師の治療を受けられる技もあるそうです。「気の発見」五木寛之著の中にも書いてあります。

また、俗に「噂をすれば影」とか「虫の知らせ」というものは、「外気」経由で情報が伝達されたための現象だと思います。

また、有名人などは、不特定多数の他人様から、「外気」経由でエネルギーを受け取っているはずだとも言えます。その大多数が熱烈なファンからのものならば、彼(彼女)らは、ますます輝きを増すはずです。

また、自分のブログやツイッターで、他人様からネタを受けた事を書いていると、ぼかした表現をしたにしろ、ネタをもらった相手に分かってしまうことがあります。

分かってしまう理由は様々でしょう。ほとんどの人は、偶然だと思うでしょう。でも、その中には「外気経由の伝搬」で相手に伝わってしまった事例も含まれているのではないでしょうか。


かつて、魚を見て潜水艦を発明し、鳥を見て飛行機を発明した人間は、今「インターネット」にたどりつきましたが、「インターネット」とは「外気」を人工的に再構築したものなのかもしれません。

『 情報技術は、私たちの気のレベルの相互作用が物理的なかたちをとって現れたものだ。気場ではすでに存在していたものを、外面に創造したのである。 』

( 「7つのチャクラ」キャロライン・メイス著 あとがき  「魂の階段を生きる人のためのガイド」 より抜粋  )


私たちは脳だけが人体の記憶装置だと思っています。

でも、前述した「7つのチャクラ」を読むと、チャクラも記憶装置である、との意味のことが書かれています。

私は専門家ではありませんが、解剖学的にはチャクラは存在しないと思います。でも、私はチャクラの存在を体感(少々)できますし、あれも重要な記憶装置らしいのです。

また、その他の細胞にも記憶されるそうです。

細胞というと、心臓も、腸も、もちろん脳も、人体ほとんどすべて細胞ですから、臓器移植された人の嗜好などが変わったとかいう事例も、納得できるのかもしれません。

私は、かつて友達から「あなたは、オーラが見えますか」と言われてトライしたところ、自分にもオーラ(少々)や、気(多少)が見えることを発見しました。

そこから気の本を読み始め、ほどなく気功を始めました。

自分の目で見えるもの、自分に体感できるものは、真偽の疑いが低くなりますから、もっと詳しく知りたいと思うのは、人情であり、誰しも同じだと思います。


私は今までの人生で、お芝居と言うものは数回しか観たことがありません(おはずかしい)。

そもそも、わが家には、映画を観る習慣はあっても、お芝居を観る習慣はありませんでしたし、仕事関係で、福利厚生目的のチケットはいくらかもらいましたが、皆、家族に譲っていました。

また、たまに興味のある演目があっても、値段が、牛丼店からフレンチレストランへ鞍替えをするがごとく、高く感じたのも理由の一つです。ふだんは映画の日¥1,100也、ばかりをねらって出かけているぐらいなので。

でも、数年前に、なにかの講演会で、「映像を挟み込んだお芝居」を無料で観る機会に恵まれまして、そのとき貴重な体験をさせていただきました。

それを今回お話しします。ただし、その演目内容ではなくて、その時に感じた、お芝居と映画の違い、についてです。

そこで私には「お芝居は血の匂いがする」ことが分かったのです(「匂」。この漢字で良いのかどうか、良くわかりませんが、とりあえず用います)。

もっと正確に言うと、舞台の一点で電気溶接の青白い炎がジリジリと音を立てて燃えているような生臭いエネルギー感、あるいは鉄か何か(ある種の金属)を舌で舐めたときのように、渋みの混じったようなわずかに刺激的な味覚です。

大きな舞台の中では、人間の体はとても小さいし、薄暗いシーンでは、さらに見えにくい。たとえ明るくても、遠目では顔も見えにくく、表情などは、さらに分かりにくい。

でも、お芝居では、そこに生臭い本物の人間が生きて、たしかに存在している気配が感じられるのです。

これが映画のシーンだと、香水の香る美男美女のアップでも、ホコリと汗にまみれた西部のガンマンのアップでも、血の匂いがしてきたことは一度もありません。

不思議に思いましたが、たぶん、生身の人間が舞台に存在しているが故の、波動が感じられるからでしょう。

なぜ、そんな事が起こるのか、やはり、生身の人間から「俳優の気」→「外気」→「私の気」のように「気による生体シグナル」が伝わってくるからでしょう。私はそれを血の匂いとしてイメージしているのかもしれません。

舞台では、俳優さんは演技と言う形で、全力で私たちにシグナルを送ろうとしているし、私たちは俳優さんからのシグナルを全力でキャッチしようとしている。まるで放送電波とラジオのチューニングがピッタリあった状態になっているから、よく受信できるのかもしれません。まさに理想的状態ですから。ある意味、これは先に書いた「遠隔気功」と同じ原理なのかもしれません。

逆の話を言えば、私たちの家庭でも、何らかの理由で家族が一人欠けると、その直後は、ぽっかりと穴の開いた様な、家の中に真空地帯でもできたかのような、空虚な気配を感じることがあります。これも、その人の「気」が欠落した、のを感じ取っているのでしょう。

ですから、昔の武人は「殺気」を感じとるという話も、本当だと思います。

   気の質量を体感する

「気」の話をもう少します。

よろしければ、立ち上がって「気をつけ」の姿勢を取ってみてください。

自分が高層ビルになったと思ってください。

そして、ビルが地震にあった時の揺れみたいに、足首を中心にして、ゆっくりと、少しだけ、前後に体をゆすってみてください。

長周期地震動時のビル揺れみたいに、ゆっくりと、ゆっくりと。

そのとき、水中でもないのに、体の動きよりも一瞬遅れて、なにか質量のあるものが、体にくっついてくるのが分かりますか。

風、空気、いえ、それとは違う感触のものです。

もっと、濃厚で、質量が大きいです。

それが、あなたの「気」だと思います。

普通の人は、わずかな感触しかないでしょう。気の量も多くはありませんから。

でも、気功を続け、外気から、大量の気を体内に取り入れて内気にすると、気の量が増えるために、その質量感も大きくなります。

信じられないかもしれませんが、それが強力になると、その「気」に「す巻状態」にされたみたいになって、倒れようとしても、倒れないことすらあります。

   気功の好転反応

こうやってタイピングばかりしていると、呼吸が浅くなって、時に、軽い頭痛するような感じが出て来ました。それで、毎日1~1.5時間の散歩中は努めて深呼吸をするようにしたのです。気感があるせいか、深呼吸をすると気功になってしまいます。空気と「気」は質量が違うので、「気」は水のような感じなので、空気を吸うと水を吸い込むような感じで「気」も入ってくるのが分かります。

それは健康に良いのですが、しばらくぶりにすると好転反応(本にも書いてある)が起きたらしく、2~3日間、ワクチンの副反応にも似た倦怠感が起こりましたが(それ以外の諸症状はない)、それも抜けたようで、今日は同じ深呼吸をしても気分は爽快です。

  「気功」「オーラ」について

「気功」、「オーラ」についてお話しします。レビューにも時々出てきますので。

おじさんになってからの事です。雑談中に友人から「あなたはオーラが見えますか?」と質問され、後に試してみたところ、自分にも「少しだけ見える」ことに気づきました。50代になって初めて自分が分かったのです。もちろん友人にも「オーラ」が見え、同類の人はなんとなく判るのだそうです。

「オーラ」を一口で言えば、「仏像の背にある光背(こうはい)と呼ばれる放射状の後光」です。生身の人間にもそれはあります。光背みたいに放射状に鮮明に見えるのは希で、たいていは「体を包むぼんやりとした光」として見えます。私には。

見えることが何か役に立つのかと言えば、「うつ状態」の人からは「黒いオーラ」が出ている場合があり、それが見えることがあるのです。「黒い光なんて矛盾する」と思われるかもしれませんが、「昔の家庭用の、黒いゴミ袋を膨らませたような、『テラテラ黒光りする膜』みたい」と言えば分かってもらえるでしょうか。そんな光に包まれているのです。オーラが見える友人も同じものを見たことがあると言っていましたし、ネットにも書いてあります。

私は自分のオーラを見ている時に偶然「気」も見えることが分かったのです。「気」を一口で言えば、「全身から立ち上る白っぽい煙・湯気のようなもの」です。「煙・湯気」との違いは、「煙・湯気」は光を当てるとより鮮明に見えるのに対し、「気」は明るいと大変見にくくなるし、反対に暗闇でも見にくいのです。「気」を見るには「ちょうど良い加減の薄暗い場所」で、「暗色を背景」に手のひらを見ることです。私には手からモウモウと立ち上る「気」が見えます。

こんな「自分に起こっている現実」を無視するわけにはいきません。

私はその「オーラ」と「気」をもっと知りたくて関係本を探しました。そして「気功」と出会ったのです。「気功」を学ぶことで「気」を健康に役立てることができました。今の私は「気」が見えるだけでなく、手のひらで弾力的な「気」に触れることも、多少操ることも出来ます。今の私にとって「気」は神秘であると同時に、「空気や水」と同じような「日常生活の一部」なのです。

他の人にも尋ねてみると、「臨死体験」みたいな事があった人、生まれつき日常的に「オーブ」が見える人などがいました。見えるのに昔の私と同じように気づいていないだけか、あるいは気づいていても、今の私のように人目を気にして「秘密」にしている人は意外に多そうです。彼(彼女)らは、理解してくれそうな同類の人にしか本当の自分を見せないのです。(2022.2.20)

   パワースポット

ところで、俗に言う「パワースポット」とは何なのでしょう。私も専門家ではありませんので詳しいことは分かりませんが、拙い経験をお話しします。

まずウキペディアで調べてみましたら、さまざまな仮説が説明されており、その中に「気場」とか「風水」という言葉もありました。

すでにご承知のとおり、私にも気功を始めてから「気感」ができ、散歩をしていると「気」の集まっている場所が分かるようになりました(空間の体感上の温度、質感・密度感が変化する)。又、濁った「気」(ときに少しゴムの燃える様な濁った気配や臭いも)と、清い「気」(清水の様に透明感があり無臭)の区別も。

ある温泉へ出かけたときのことです。そばに風水的に見ても納得の、有名なパワースポットがあり、徒歩で近づいて行くと、数十メーター前から、徐々に「気」のパワーが上昇していくのが分かりました(暖かな春なのに、クーラーに近づいて行く様なヒンヤリとした感じ)。

そして極点では、他では感じたことのない、たじろぐほどの強度のパワーが感じられたのです(大げさに言えばサウナの後の冷水浴みたい)。これが俗にいう本物のパワースポットなのかと恐れ入ったしだいです。

また都心にある、ビルの谷間の小さな神社でも、中くらいのパワーを感じた処がありました。結界(霊的な意味ばかりではありません。気功では手で「気」をコントロールすることがありますが、そのときの手は、ある意味結界になっているからです。その正体は人体の微電気だと想像します。)と言われる鳥居と周囲のビルに囲まれパワーが溜まっているようです。

あそこは近所の人なら昼休に行ける癒しの穴場です。ちなみにパワースポットしては無名なので、「気感」の無い人は気づいていないでしょうが。

ちなみに、その近所には、はるかに敷地も大きい立派な神社があります。観光客はきっとそちらへ行くのでしょうが、私の体感では前述の神社よりもパワーは小さいようです。小さい理由は、敷地が広いので「気」が散ってしまうのだと想像します。

あるいは、なんでもない広場や運動場ですが、風水的に見て少しパワースポットの体をなしている処もあります。もちろん無名ですが「気」のパワーも少し上昇しているのが分かります(少し肌に沁みとおるような、軽くピリピリするような、全身がざわざわ活性化するような)。

パワースポットのパワーとは具体的に何なのか。少なくとも、その一部は「気」であり、だれでも「気感」を作れば感じられるものだと思っています。

またパワースポットが「『正気』(良い気)の溜まり場」だとしたら、「気感」の有り無しに関係なく、基本的に、行けば健康に良いものだと思います。少なくとも自然治癒力の活性化ぐらいは期待できるのでは。

だから年に一度、有名なパワースポットへ旅行するのも良いけれど、日常的に近所の公園へ行くのも良いのです。だからお花見にはぜひ行きたい。

ちなみに、「気功」、「太極拳」、「ヨガ」などの真髄は、自分の居る場所に力技で「気」を集め、どこでもプチ・パワースポットにしてしまう事なのかもしれません。

  「気」は「樹」に宿る

もしパワースポットのパワーの源泉が「気」である場合、パワーの名所へ出かけるのも良いですが、身近にある無名の「気」の溜まり場を探してもよいのです。そのヒントをお教えします。

「気」は「樹」に宿ります( これは森林浴でおなじみの「フィトンチッド」の話ではありません )。

一本の街路樹にも宿りますが、複数の樹が繁る公園、神社仏閣、藪、林、森なら「気」が多く集まっています。そんな場所は、夏でも涼しかったりして、ベンチでも置いてあれば、人々の憩いの場になりますが、快適な理由には「気」も関係しており、けっして日陰になっているからだけではないのです。

小さな炎が集まると大きな炎になるように、2本以上の「樹」が集まっていれば、その中央は「気の大きな炎」になっている事が多いのです。そこもパワースポット。だからツリーハウスやハンモックは効果的なのです。

又、「気」は、「幹」よりも「枝葉」に多く宿るようです。

近所の街路樹の大木が、夏は涼しい「気」を綿菓子のように集めていましたが、あるとき業者が枝葉を伐採してしまい、「気」もその直後から少なくなってしまいました。

また、春になると枯れた芝生もグリーンに変わります。日ごろコンクリートやアスファルトの上ばかりを歩いている私たちも、許される環境なら一度芝生のうえに上がってみてください。

緑の天然芝から立ち昇る、春の生命力にあふれた萌える「気」で、あなたの体も、ザワザワとした活性化した気持ちになるはずです。だからゴルフ場もパワースポットのひとつでしょう。

このように、近所の公園の「樹」の下や、「芝生」の上に居るだけでも養生になるのです。これなら日常的にできますよね。

   ため息で疲労回復できる 


先日、なにかのTVドラマでこんな話がありました。

「『ため息で疲労回復できる』と教えられた主人公が、さっそく試しました。そうしたら先輩から『ため息つくな』と叱られてしまいました」。

先輩の気持ちも分かります。でも本当に「ため息は疲労回復の薬」なのです。科学的には「深呼吸の親戚」みたいなものであり「大量の二酸化炭素を吐く行為」ですからね。

その話が「気功をすると、なぜ気分が良くなるのか」につながるのです。気功的には「ため息は邪気を吐き出す行為」ですから。

たとえば「気功」の「スワイショウの1」は、私の解釈では「ため息をつく体操」です。ただし、その回数がハンパじゃありません。普通は15分間しますので、一秒に一回として15分間で900回ものため息をつくのです。

私の身内に不幸があったときなど、苦しかったので、気がついたら25分間ぐらいやっていました。つまり1,500回も連続してため息をついたのです。そのおかげで胸に淀んでいたものが抜けていき、ずいぶんと楽になったのを覚えています。

フルコースの「気功」では、その後に別の種類もして、「外気」から「正気」(良い気)を取り込みます。その話はまた別の機会に。

   信じるためには「再現性」が大事


(ネタバレにも触れています。)映画「千と千尋の神隠し」のラストでは、親子とも、湯屋での出来事は忘れてしまったと思います。それで良いのです。それが一番無難です。しかし、もし子どもだけに記憶があったらどうでしょう。千がいくら神様の世界の話をしても、誰も信じてはくれないでしょう。親からは「ねぼけたの?」と、子ども扱いされるのが落ちです。

これを見て、私は気功の話を連想しました。毎日3~4か月間修行すれば、だれでも私のように、直径1mぐらいの「気」のボールを作ることができると思います。もたれ掛かれるほど強靭な。しかし、この話をしても、大多数の人は信じてくれないばかりか、変人扱いされそうで、リアルでは怖くて話せません。

これ、言い方を変えれば、往復3~4か月間も掛かるほど遠くの旅へ行ってきた人の土産話を、旅にも行かないで否定し、変人扱いする人に似ていると思うのです。私も人の事は言えません。気功の本には、時に、気功初心者の私には信じがたい、名人・上級者の魔法のような話が書いてあります。ところが、何年かの後、ふと自分も少しだけ似たような体験をして、もしかしたら、この事だったのかと合点がいくのです。もちろん、このレベルの話になると、人に話しても通じない事は必至でしょう。だから、なかなか言えません。

追記

信じるためには「再現性」が大事だと思います。何年か前に「○○細胞があります」と言った科学者の方がいらっしゃいました。素人の私に真偽のほどは分かりませんが、(私の理解では)世界中の科学者が挑んでも再現できなかったために、その学説は消えて行ったのだと思います。本当にお気の毒でした。

しかし、気功、太極拳、合気道などの「気」や、ヨガの「プラーナ」などは、再現性があるからこそ、時空を超えて無数の求道者に信じられているのだと思います。宣伝ではありませんが、私が師と仰いでいる方の書いた気功の本では、初心者にいきなり奥義とされている「大きな気のボール作り」をさせます。いきなり核心に触れることで、入門者の疑念は吹き飛び、同時に「気」の操作の段階へも、足を踏み入れることができるのです。再現性に自信があるからこそできる指導法だと思います。

   オーラの最下層は透明な手袋のようにも見える

透明なカッパのような服と、丸い水中眼鏡のようなものをつけた動物人形が、冬季五輪のかの国で人気らしいです。宇宙服らしいですが、私には「新型コロナの防護服と、防護マスクをモチーフとしたもの」に見えてしまいます。アーティストは、それをこの作品に込め、歴史に刻印したのでしょうか。

それはともかく・・・本題はそこではありません。先日、私は50代になってから自分にオーラが見える事を自覚したと書きましたが、それまでは、自分の手のひらを見ると、周囲に厚さ2ミリ程度の透明なビニール手袋のような膜が見えていたのです。今でも見えますが、それはメガネか、乱視の影響だと思って気にしませんでした。しかし、友人に話したら、彼には見えませんでしたし、ネットで調べたら、オーラは何層にも分かれていて、一番内側のオーラが、それのようなのです。もちろん、今の私には、外側の層、数十センチ厚のものも見えます。いや、見えると気づきました。(2022.2.18) 

【 共感覚 の話題 】・・・・・・・・・

   「共感覚」について

「共感覚」についてお話しします。レビューやブログの中にときどき余談として出てきますので。

自慢話をしていると思われると困るのですが、私は50代になって初めて「自分には音→形が見える」(正確には、音を聴覚・視覚・触覚で味わえる)ことに気づきました。音が見えて触れられるのですが、たぶん生まれつきなので、当たり前すぎて自覚すらしなかったのです。誰でも同じだと疑っていなかったのです。

ところが中年になり酒席で、なにげなくオーディオマニアの友人に話したところ、友人が「オカルト話は嫌いだ」と機嫌を損じたので、もしかしたら違うのかもと、気がついたわけです。

その特殊な感覚はオカルトではなく、まっとうな科学であり、一般に「共感覚」と呼ばれています。しかし当時(10年近く前)ネットで調べても「文字に色がついて見える人」が一般的で、「音→色が見える人」ぐらいはあっても、「音→形が見える人」についての記事は皆無と言ってよい状態でした。だから「私のは本当に共感覚なの?」と疑問がふくらんだのです。

そんなある日、図書館で「ねこは青、子ネコは黄緑・共感覚者が自ら語る不思議な世界」(パトリシア・リン・ダフィー/石田理恵〔訳〕)という本を見つけて、救われました。

その中の「6章 作曲家マイケル・トーキーと音楽の色」で、音楽から視覚と触覚が刺激されるとして、「フレンチ・ホルンの音は丸」、「トランペットの音は先が尖った感じ」、「フルートは綿のような音」、「クラリネットは滑らかな音。まるでヒョウの毛皮のような感じ」と、そしてこれは「比喩」ではなく「知覚」だと書いてあったからです。オーバーに言えば、私は「不安と孤独」の世界で、やっと「仲間に巡り合えた安心」を感じました。

今日、あらためてネットで「音 形 見える」で検索すると、わりと多くの情報がヒットするようになりました。日本にも多数の仲間がいそうです。これもある意味カミングアウトなのですが、自己紹介であると同時に、「誰かを救える」としたら必要なことだと思いました。

   誰にでもある心のバイアス

@ 「 5+3が7になるのはなぜ?共感覚という個性 」
https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/800/420188.html
映画「ローレライ」のヒロインには共感覚があるのかと思ったら、「水を媒体として相手の心が読める能力」だそうで、どうも共感覚とは違うようです。

そんな関係でこの算数サイトを見つけました。「5+3が7になる」のも納得です。このバイアスは共感覚ですが、それを持っていなくても、心というバイアスが誰にでもあるので、黒字のような冷徹な判断が下せる人はごく一部なのかもしれませんね。そして、「全体の奉仕者」と「一部の奉仕者」の違いも同様なのかもしれません。そのバイアスも違う答えを導き出すのです。ちなみに、敵味方の区別なく兵士を助けたナイチンゲールに代表されるように、目の前の患者を救うために全力を傾ける医師という存在は、「一部の奉仕者」なのかもしれません。

(追記) 私にも共感覚があるようです。数字に色がついて見えるのではなく、音を聴覚だけでなく、視覚と触覚で感じられます。音が「躍動する抽象画」のように見えるのです。見えれば手触りを感じることも出来ます。共感覚を持っている人の割合は諸説ありますが、最大では23人に一人という説もあるようですから、LGBTが11人に一人とも言われていることに比べても、珍しいことではないのかもしれません。しかし、私がそうでしたが、生まれつきの個性というものは人と比べないと違いが自覚できませんから、本人も気づいていないことがありますし、人に話して理解されない経験をすると、霊感などと同様に(私の知人)、リアルでは黙っている人が多いと思います。

ところで、映画「ローレライ」のヒロインは「水を媒体として相手の心が読める能力」があると書きましたが、その脳波か何かを分析して、敵の潜水艦の位置を3次元映像化したのが、ローレライシステムのようです。ふと、ヒロイン・パウラ(香椎由宇さん)が、読心術ではなく、私と同じ種類の共感覚を持っていたらどうだろうかと考えました。潜水艦は見えるのだろうかと。

私はアーチェリーをしていた時こんな経験がありました。隣で射っていた人の弓から異音がしてきたのです。持ち主も気づいたらしく弓を点検していましたが、ネジのゆるみなどはなく、首をかしげながら射っていました。しかし、私は音から、ねじっていない多数の弦が、お互いにぶつかり合っている様子が見えたのです。アーチェリーの弦は遠目には一本ですが、ロープのようにたくさんの細い紐を、自分でよりあわせて使います。そのより加減で飛びを調整することもあるのです。しかし、隣人はうっかりよりあわせずに使ったので、射つたびに細い紐が開いたり閉じたりし、その度、「バン!」ではなく、「バシッ!」と散漫な音を立てていたのです。私には見なくてもその映像がイメージできました。もしやと思いましたが、冗談半分に「弦をよりあわせた?」と聞くと、やはり、うっかり、よっていなかったことが判明しました。

ですから、音から(抽象的な映像ではなく具体的な何か)を見ることも出来そうですが、潜水艦の位置を3次元的にイメージすることは、そうとうに困難だと思いました。やはり電子機器に任せた方が良さそうです。(2022.2.6)

【 エッセイ・ぽえむ 】・・・・・・・

   3.11で法王はこう語られた

『 ローマ法王ベネディクト16世が22日、イタリア国営テレビRAIの番組で、東日本大震災を経験した日本在住の少女の「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」との質問に答えた。 これに対し、法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。(十字架にかけられた)キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる」と答えた』。  ( 2011.4.23 朝日新聞 夕刊 )

   放射能除去装置は最終兵器の夢を見る 


いつだったか、新聞の投書欄を見ていたら「東北にある放射能の汚染を取り除くため、より良い技術が、早く開発されるよう願う」みたいな意見が載っていました。

私もまったく同感です。

それで思い出すのは宇宙戦艦ヤマト・シリーズです。どの巻だったか忘れましたが、放射能除去装置を駆動させるシーンがあり、一瞬で致死量の放射能が完全に無害化されていました。とても感動的なシーンでした。

私も、あんな装置があったらよいな、と思っていましたが、延長線上を考えてみると、あれは意外にも最終兵器になってしまうのではないでしょうか。

現在は核兵器が最終兵器ですが、その核兵器をも、一瞬で無力化できるほどの強力な放射能除去装置があれば、核兵器はただの鉄クズになってしまうのですから。

核兵器だけではありません。

原発も、原潜も、原子力空母も、核燃料貯蔵所も、そこに、たとえば人工衛星などから放射能除去ビームを照射すれば一瞬で鉄クズ化できるとしたらどうでしょう。

その技術を復興のために死に物狂いになった日本が独自に開発してしまい、東北を楽園に戻し、その後、極秘技術として、自衛隊のみが防衛目的で配備しようとしたとしたら…

もちろん、飛んでくる核ミサイルを迎撃するMDの後継機として、メーサー殺獣光線みたいに、核ミサイルに照射して鉄クズ化しようとして。

そのとき世界中の核保有国は戦慄するでしょう。

拉致をしたあの国、南の島を狙うあの国や、北の島を返さないあの国、それどころか世界の警察官を自負するあの国も、顔面蒼白で日本を恐れるかもしれない。

一つ間違うと、その恐れと被害妄想から、自衛隊が実戦配備する前に、日本に先制核攻撃をしてくるかもしれない。

どこか映画「最終兵器彼女」にも似た終末感。

もちろん、これはSF話ヨタです。

大正時代には、メルトダウンした日本の原発や、日本を狙う核ミサイルや、それを迎撃するMDなど、だれも想像しなかったでしょう。

それと同じぐらい荒唐無稽なお話です。

   ショッキングピンクのおばさん 

都会の公園、

夏の日の、

白日夢。

公園などで、立禅の瞑想をした後は、いつも現実世界に戻ってこなければなりません。

そのために、直後は、だるまさんの様に、目をかっと見開いて、あたりを見渡すのです。

立禅をした直後は、心が風のない湖のように澄んでいるので、あたりを見渡せば、たとえ何十秒かにしても、美しい世界の片りんを感じることもできます。

よく、悟りを開くと、なんでもない俗世間の景色が光り輝いて見えると聞きますね。たわむれに立禅をしたところで、悟りなど開けるわけでは無いのですが、それでも、日常生活に忙殺されている時には、気がつかなかったもの、それも、美しいものに気がつくのです。

その日は、百日紅(さるすべり)の樹のてっぺんに、夏らしいショッキングピンクの花が咲き始めていたのに、気がつきました。あの色は、夏の高温多湿にも負けない、夏にふさわしい、鮮明なピンクでありました。

足もとのシロツメクサでは、黄色っぽいシマのある、愛らしいミツバチが、無心に遊んでいます。

近くの草では、薄いグレーのトンボが立禅のまねをして静止しています。

そして、セミの大合唱が、嵐の波のように、おしよせてきます。

私はときどき思うのです。

だれも気づかぬうちに、あの大合唱の中にまぎれてしまい、秋になったら、セミといっしょに、消えてしまうのも、幸せではないのかと。

でも、そんな気持ちを、ショッキングピンクのおばさんは、人生は陽気に楽しむものよ、と破壊してくれるのでした。

   クローバーには手があるの 

だれかが言ってました。

四つ葉のクローバーって、

かんたんに見つかるんだよって。


でも、私になんか見つかるわけない、と思ってました。

それが、見つけたんです。昨年の初夏に。

公園の鉄棒にぶら下がって、なにげなく、下を見たら、数えきれないほどのクローバーの中で、彼は手を挙げてたんです。

これが、一回目

でも、摘み取って帰る途中、どこかに落としてしまいました。

二回目は、公園で体操中、なにげなく下を見たら、やっぱりクローバー君は手を挙げていたのです。

なんだ、かんたんじゃん。

そばで、保育園の保母さんが、子どもを遊ばせてたので、クローバーは子どもにあげようかと思いました。

でも、子どもに価値がわかるかなぁ。

それに「不審者が子どもに接近中」と110番されても困ります。

それなら、若い保母さんにあげようかと思いました。

でも、「変なおじさんが公園で話しかけてきた」と、噂にされてもこまります。

だから、やめました。

クローバーは、そのままにしておきました。

それからは…

2度あることは3度あるはずだと思って、公園へ行くたび、四つ葉のクローバーを探すのですが、もう、だれも手を挙げてはくれません。

私、どこかで、なにかを、まちがえたのでしょうか。


    喫茶店へ行ったら人生が決まった 

エサのいらない、

ペットって、

知ってましたか。


会社にいたころの話です。

厄年を少し超えたころ、わたしは無性に退職したくなりました。

毎日ブルーな気分。

「うつ」になったのかな。

そう思って、本を買って、自己診断をしたところ、イエローカードが出ました。

やっぱりそうだろうな…

でも、その後、職場で全員に行われたストレスチェックでは異常無し。

おかしいな…

そんなある日、

偶然入った喫茶店で、彼女を見つけたのでした。

彼女は壁にいました。

それは「花だんの近く、ねころんで、こっちを見ている、黄色いシマもようの猫で、漫画チックな愛嬌のある画風です」。

フランスから輸入品。文庫本2ページ大、1万円也。

あっ!私の絵だと思いました。

衝動買いには高いという人もいるでしょうが、それで救われるなら安いくらいです。他に誰も癒しの代わりをしてるれる人(猫)はいませんでしたから。

私は彼女の近くに座り、いっしょに一時間コーヒーを飲んでから、連れてかえりました。

おかげで退職せずにすみました。

その猫は、いまでも私の部屋にいます。

思えば、あれは「仕事が合わなかった」+「厄年特有の心の不安定」であり、「うつ」では無かったのだと思います。

あれから、うん十年。

その仕事もなんとか卒業しました。

もし津波でも来たら、彼女といっしょに逃げますよ。

もちろんです。


    JAZZの名盤から見る、オレオレ詐欺 

本人ではなくて、

舞台に、

だまされるよ。


JAZZピアノのビル・エヴァンス。その1961年の名盤に「ワルツ・フォー・デビイ」があります。

JAZZファンなら知らぬ者のない、超のつく名盤の一枚。

「これを聴いて美しいと感じなければ、病院に行った方がよい」と言いきる者もいるほどの作品。

でも、そのジャケットについて言及するものは少ない。

ジャケットには額縁のように太くて黒い枠があります。そこに、むかしのTVのような4対3の画面があり、黒いシルエットで、ショートカットの女性らしき人物の、やや横向きの、首から上が写っています。

彼女は、おそらく、アルバムタイトルのデビイでしょう。当時2歳だったビルの姪です。これはタイトル通り、姪にささげられたアルバムなのです。

でも画の頭身では2歳には見えません。20前後の女性みたいです。

ところで、黒いシルエット背景は何色だか覚えていますか(一度でも見た方に質問しています)。

それは「桜色」なのです。

やさしいピンク色。

この色が、ジャケットを見る人々に幸福感を与えていることは間違いないでしょう。

しかも、たぶん人々は、自分が今、幸福感に浸っているとさえ気がつかない。

「桜色」であった記憶さえ無いかもしれない。

でも、黒いシルエットしか記憶がなかった人も、潜在意識にはこの「桜色」が刷り込まれているのだと思います。作者は、それを計算していたのかどうかは分かりませんが、シンプルで実にハイセンス、かつ巧妙な画だと思います。

そう言えば、人を包み込むように光るオーラにも色があり、私の友人の女性はピンクだと言っていました。

ピンク色のオーラをまとう人は、ネットでいろんなサイトを検索させてもらうと、優しさ、慈愛、安心感、平和、と言った心の持ち主だそうです。

たぶんこのアルバムの画は、デビイちゃんが20歳になったころを想像して作ったものなのでしょうね。

ひるがえって、私たちの生活の中にも、このアルバムのように、実体の実力ではなく、その背景の色や、雰囲気で、私たちを説得しているものも存在しているはずです。

そんなものにも気がつけばと思いました。

そうそう、オレオレ詐欺の狂言もそうですね。みなさま気をつけましょう。

私みたいに「私は大丈夫」という人が一番あぶないそうですから。

    秘密の花園 

一輪の花が、

人を癒し、

蜂を生かす。


マンションの玄関脇に、坪庭があり、芝生が植わっていました。

気がつくと、そこに、シロツメクサみたいに小さく、タンポポみたいに黄色い花が、一輪咲いていたのです。

きれいだな、と思って目をやると…

その花の中に、さらに小さなミツバチ君が、1匹とまっていました。

そんなに小さな花にも…

そうですよね。

花って、ありそうで、ないですよね。

先日も、ミツバチ君は、人間なら踏みつぶしてしまうような、ちいさな原っぱの草を、点々と飛び回っていました。

「そこに蜜はないよ」って、教えたくなるほどに。

だから、きっと、あの坪庭の花は、ミツバチ君にとっては、とてもラッキーな秘密の花園なのでしょう。

がんばれミツバチくん。

   焼き豚は、二枚いれてくださいな 

牛丼店から、

よそに浮気して、

分かったこと。


牛丼店の雰囲気は、群衆の中の孤独。

客は放っておかれるからです。料理が来ないと言う意味ではありませんよ。店員さんは客の動向にあまり注意を払わないという意味です。だから雑踏にいるのと同じで、客は群衆の中の孤独を味わえます。

料理はなぜだかわからないけれど、コスパとは無関係な愛情を感じなくもないのが不思議。どんぶり飯と、牛肉と、おしょう油のマジックか。

そして店を出た後も、さっきまで店にいたという意識が希薄。だから充実感はあっても疲労感はない。

ファミレスの雰囲気は、面接会場。

ファミレスはいろんな意味で、牛丼店より店員が客に注意をはらっている。だから、どこか監視されているような空気を感じます。

料理はおいしいのだけれども、コスパを最大限追求した工業製品みたいな料理で、一抹のさみしさも感じます。

そして店を出た後は、面接会場を出た後のように、ちょっとだけ、心にすり傷をおっている自分に気づきます。

焼き豚が一枚のみのラーメン屋ってなに。

あっさり味が好きになってきた最近は、焼き豚の大量トッピングをしたいとは思いませんが、焼き豚は好物なので、基本設定のラーメンでも2枚は欲しいです。

と言いますか、一枚しか入っていないラーメンって、美学としても信じられません(インスタント・ラーメンならそんなものだと、あきらめもできますが)。味自慢を掲げる街のラーメン専門店なのに、なんだかなぁ、と言う気分です。

私は、もし人生に絶望した若者が、最後の食事にラーメンを食したとして、焼き豚一枚が、彼の生死を分けるリスクも感じるのです。

そう言う意味からも、ぜひ2枚入れてあげてください。

   猫には嫌われないようにね 

もの心ついた時から犬ばかり飼っていて、猫さんに親戚はいませんでしたが、いつの頃からか、私は猫も好きになりました。

最近は、街を散歩しているとき、公園に行ったとき、猫に会うと、美女に出会った時のように嬉しい気分になります。

でも、猫って女性と同じぐらい敏感な生きものですね。

以前、猫は、私を見ると、たいていは、そそくさと、駐車中の車の下とか、家並の細いすき間などに、隠れていました。

でも、野口晴哉さんの本を読んで、それは私の方に問題があるのかもしれない、と思ったのです。

野口晴哉さんとは、野口整体の創始者で、気功治療も行い、オーディオと音楽が好きな、日本の東洋医学を代表する方です。奥さまは近衛文麿・元首相の娘さんです。そんな野口さんご夫婦が書いた本があります。

どの本だったのか、すぐには探せませんが、その中に、こんな話があるのです。

当時、野口さんの治療所にいたお弟子さんの一人は、飼っている猫に嫌われていたのです。お弟子さんが近づくと散ったように逃げるのですね。

それを見た野口さんは「猫に嫌われるようじゃ、いけない」と注意するのです。

それでお弟子さんは修行し、やがて猫も逃げないようになりました。

具体的な修行内容は書かれていなかった記憶です。

でも、私自身、面白い経験がありまして、昔は、私を見ると近所の猫は逃げていたのですが、気功をやりだしたら、逃げないことが多くなったのです。

多くなったというのは、私の心にも波があり、その気持ちの高ぶった時には、逃げることがあります。

しかし、気功をやった直後の様に、風のない湖面、のような平穏な気分の時は、逃げないのですね。

猫は、人間のストレスが出す「オーラの色」や「邪気」みたいなものを敏感に察知しているのではないでしょうか。

しかも、これは猫だけでなく、ハトにも同様な効果がある気もします。

映画「キャスト・アウェイ」の主人公・チャックも、きっとシステム・エンジニアの仕事をしていたときは、猫も逃げていたはずです。でも、無人島から生還した時には、もう逃げないのでは。

リトマス試験紙と言うものがありましたが、身近な環境に、猫ちゃんや、ハトちゃんと言う、無料ストレス・チェッカーがあることを知って得をしました。

でも、お願いだから、気功の立禅の瞑想中に、遊んでくれと、にじり寄らないでほしい。

   妻と二人で音楽を聴きたかったから 

なにかのレビューで聖子ちゃんの話をしたので、久しぶりに彼女の歌を聴きたくなりました。

LPやLDもたくさん持っていたけれど、CD移行期に、不覚にも全部売ってしまったので、CDで聴きました。

それは、1981年作品「風立ちぬ」です。

まずイギリスのスピーカーで聴きました。

シルクのスカーフをふんわりと彼女の顔にかぶせ、その上から優しく触っているような歌声です。

イギリスのスピーカーには、イギリスの血が流れ、やや、ほの暗く、それが味わい。概ねハーモニーを聴かせることに長けていて、クラシック音楽には申し分ありませんが、いわゆるJ-POPには上品すぎます。

ん~わるくありませんが、もう少し彼女に近づきたい。

次にドイツのスピーカーにしてみました。

これ、これ、このサウンドです。

聖子ちゃんの熱唱が、生き生きと再現されます。

彼女が目をキラキラさせながら、こちらを見つめて歌っているのが見えるようです。

ドイツのスピーカーには、ドイツの血が流れ、メカのドイツを思わせる楷書体の音がします。明るく、クッキリとして、もちろん上品であり、クラシックもOK、ベートーヴェンなどがマッチしそう。そんなリズム感と生命力のある音が、聖子ちゃんの熱唱にも合いそう。

もちろん、ドイツ製が聖子ちゃんにベストマッチと言う意味ではありませんよ。世界にはイタリアとか、フランスとか、アメリカとか、ほかにもいろんな血統のスピーカーがあり、比較試聴すれば、もっとマッチする製品がありそうです。

ところで、音楽評論でも有名な吉田 秀和さんは、写真を拝見すると、あまりオーディオ装置にはこだわらない方のようでしたが、スピーカーだけは、たしかドイツ製をお使いのようでした。

これを知って、同じ製品が欲しいと思ったマニアの方も多かったと思います。

たしかに、あの製品は(同じドイツ製でも私のものとはメーカーが違いますが)とてもよい製品です。でも、吉田さんが選択した理由は、音色だけではないのです。たぶん。

実は、吉田さんの奥さまは、ドイツ人女性だったのです。

だから、ドイツのスピーカーは、吉田さんの、妻への愛の言葉、だったのかもしれません。

スピーカーとは、時に、こうべをたれて、音楽にひざまずく、祭壇なのです。

吉田さんは、愛妻に先立たれた後も、きっと妻と二人で音楽を聴いていたのでしょう。

   味覚、視覚と、聴覚 

ドレッシングも何もかけていないレタスの、くすんだ緑味は、シンフォニーの音に感じます。

むかし好きだった安物の輸入ワインの味には、新品(より刺激的)で安物のツイーター(高音専用スピーカー)から出る、質の悪い汚れた高音みたいな雑味が残りました。

そして、日本酒ですが、一般的には、ポリプロピレン(よくタッパーウエアなどに用いられる半透明の柔軟な合成樹脂)を振動板に用いた、ロジャースの民生用スピーカーの音、あるいはポリプロピレン自体の共振音、とでも言った方が良いかもしれません。それを感じます。

もし、その日本酒が安物だった場合には(私が飲んでいるような)、ツンと鼻をつくアルコールの刺激臭がすることがありますが、あれからは、セットしたばかり(いわゆる新品)の安いスピーカーコード(たとえば赤黒・白黒のコード)が鳴らす、高音のしゃくれ上がった刺激音に感じます。しばらくすると接点が酸化してくるのか、刺激音も多少落ち着きますが。

例えば、何とかタワーがライトアップされているとき、タワーの内側の色が外側と違う場合には、その内側からはラジカセが鳴らす様な、やや刺激的な中音域を感じます。外側にアンテナなどが雑木林のように密集して付いていれば、昔遊んだゼンマイ式のオモチャの戦車の様な、心を削り取るような不快感と紙一重の走行音を感じます。

でも、それは望遠レンズで、これでもか、的にアップにしたときの話。もし遠景で見れば、きっと夕涼みにもってこいの風情であり、美でしょうね。

私の場合、これを聴こえると言うのか、ただ感じているだけなのか、よく分かりませんが。

   初恋の声は

森山良子さんは20代の頃からのファンでした。

生まれて初めて買ったLPレコードも彼女のものです。

初期の歌声は、①「バケツからタンクへ注がれる温かいミルクの流れ」のように見えました。

その後、彼女は、その美しいミルクトーンだけでなく、②「手で引きちぎったブリキ板(実際にはひきちぎれないと思いますが)」のような声も目立つようになり…

やがて、ロック・ギタリストが、わざと歪ませた音を出すように③「新雪の朝、雪の上に点々と飛び出している庭木の小枝」みたいな声も出すようになったのです。

個人的嗜好を言えば、①が大好きです。

②は、ときどき、スパイス程度なら許容範囲かな。

③については、当時は、何かの間違いであってほしいと切に…そして、とうとう、このあたりで、ついていけなくなって…

あれから何十年かたちますが、今ふりかえると、彼女の①は「初恋の声」でした。

ですから、今でも、その系統の歌手をみつけると、ついCDをポチってしまいます。たとえばノラ・ジョーンズさんがそうです。

と、そんなことを長年思っていましたが、これも共感覚的な感想なのでしょうか。

森山良子さんの最近のCDは買っていませんが、今はどんなお声なのでしょう。私は女性の歌が好きですが、例外的に、直太朗さんの歌(雨に濡れて形が少しゆがんだ段ボール箱てきな声)は大好きです。今は、息子さんも応援しています。

  「イチョウ」≒「ミカン」

公園に、大きな樹があります。丸い枝ぶりの。

もう黄色に色づいて、でも、ところどころ、まだ緑も残っています。

そこに暖かい朝日が反射し、輝いて…

あ、この丸い枝ぶりは「ミカン」だ、と思いました。

あれから何日かになりますが、何回見ても、やっぱりミカンでした。

イチョウの葉は「内から外へ向かって」黄色く色づいていきます。

だから、ちょど今頃は、外周の1/4~1/5ぐらいだけが緑なのです。

そんな樹を、朝日の中で見ると、いい具合に色がブレンドされ、本当に景色はミカンなのでした。

風が吹けば、色もゆらめく。

自然には、大きなものと、小さなものが、相似形になることがあります。

だから、ミカンと、イチョウも相似形。

一個と無数の相似形。

   冬には温かいビールも欲しい 

昔、私が幹事をした会社の慰安旅行で、バスに乗り日本海沿いの温泉地へ行きました。こんな時はバスが出発すると同時に酒宴が始まるものです。

寒い時期なので、私は常温のビールを用意しました。そうしたらA係長は「ビールは冷たいのが常識だ!」と言い、B係長は「寒いからビールは冷やさんでも良い!」と言ったのです。私が困惑したのは言うまでもありません。

会社をリタイアしてからは、年配の友人知人たちと忘年会をすることもありました。先輩たちは全員、冷えたビールを嫌い、焼酎のお湯割りを飲んでいました。

「とりあえずビール」の世界に慣れた私は、冷たいビールで乾杯しない酒宴に驚きましたが、数年の後には、自分も扇風機が欲しい真夏以外は常温のビールを飲むようになり、暖房が必要な時期になると、温めたビールを飲みたいと思いながら常温のビールを飲むようになりました。聞くところでは、本場ドイツではビールは冷やさないそうですね。それどころか冬には温めたビールを飲む国もあるようです。

日本でも、コンビニなどで、常温飲料は冷やさないところがあるそうです。やっぱりニーズがあるのですね。

それなのに、なぜ飲食店や、温泉旅館では、冬でも冷えたビールや氷の入ったジュースしか出さないのでしょうか。はり紙でもして宣伝し、何本か冷蔵庫から出しておくだけでも多用なニーズに対応できるはずですが。

いつだったか、居酒屋で「冷蔵庫に入っていない常温の瓶ビールを下さい」と言いましたが、店員さんは怪訝な顔をした上に、やっぱり冷えた瓶ビールしかくれませんでした。「どうせ、お前の店ではぬるいビールしか出せんのだろう!」と皮肉でも言ったと誤解されたようです。

「温めたビール」や「ホットビール」でググッてみると、好意的な意見が沢山ヒットすることに驚かれると思います。いろんな温度で飲める日本酒の国の酒好きさんは、一度お試しを。

   温泉旅館の最終目的地 

先日、ひなびた温泉とまではいきませんが、山にかこまれた川沿いにある、中堅どころの温泉地へ行ってきました。

紅葉の盛りは過ぎ、茶褐色の枯れ山と、川の音だけが聴こえる、そこはモノトーンの世界でした。川の流れる音と言うのは、ときに「戦車のキャタピラの音」にも似ているのですね。

その温泉地は、まだ外国人には知られていないらしく、客層は日本人のシニア層(ほぼ、おばちゃん一色)で、にぎやかでしたが、空気感が統一された安心感もありました。

ところで「温泉旅館の最終目的地」とは、いったい、どこ(なに)なのでしょうか。「温泉旅行だから、露天風呂に決まってるだろう!」と言う人もいるでしょう。「旨い地酒と、郷土料理にきまってる」と言う人もいるはずです。

私も温泉には、夕食前と、寝る前と、早朝の3回入りました。早朝には、外気温0度近くの誰もいない露天風呂で、すっ裸で体操もしました。やってみると意外と寒くないものです。また地酒と郷土料理も食べました。

でも何かが、もの足りないのです。

昨今、旅館業も楽ではないらしく、私の泊まった大型旅館も、さまざまな合理化が進んでいました。でも、不要だとして、あるいはコスパが悪いとして切り捨てられた、おもに人的サービスの中に、私の最終目的地が有ったような気がします。

セルフサービスのカフェのようなこの旅館では、「事務的な受付担当がいるだけで、部屋担当の仲居さんもいないし、女将さんも見えない」のです。

そんな中、一番印象的だったのは、わが町から送迎してくれた、マイクロバスの運転手さん(ガイドさんはいないから)でした。彼だけがバスを代表し、旅館を代表して、挨拶と、旅の安全を祈ってくれました。「送迎バスの運転手さんだけが、笑顔の中にも、真剣な目で私たちを見つめ、一所懸命に顔の見える接客をしてくれた」のです。

それにくらべ、私が一泊二日で泊まった宿は、豪華さをまとってはいても、主(あるじ)のいない家のようでした。

帰宅して、映画「千と千尋の神隠し」のラストに吹くすきま風を、ふと思いだしました。

   秘境の温泉 


近隣にあって、昔からときどき名前を聞く、ローカルな温泉地というものがあります。

ネットで見るとお湯も良いらしく、「源泉かけ流し」とか書いてあることも。さらに料理の評判も良くて、「穴場」だと評価している人もいたりします。

それで、私はさっそく近所の旅行社でパンフをもらおうとしたのです。そうしたら「申し訳ありません。弊社では契約しておりません」とのこと。

規模もごく普通なのに…業界の内部事情は知りませんが、そう言うミステリーもあるのですね。

近隣の住民は、旅行社が扱っていなくとも、たいていその温泉の存在を知っていますし、ネットを見なくとも、評判が悪くはない程度のことは知っています。でも、遠方の方には、いわゆる「地図にない街」状態になっているのでしょうね。

ほんとうに、この情報化時代にも、まだ、そんなこともあるのですね。

そんな「秘境」に魅力を感じ、ネット予約で行ってみたいと思いながらも、今回はパンフに載っている宿の予約をしてしまいました。

私は、そんな小心者です。

   12月のマグリッド 

チェーン店のコーヒーショップの店員さんの中には、何年通っても一見さん(いちげんさん)を見るような目をして接客する人がいます。最近はお役所でも、もう少し気が利いているのに。そんなとき常連さんは心に少しだけかすり傷を負って帰宅するのです。

先日、そんなコーヒーショップからの帰り道のこと、私はたそがれ時の大通りを南へ歩いていました。

通りのすぐ脇(西側)には大きなビルがあり、沈みかけた西日をさえぎっていて、そこだけ日陰になっています。

その冷ややかな空間には、大きな街路樹がアーモンドの様な形をして一本そびえていました。

道行くクルマもライトを点灯し始めました。道路工事の点滅ライトや、遠くにお店の窓から漏れてくる明りも見えます。

そんな時、なにげなく空を見上げると、黒々とした樹木の向こうに、まだ青い空と白い雲が目に入ったのです。

空はまだ昼間の余韻を残していました。

でも地上は夜の気配をまとい始めています。

「あっ、これは…マグリッド…」。

いつのまにかベルギー出身、シュールレアリスムの巨匠、ルネ・マグリッド描いた名画「光の帝国」の中に迷い込んでいたのです。

ベルギーは白夜のある国なのですね。「光の帝国」は、そんな淡い光の中でインスピレーションを育んで描いた絵なのでしょう。

今、12月の日本は一年で最も日の短い季節です。

   昔は色々ありました 


「ダイオキシン」など知らず、ゴミの焼却炉で、灰をまさぐって宝もの(燃え残り)を探すのが好きでしたし、建築廃材の「鉛板」を、手でも切れる鉄、としてオモチャにしていました。

こわれた体温計から取り出した「水銀」を転がして楽しんでしまたし、「放射線」の出る夜光塗料などは駄菓子屋さんで売ってました。

大好きな「砂場」には犬避けカバーなどありませんでしたし、建築廃材の「石綿・アスベスト」など平気でさわっていました。「コールタール」なんかの缶もほかってありましたね。

だいいち、近所の遊び場は埋立地で、トラックで運び込まれるゴミをまさぐって宝物(やっぱりゴミ)を探して遊ぶのが好きでしたから。それこそ、大人が埋めて隠してしまいたいような物があふれていました。

駄菓子屋さんには、今では使用していないような、人工甘味料「チクロやサッカリン」、人工着色料があふれていたはずです。

そうそう、予防接種の注射針だって、たしか使い回しでしたね。

学校で生徒が廊下に立たされるのは普通の事。先生の中には、節だらけの固い竹の棒を毎日持ち歩き、正解を言えない生徒の頭をゴツンと(かるく)叩く人もいました。節だらけの竹で、見るからに痛そうな竹で、たぶん心理的な威圧効果を狙ったんですね。実際には軽くしか叩きませんでした。でも、今の学校でそんなことは絶対に出来ない。

わが家の内壁材は、その後、使用が禁止された化粧合板らしいのです。理由は知らないけれど、塗ってあるニスがいけないのだと勝手に推理しています。たぶん「ホルムアルデヒド」か。花瓶の花を近づけると、壁際の花だけ、すぐ枯れました。(この旧家はすでに解体しました。)

   すべてのものには出会いがある 

散歩する公園のすぐそばにあるリサイクルショップへ行ってきました。

しかし、下町の、あんな辺ぴな場所にあるのに、入りにくい工場的な雰囲気をもっているのに、お客さんは入ってますね(まるで税務調査みたいなレビュー)。

お客の9割はおばさんです。ワインのヌーヴォーの時期のせいか、ワイングラスを買っている人もいましたが、中には、靴から、服から、カバンから…全身コーディネートにはげんでいる人もいました。

残る1割はおじさんです。おじさんたちはウインドショッピングしているだけで、あまり購買意欲はないようでした。1人ベルトを見ていたので、私も後から見てみましたが、好みに合うものはありませんでした。

私がいつも見るものは文庫本のコーナーです。ブックオフの半額程度で買えます。種類は少なくとも御縁を大事にしています。

でも今回は、ぐい呑みを買いました。私はガラス製が好きです。100円前後で買えるので、ウイスキーのショットグラス的な透明なもの、青い沖縄ガラスみたいなものなど、全部で3つぐらい買いました。ショットグラスもぐい呑みに使えますから。

それから、ワインやシャンパンも飲める、細長い装飾グラスも200円で買いました。昔、流行のでっかいワイングラスを買ったことがありましたが、あれは大きすぎて気負けすることが分かりました。

今の私には、もう少し小さなもので良いのです。今回のものは、デザインはもとより、重量感や手触りが気に入りました。握るところがトウモロコシみたいな、ぶつぶつで、なめらかな、感触です。

それに、冬にホットウイスキーを飲もうと、湯呑みを買いました。南のリゾートを思いだすような、エネルギーをもらえるカラフルな絵の書かれたものが気に入りました。80円也。

500円で江戸切子風のグラスもありました、綺麗でしたが、手に持った感じが軽すぎたので敬遠しました。売れないらしく、後日行ったら2割引きになっていました。

そう言えば、LPとかDVDなどは全くありません。一昔前は、たいていのリサイクルショップの床には、箱に入ったLPが厄介物の様に置かれて売られていました。値段はタダ同然でした。でも、今はLPの価値が再発見されているので、専門の中古レコード店へ流れているのでしょう。

それから、隅っこに置かれた、小さな、その他雑貨のワゴンに、古びたデスクランプが一つありました。「ん、どっかでみたな!」そう思って、手に取りました。ちょうど、小さなランプが欲しかったのです。デスクの作業用に。

金属製、色はゴールド、ガタも無し、大きな傷も汚れも無し、電源コードにも異常無し、中間スイッチも良子な感触、電球もきれい。いかにも古びたライトしたが、それは、そうデザインされた物だと思いました。値段を見たら500円也。ふつう中古品は動作確認が必須ですが、今回は、直感で信用買いをしてきました。

帰宅して、試用したら、まったく問題ありませんでした。古びていても、ティッシュでこすっても汚れはつきません。すみずみまで綺麗にクリーニングしてあります。

それにしても「どっかでみたぞ、これ」と思い、ネット検索してみたら、アマゾンで売っていました。アンティークランプの現行品で、値段は5,000円近いものでした。

    ラスベガスとは似て非なるもの

広大な埋め立て地の、広大な工場地帯、民家など見えません。

そこに通る市バス一本。

私は埋立地にある小さな植物園に行くため乗っていました。

誰も歩いていない道路と、延々と続く不愛想な塀、それに灰色の工場群だけが見えます。

そんな中、途中ぽつんと、観覧車のある小さな小さな遊園地がありました。

太陽の光がさんさんと降り注いでいます。

でも、遊園地のオーラは、工場群の沈痛に、完全に飲み込まれていたのです。閉園しているわけではありませんが、人影も見えません。

色はカラフルですが、工場群と同じように静謐をまとっています。

この「ハイコントラストかつ異様な気」をなんと表現したら理解してもらえるのでしょう。

最後の決め言葉を一晩考えましたが、どうにも、上手い表現が見つかりません。

ただ、あのとき、そこで降りてみたい気持ちと、一目散に逃げだしたい気持ちが、同時に起こったことだけは確かでした。

   バケツ一杯の水 

元気な時にはClassic、少し落ち込んだ時にはJAZZを聴きます。

でも、もっと哀しい時には女性の弾き語りが心にしみる。

フォークギター一本で勝負する、マイナーな歌手さんたちのYouTubeコンサートです。

彼女たちの歌声が、今、私の心を一番熱くします。あらためて女性の声は美しいと。

共感覚で聴くその声は、さながら“冬木立にかかった羽衣のよう”。

凛とした冬木立はギターの旋律、艶めかしく風にゆれる羽衣が女性ボーカル。

特に女性ボーカルは“幽体離脱した彼女の魂”のごとく。

無重力の宇宙船内で、バケツ一杯の水を、そおっと空間に浮かべた感じが、もっと近いかな。

それが水銀で作ったオスカー像の様に、ときにはもっと細長いものの様に、変幻自在にゆらめくのです。

その水がエネルギッシュなゴールドか赤銅色に輝いているなら申し分ありません。

   カラフルな観覧車 

よく行く喫茶店の窓から、こんもりとした森の中の、カラフルな観覧車が見えます。

この距離だと、観覧車の回る速さと、雲の流れるスピードはほぼ同じ。

私はいつもの席から、いつものホットココアを飲みながら、いつもの観覧車と、初対面の雲をながめているのが好き。

それは、とても幸せな時間。

何年もすごしてから気づきましたが、観覧車は沢山の子どもや、カップルを楽しませるだけでなく、遠くから一人眺めるおじさんも楽しませてくれていたのです。

あ~ぁ、観覧車のような大人になりたい。

   喫茶店の壁 

ふらりと入った喫茶店の壁に、壁土が扇状に、たくさんの波のように塗ってありました。

それを見ているうちに昔の事を思いだしたのです。

それは私が若いころの話。

春4月、人事異動で新しい部署に配属されて間もないころ、仕事を早く覚えようと、会社帰りに喫茶店に入り、先輩から教わったことを復習していました。

ケーキの美味しいその喫茶店の壁にも、おなじような扇状の波が、たくさん描いてあったのです。

あのとき私は37歳。まだ青春が永遠に続くつもりで、ぼんやりと日々を過ごしていました。

感覚的には20代のような気がしていましたが、もう37歳だったのですね。人生の分水嶺・40歳まであと3年しかないのに。

もし…あの頃に戻れたら、いったい私は何をするのでしょう。

少なくとも…女性には…もっと優しくしておこうかな。


   いつのまにか 

朝の公園で体操します。

とても広いのに私一人。

でも朝日の影は三つ。

スリム落葉樹のお母さんと、小さな私、そしてアフロ常緑樹のお父さん。

いつのまにか私は子ども。

三人家族の子ども。


   ゲルマニウムラジオ 

幼いころのお正月の思い出はいくつかありますが、そのひとつに「ゲルマニウムラジオ」があります。これはイヤホン専用の電池のいらないラジオです。プラモデル屋さんに売っていて、今のものとは違い、葉書サイズのトランジスタラジオの様にカッコよかった。

お年玉をもらうと、すぐ買いに行きました。昔は、正月三が日、たいていどこの店でも休みになりましたが、プラモデルやさんは元日から営業していたからです。

さっそくラジオを開封すると、ぷ~んと電子機器特有の匂いがして、それは幸せの匂いでした。そしてピッカピカのロッドアンテナ取り付けて延ばし、クリスタルイヤホンを耳にはめ、そろそろと選局ダイヤルを回すと、チ~チ~と小さな音が聴こえてきて、胸がドキドキしました。

それから私は、ラジオを持って冬枯れた下町の原っぱ、しずかなお正月の工場地帯を、あてもなく歩いたのです。

思えば私は“遥か遠くから聴こえてくる小さな音”が好きでした。BCLやアマチュア無線のように、ここではない、どこか遠くから聴こえてくる、小さくて賑やかな音が。

その音は私にとっていったい何だったのだろう考えると、それは映画「華麗なるギャツビー」で、主人公が一人いつも眺めていた、対岸の青い光だったのかもしれないと思うのです。

もちろん、あの時の私はまだ幼く、初恋さえもしていませんでした。でも心の中で、ここではない、どこかにあるかもしれない幸せを聴こうとしていたのです。あれは無意識の小さな家出だったのかもしれません。

でも、たいてい七日正月が終わるころには、ロッドアンテナの付け口が壊れてしまい、青い光は見えなくなってしまうのでした。

    友だち 

冬の落葉は秋がくれたチョコレートクッキー。

足でサクサクかんだら、

おいしいと答えましょう。


    “カラスの勝手”にできない  

若山牧水の短歌に、「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」というものがあります。

でも、ほんとうに染まらないでしょうか。

私の記憶違いかもしれませんが、昔、どなたかのエッセイに、南の島の、息を飲むようなエメラルドグリーンの海上すれすれを飛ぶ鳥が、“海のあお”に染まるのを見たことがある、と書いてありました。

先日、それを思いだすようなシーンに遭遇したのです。

カフェ帰りの夕方、なにげなくUR高層ビルを見上げると、屋上にカラス君たちが集っていました。

次の瞬間、私の視線に気づいたわけでもないでしょうが、何羽か飛びだったのです。

そのとき、彼の羽ばたいている羽が下にきたとき、羽の裏側、先端の1/3が、朱色に染まったのでした。

夕陽は、黒いカラス君さえ朱色に染めるパワーを秘めていたのです。

黒に朱色は、なかなかオシャレでしょ。

だから、きっと白鳥も、“空の青海のあを”に染まる瞬間があるのだと思います。

   ゆきやなぎの花

スポーツセンターの近く、ゆきやなぎの花がチラリと咲いているのを見つけました。

普通は3月下旬に、雪がはんなり積もったように、白く小さな花を咲かせるものです。こんなに早いのは初めて。わが目を疑いました。

ゆきやなぎは春が着るウエディングドレス。私はあの花が大好き。もしかしたら満開の桜よりも好きかもしれない。満開の菜の花、満開のコスモスとなら良い勝負かな。

今咲くゆきやなぎを見ると、まだプロポーズもしていない彼女の家で、押し入れ隠してあるウエディングドレスの裾が見えてしまったような気分です。

見なかったことにしましょうか。

彼女も、まだ見つけて欲しくないはずでしょう。

きっと。

   

   冬木立 

 冬木立は、お空をお掃除する大きなホウキなの。

みんなが寝ている間にね。

おかげさまで、ほら、

今朝は、こんなに青空。


   ひとり言

梅と桜は水彩画だけど、

ハナミズキは油絵ね。

それから…

チューリップはポスターカラー。

ミツバチさんのひとり言。


   ギター 

ギターの曲線は豊満な肉体を、

弦の直線は精神性の高さを表し、

キラリ光る糸巻きはイヤリング。

私はゆび先で彼女の心をつま弾く。

世間ではこれを「口説く」と言う。


   アーチェリーの楽しみはコーヒーブレイク

ここ4年近くアーチェリーをしていません。それまでは毎週2~3回のペースで10年近くしていたのに。休眠するきっかけは体の故障です。スポーツに故障はつきもの。アーチェリーはヤワなスポーツに見えるかもしれませんが、強力なエキスパンダーのような弓を引き続けるので、そんなに甘いものではありません。

私の場合は右腕の故障と打撲で3か月の練習中止、それに五十肩が重なり、さらには風邪もひいたりして…その追い打ちをかけたのが引っ越しと新型コロナでした。今思えば61歳にあるとされる男の厄年が、陰で絡んでいたのだと思っています。でも、まだ10年ぐらいはアーチェリーを楽しめる歳だと思うので、このまま終わるつもりはありません。練習ペースは落としても、もういちど青空の下、射場の爽快感を味わいたいものです。

(追記)練習の楽しみにはコーヒーブレイクもあります。射場の休憩コーナーでの。当時、ちょうど私のブレイクタイムに、散歩の途中に寄られる方の時間が重なっていました。私と年齢が近い二人連れの紳士です。一人の方が話し好きで、もう一人の方は聞き役に回ることがほとんどでした。いつも、その話が聞こえてくるものですから、失礼ながら、聞くともなしに、外野で私も楽しませてもらうようになりました。内容は政治・経済・三面記事など、新聞からのものが多かったと思います。リタイア族は仕事の話から解放されますので、自然とそうなります。私も同じです。

それで思い出したのですが、昔どこかで「最近は話をする人はいても、物語を語る人は少なくなった」という話を読んだことがあります。今にして思えば、ここで言う話とは「反応」のことであり、物語とは小説のことではなく「意見」、「外野の人が聞いても楽しめるような話法」だったと思います。そんな方はブログを書けば、きっとお上手なのでしょう。

【 その他 】・・・・・・・・・・・・


   アーチェリーのトリックショット


「 【神業・アーチェリー】安久詩乃が70mでペットボトルキャップを撃ち落とす! 」

*「 ワイルドスピード森川 トリックショットに挑戦 #1 【それって!?実際どうなの課】 」このビデオの中でも言っていますが、森川さんはスジが良さそうです。すぐにコツをつかみ、顔つきが初心者卒業をして行く様子が見られます。

(追記)射場でよく見るアーチェリーの弓は「リカーブ」と「コンパウンド」です。ホームでの比率は8対2ぐらい。「リカーブ」は和弓のような三日月状のもの。「コンパウンド」は森川さんが使っている滑車付きのマシンです。

両者の特徴は色々ありますが、簡単に言えば、「コンパウンド」は弓と言うより銃器に近く、軽く引けて命中率が高いのです。ですから、筋力の強くない高齢者や女性に向いています。「リカーブ」と違って分解できませんので運搬が大変ですが。

一方、「リカーブ」はシンプルであるがゆえに難しく奥が深いです。そこが楽しいという人も多いです。そして、どちらの弓にも森川さんの様なスジの良い人は時々いらして。例えば、凡人の私が数年かかってたどり着いたレベルに、数週間で追いついてくるのです。

(追記2)アーチェリーの何が楽しいかと言えば、「(一人でも)向上心を満足させられる」からです。人間の欲求にはそれがあり、ただ生きているだけでは幸福感は薄い。でも、アーチェリーでそれを充電することが出来るのです。車いすアーチェリーでこれが証明されたから、障害者のためにパラリンピックが誕生したのです。

(追記3)アーチェリーの話をした後には、よく書くのですが、アーチェリーの矢は厚さ5ミリの鉄板を貫通するほどの殺傷能力があります。オモチャではありません。ですから、初心者は講習会を受講し、ルール、マナーを学んでから始めてください。我流は射場で受け入れてもらえません。通常、神聖な射場ではトリックショットなどの練習は歓迎されませんし、射場以外の、公園等での練習はいけません。危険なため警察に通報されると思った方が良いです。

(追記4)実は、私はトリックショットが好きです。でも、肌感覚では、隣でやって欲しくないと思っている人が多数派だと思います。そんな中、見慣れぬ新人がいきなりトリックショットの練習をすれば、嫌われかねず、狭いアーチェリーの社会、居づらくなりかねません。ですから、しばらくは我慢して、人間関係を作ることに専念し、その後に、親しい先輩たちに相談してみるのが良いかと思います。移住したら、移住先の文化を尊重し、人間関係を大切にしなさいというのと同じ理屈です。(2022.6.5)

(追記5)講習会の必要性をもう少しお話します。アーチェリーのトリックショットのビデオでは、広い射場を一人で占有していました。しかもコーチ付きで。これなら自由に練習できます。

しかし、実際の射場では偶然居合わせた数人~10人前後と共同使用しますし、コーチもいません。どのように練習するのかと言えば、同じリズムで6本射り、同じリズムで6本抜きに行くのです。一日中このパターンの繰り返し。まるでワンチームにのような、ダンスのようなこの動作が、阿吽の呼吸で、自然にできるようにするのも講習会の役目です。

また、弓に矢をつがえるのは、原則として発射しても良い時だけです。射ろうとする者全員、他の準備がすべて完了し、安全も確認し、後は狙って射るだけのタイミングになって(お互いに周囲の確認も必要になる)、初めて矢をつがえる事が許されるのです。

これが我流だと、自分の事しか考えず、それ以外の場でも安易に矢をつがえます。このような行いは事故につながりかねず、同席者にとっても命にかかわる脅威です。当然、気が散り、練習の質が低下します(弓の調整などのために矢をつがえる必要があるときは、必ず貫通しないコンクリートの壁などのそばで、壁に向けて行います)。

そして、講習会修了者は、射る時も我流ではなく、一定の所作で射ります。
所作にどんなメリットがあるかと言えば、他人同士が練習していても、その所作が自然に行えるか否かで、同じ文化を持った者かが判断でき、さらに次の動作のタイミングも予想できるので、見知らぬ人が武器をふりまわしていても、安心して練習できるのです。練習者は無意識に相互監視をしており、危険を感じた場合には管理者に通報されると思った方が良いです。

都会の混雑した道路でも安心してドライブできるのは、全員が免許保持者であり、道交法という文化を共有しているからだと思います。違う道交法や我流・あおり運転等が混じっていては、怖くて並走できません。これは、ある意味似ています。

(追記6)「 パラリンピックの起源は負傷兵のアーチェリー大会 」      (「SPAIA」)  先日ご紹介した話の記事を見つけました。

(追記7)普通の人がアーチェリーを始めるときには、コンパウンドが良いとは限りません。むしろ、ユーザーが多く(つまり指導者が多い)、構造がシンプルで、しかも、分解して運搬可能なリカーブでスタートした方が良いかもしれません。その辺りの相談も、講習会やショップでは乗ってくれるはずです。

(追記8)私が住む地方都市では、講習会を受けていれば一人でも射場で練習させてもらえますが、聞くところでは、東京などでは「アーチェリー技能証明書の類」が無いと練習させてくれない射場があるようです。上達するために練習したいわけですが、一人で安全に練習できるだけの技能が証明されないと、門前払いになるのです(このあたりの差異は、過去に大事故があったか否かなど、そこの特殊性もかみされての判断なのでしょう)。

では、どうしたら良いのかと言えば、クラブに入り、クラブ活動として、コーチの指導下で団体練習するのです。そこで上達して「アーチェリー技能証明書の類」を取得できれば、以後は個人でも練習可能でしょう。ちなみに、射場で事故が起きれば、新聞沙汰になりかねません。大きな事故では射場が一次的に閉鎖されることもあり、その場合には、射場からも加害者に損害賠償請求がなされる可能性があります。

(追記9)アーチェリーの規制を厳しいと感じる方がいるかもしれません。その厳しさの理由は、多分、銃器に近い殺傷能力があるのに無免許で中学生ぐらいから扱えるからでしょう。国の免許が不要であるがゆえに、間違いが起こらないよう、現場関係者は神経を使って自主管理しているのだと思います。今のところ私も現状で良いと思います。もし国の免許制になれば選手の底辺人口が減ると予想されるからです。芸能人のかくし芸にも使えなくなりますし。

(追記10)追記8に『 私が住む地方都市では、講習会を受けていれば一人でも射場で練習させてもらえますが、聞くところでは、東京などでは「アーチェリー技能証明書の類」が無いと練習させてくれない射場があるようです。… 」と書きました。これを不公平だと感じる方もいらっしゃるでしょう。その通りです。では、公平を求めた場合、厳しくするのか緩くするのか、どちらに流れるのでしょう。

最近、クロスボウ(ボウガン)が事実上禁止されたように、私の肌感覚ではアーチェリーの規制も緩い方向に進むのは難しいと思っています。だから、地方都市の私たちも、厳しくなって射場から閉め出されることを密かに心配しているのです。

リタイア後の健康のために行っている高齢者は、10年前なら試験に合格できる腕前でも、今は無理だという人は多そうです。年々筋力も衰えていきます。鍛えても現状維持が精いっぱい。そんな人は、引退を迫られ、一気に老け込んだりしそうです。

伝統あるオリンピック競技であり、欧米では貴族のスポーツとされているぐらいですから、大事件が起きたわけでもないのに、国が免許制にするのは唐突感がありますし、デメリットも大きそう。ですから、現状、国としては免許制には消極的だと思います。だから、その心配はあまりしていませんが、もし大事故でも起きれば、地方都市の射場の受付を「東京並みに厳しくせよ」という世論ぐらいは生まれそうです。

(追記11)弓矢とバッグを一セット揃えるとしたら予算はいくらかかるのでしょうか。私はショップで紹介されたリカーブの中古部品から、気に入ったものを選びました。「ハンドル」と呼ばれる長さ50センチぐらいの、握りのある弓の中央部です。店長さんに、これに新品の部品・矢・バッグを組み合わせてもらい、(おまかせで)ワンセット作ってもらいました。素人が最初から自分ですべて選択するのは困難です。合計で12万円ぐらいだったと思います。

安いものでは、新品でこの数分の一の物もありますが、射場デビューすると、毎回他人の弓矢と見比べることになり、すぐに目が肥えていきます。目が肥えるのも上達の内です。そうすると、実用上は問題無くても1年で買い替えたくなるような気がします。しかし、私のセットぐらいだと、定年後の趣味にする人なら、一生それで満足できるかもしれません。もちろんグレードアップする人もいますが。

ちなみに、射場では新品で20~30万の弓矢は珍しくありません。高校生ぐらいなら、男女とも多くの人がそれぐらいの物を使っています。子どもがオリンピック選手になる夢を見た親御さんにとっては、高い買い物ではないのでしょう。社会人なら私の友人(腕も良い)は60万円ぐらいの弓矢に買い替えました。まさに、オリンピックレベルの高級品です。

こう書くと、アーチェリーはカネがかかると思われるかもしれませんが、例えば「野球と比べても高くはない」と、比較した知人は言っていました(私は野球の事は良く知りませんので)。ご覧の通り、アーチェリーは初期費用が掛かりますが、ランニングコストは公営射場の代金と、1~2か月に一枚の(目玉焼きのような)的紙、たまに壊れる矢の修理ぐらいですから。

もったいないのは、講習会を卒業と同時に新品で20~30万の弓矢を買ったのに、すぐやめてしまう人がいる事です。その心配を防ぐなら、講習会を卒業と同時にクラブに入って、貸し弓で1~2年練習してみることです。実際そういう方もいらっしゃいます。腕もお上手ですよ。自分の弓矢を買うのはそれからでも遅くありません。

(追記12)貸し弓と自分の弓(矢も含めて)の違いは何でしょう。弓矢にもグレードの上下がある事はすでにお話しましたが、その他に、弓矢というものは得点を競うようになるとカスタムメイドの必要があるということです。体形や筋力に応じてフィットする弓矢は違ってきます。弓の大きさも、バネも、矢の長さ・硬さ・重さも違います。そこから、さらに小さなパーツを変えたり、微妙なチューニングを変えて、自分専用の弓矢を作って行くのです。

逆に言えば、「弘法筆を選ばず」とは違って、中級者ぐらいになったら「マイボウ」(自分の弓矢)を持たないと、当たる矢も当たらなくて、余分な苦労をしたり、無意識に変な射形の癖がついたりしかねません。カスタムメイドの弓矢は、初心者はショップへご本人が出かけ、専門家にお会いして作ってもらうのが早道です。

(追記13)アーチェリーの事故はどのような時に起こるのでしょう。私の知る限り、アメリカの銃乱射事件のような意図的で悪質なものは、日本のアーチェリー界では起こっていません。日本で起こっているのは(まれにしかありませんが)不注意による事故です。けっして腕が悪いため起こっている事故でもないようなので、「テストで〇点以上の成績が無いと一人で練習させない」旨の規則があったとしたら、整合性が取れないように思います。他に適切な評価方法が無ければ、便宜的に仕方ない一面もあるのでしょうが。

その不注意による事故ですが、例えば、練習のし過ぎで疲労が限界に近づくと(ある意味、飲酒運転のような状態になる)、手元がくるって暴発することがあります。その時でも、他の要件(ルールやマナー)を守っていれば人身事故になる可能性は少ないですが。このようにアーチェリーにおいては、がんばることが美徳だとは限りません。安全第一が必要です。

しかし、練習の終わりがけ、疲労の中が意外と当たりやすいのです。理由を想像すると、当てるためには集中よりも無心が必要だからでしょう。集中は無意識に筋肉を緊張させるので、意図したように動いてくれず、矢が曲がりやすいのです。しかし、無心になると緊張がほぐれるからだと想像します。弓と禅がセットで語られることがあるのは、練習の最初から無心になる、鋭い眼光ではなく、涼しい目になる必要があるからだと思います。

(追記14)私は和弓をしたことが無いのでいけませんが、「弓と禅」でしたか、和弓の本に「自分の意思で発射するのではない(神がかった力にコントロールされている)」旨の記述があったと記憶しています。和弓は神秘の世界ですね。

アーチェリーの世界では、リカーブの発射タイミングは、矢を定位置まで引いた時に「カチン」と小さな音を立てるクリッカーという装置によって、射手に合図されます。射手はその音で条件反射的に指の力を抜くように訓練されています。ある意味、和弓同様、自分の意思で発射するのではないとも言えるのです。

すると何が起こるのか。例えば、『今まさに矢を射ろうとして構えている(クリッカーが鳴るのを待っている)射手に、後方から笑顔で話しかけた親しい友人がいました。射手は弓を構えたままの姿勢で「なあに?」と後ろを振り向いたのです(絶対禁止行為です)。すると、体をねじることで微妙に矢を引いたことになり、クリッカーが「カチン」と鳴りました。すると、条件反射的に指の力が抜けてしまい、矢は友人めがけて飛んでいったのです』。架空の話ですが、可能性としてありえることです。このように、腕の上手い下手ではなく、不注意が事故を起こすのです。


   挿入画像についての私の考え方

note様でテキスト(文章)を投稿しようとすると、画像も入れたくなります。画像を入れるとデータ使用量が増えると思うので、無料枠に入れられる投稿数が減る可能性があるように思いますが、されとて、画像無しも寂しいので。

入れる場合、ご承知のとおり、外部サイトにフリー画像もありますが、手軽なのはnote様内部のフリー画像で、写真が趣味の方などが投稿し、専用ボタンで簡単にテキストなどに流用可能なシステムになっています。ありがたいことです。マガジン用の画像でしたか、どこかで、note様内部のフリー画像流用のボタンが見当たりないものもありました。あちらも改善して欲しいものです。

画像の選択方法ですが、最初の1か月間ぐらいは、文章の世界観にふさわしい画像を、私の感性で自由に選択していました。すると、暗い映画の場合には暗い画像になりやすいのです。「裏庭の花壇」を目指す私には「暗い」のは本意ではありません。後から画像だけを見ても、(少なくとも私が)心安らぐ明るい風景になって欲しいのです。

なので、「ドラマの内容 < 明るい画像」を目指すようになりました。明るくてドラマの内容を反映する画像があれば、それに越したことはありませんが、相応しいものが見つからない場合には、内容とは切り離して、(やむをえず)関係のない「明るいお花の画像」などを挿入したりしたこともあります。

この意外な組み合わせは悪くないと思いました。「イチゴ大福」という食べ物がありますし、映画でも内容とは違った雰囲気のテーマ曲を挿入して成功した事例があるからです。ミスマッチの妙を楽しみたい、偶然の産物、意外な産物を愛でたいと思いました。

しかし、その辺りで、画像提供者の方にも、「この画像はこのような場合に使って欲しい」という希望があり、画像の下段に書いてある事に気づきした。

映画監督には映画に対する大きな権限があるように、映画のレビューを書く者にはそのレビューのついての大きな権限があると思っていましたから、画像提供者の希望は落とし穴でした。

しかし、役者には役者の希望があるので、希望を無視して強制的に演じてもらうわけにはいきません。画像も同様だと思いました。提供者の希望は尊重する必要があります。

以後は、画像提供者の希望欄を注視する様になりました。

しかし、さらに問題があります。画像という一枚の作品を、私の作品に掲載するときに、ズームしたり、上下左右に移動させたりすることがあります。画像を枠に合わせるために必要な機能ですが、私の感性を生かす場合にも使えます。往々にして拡大気味にしたいのが私です。小学生の頃、渾身の細密画を書いて、先生から「でも、小さい」と言われたのが今でもトラウマになっているかもしれません。しかし、加工を画像の提供者はどう思うのでしょう。私が提供者ならあまり快く思わないかもしれません。一枚一枚が提供者の渾身のアートだからです。そんなことを思いながら、今日も迷い、文章をUPするのと同等以上のエネルギーを使って画像をUPしています。

画像提供者の方には本当に感謝しています。

(追記)note様内部のフリー画像、検索の初期設定では「すべてのジャンルの画像」が出て来ます。私はこれを見ながら自由に探すのが好きでした。「ジャンル別」や「検索窓」もあります。画像提供者の希望を尊重するならば、検索窓にこちらの希望を入れて検索し、画像提供者の希望とマッチングした画像の中から、一枚を選択するのが効率的だと思い至りました。

映画「ストレイ・ドッグ」を例にとってお話します。この映画は「美女が般若のような怖いメイクで復讐する作品」です。キーワードとして般若を入れてみました。予想通り般若の画像が出て来ましたが、裏庭の花壇に怖い画像を入れたくはありません。困っていたら、「般若寺のコスモス」でしたか、そんな画像があったのです。可憐なコスモスをアップ画像にしてみました。花を半分カットし、地面のザラザラが目立つようにしました。これで、美女の裏の怖い顔の記号にでもなればと、半ばこじつけですが、きれいな花の、裏庭の花壇にもふさわしい画像になりました。

(追記2)「画像の加工」の話ですが、本文で書いた通り、私が画像提供者だとしても加工して欲しくありません。渾身のアートだからです。しかし、それは画像単体での評価です。私の文章とのコラボという新しい関係性の中で再評価した場合、一定の加工は許容されるのではないか、むしろ、関係性の中では、ジャズのアドリブように変質するのが自然なのでは、というのが、私の現在の考えです(もちろん「加工しないでください」など特記事項があれば、それを尊重するのは言うまでもありません)。

監督は俳優さんにどのようなお芝居を求めるのか。映画「東京物語」のようにシリアスなのか、それとも同時代を映画いた映画「三丁目の夕日」シリーズのような、漫画チックなお芝居なのか、あるいは、もっとデリケートな部分まで、監督は自分の世界観を俳優さんに求めるでしょう。そして俳優さんも、監督の求め以上のお芝居を、時にアドリブで演じることがあるのです。(2022.4.13)


   キーボードによってはブラインドタッチの上達が…

『 やがてPCの前にワープロ家電時代に入りました。当時、アウトラインフォントが優秀で、拡大した時の印刷の仕上がりが最高に奇麗だとの評判で売れていた○社のワープロ。でも、その初期の頃のモデル(現在のPCモデルについては知りません。)は、キーに大きめのガタがあったので、10本の指を置いただけで、触覚的な雑音としての不快感と、ぐらぐら揺れるハシゴの上に居るような不安感もあり、またバネも、少なくとも私の指には、ふにゃふにゃとマシュマロ並みに柔らかすぎて落ち着かず、指を触れているだけで、押すつもりも無いのにミスパンチを多発し、とてもタッチタイピングには向かないチープな作りの物だったのです。

ある日、不覚にも、そんな事務所のワープロを、そうとは知らず借りてしまったので、ガンバって冷や汗ものでトライしていると「あいつ、かっこつけてタッチタイピングしてるけど、ぜんぜん打てないじゃないか!」と、そんな眼で見られたのです。ここで「機械のせいだ!」と言っても負け惜しみにか聞こえません。でも、その問題点を指摘するレビューは少なかった。

たぶん多くのユーザーは印刷の仕上がりにはうるさくても、一本指打法、程度の人が主流であり、そのためキー感触には比較的無関心だったのでしょう。○社はその隙をついて、本来は人体と接触する、感覚的に極めて重要なメカであるはずのキーボード部をコストカットした製品を作ってしまったのではないでしょうか。そう邪推されても仕方の無いような製品でした。あれはタイピングの練習をしたい人には適さない製品だと思いました。

( 上記は30年ぐらい前のワープロの話です。今は改善されているでしょうが、これからブラインドタッチの練習をしようとする人が、知らずに上記のようなキーボードを買ってしまうと、あるいは押し入れにあったお父さんの古いワープロがそれだったりすると〈それで練習すると〉、キーボードのせいで上達が遅れることも考えられるわけです。しかし、知らない本人は自分のせいだと思ってしまう。その悲劇は絶対に避けたいのです。その為には、最初の一台は、プロ用キーボードを参考にして、しかも安価で標準的なものを選ぶのが良いと考えたわけです。千円台で良いものが買えます。それが下記の説明につながって行きます。 )

ちなみにキー感触の標準とするのは、オフィースでパンチャーたちが使用していた、いわゆるプロ用キーボードです。キー感触の味わいがまったく前述の物とは次元が違いました。キーにガタが少ないので、静かな味わいで安心感があり、適度なバネ圧と、ストローク(キーを押した時のヘコミぐあい)で、常時キーに触れていても、押そうと思わなければ、不用意にキーが押される事もなく、快適で、当然にミスパンチも減ります。もちろん民生用の家電ワープロにも良いキーを持ったものが多々あるので、選択に困れば、プロ用を参考にして、とりあえず似た感触のものを選べばよかったのです。

( そして、ブラインドタッチをマスターした頃には、自分の好みも分って来ますので、もし標準機に不満が出てきたなら、好みに沿ったものに買い替えても良いと思うのです。それが下記の説明です。 )

映画「タイピスト!」の中でも、ローズがタイプライターのキーの感触に異を唱えたら「それは、あなたの技術が未熟だから」との意味の事を先生から言われるシーンがありましたが、けっして、そうばかりではないのです。特に、スピードを争う場合は、キーとの相性がとても大切です。

たとえば指の短いに人は、キーのストロークがやや小さめの物(ノートPCに多い)が良いのです。そんな人がストロークが大きなものを選ぶと、ときどき、押したつもりでも入力されず、ストレスは溜まるし、こんどは、キチンと押そうとするとスピードは落ちるし・・・。

また、指の力の強さも、キーを選ぶときの重要な項目で、力の弱い女性がバネ圧の強いキーを選ぶと、ときどき、押したつもりでも入力されないため、つねに意識して力を入れ続けなければならず、やがて指の筋肉だけでなく、精神的にも疲労が蓄積してしていき、勤労意欲まで失う事があります。

毛筆や万年質、ボールベンにシャープペンシルなど、人は書き心地にこだわるのに、キー感触の味わいまでは、特にタイプライター文化の無い日本では、繊細な日本人の感性でも、なかなか、分からなかった盲点なのでしょう。』

( 30年たった現在、現行品のキーボードの完成度はあがっているでしょうが、全部をチェックできませんので、老婆心ながら書きました。 皆様のご成功を祈ります。 )

( これは映画「タイピスト!」の私のレビュー本文に、抜粋、加筆、再掲したものです。 )

追記

「 IKEA DUKTIG 60256502 レジ 」

https://www.amazon.co.jp/IKEA-DUKTIG-60256502-%E3%83%AC%E3%82%B8-%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89/dp/B00PRKR5Y2

レジスターです。

私が初めて買ったワープロの画像を探しましたが見当たりませんでした。中古で15,000円ぐらい。テンキーは付いていません。デザインはこのレジに似ています。ワープロだからキーはもっと沢山ありますが。表示板はレジみたいに一行しか出て来ませんが、文章の練習をするのではなくタイピングの練習なので問題ありません。

ボタンはこのような電卓ボタンではなく、盛り上がった普通のワープロのボタンです。だからブラインドタッチが出来るようになりました。メモリーは1万字記憶可能で、1時間ぐらいTVのセリフを打っていると、表示板に「1万字」と出て打ち止めになりました。若かったから疲労感はあまりありませんでした。

やがてPCの時代になりましたが、私が買い始めた頃は、ノートPCが20万円ぐらいしたので高根の花。多くの人はブラウン管のデスクトップPCを買いました。7万円ぐらいでした。デスクトップには現在1,000円台で売られているような、プロ用を思わせるような、テンキー付きの立派なキーボードが付いていました。当時の私にとっては、そのキーボードがPCの標準キーボードという感覚なのです。

だから、何年かの後、ノートPCが値下がりしてきて買ってみたら、キーボードの落差を感じたわけです。ワープロ→デスクトップPCまではキーボードのクオリティが上昇しても、ノートPCで落ちてしまったわけです。さらに職場に入ったプロ用キーボードとも比較して。この落差感覚、もしかしたら、初体験がノートPCの世代の多くの方には、未体験のことかもしれませんね。

追記2

さらにノートPCからスマホの時代になると、従来型のキーボードは使わなくなりました。若者は平気でスマホで文章を書くようですが、だれでも老眼になる頃から、細かい入力は苦手になって行くのだと想像します。でも、苦手になったからと従来型のキーボードに戻っても、目で検索している以上、老いるにしたがって、だんだんとそれも困難になるのだと思います。音声入力という手もありますが、音声を発する必要上、いろんな問題があることはすでに書いた通りです。そのようなこともあり、若いうちにブラインドタッチをマスターしておくことは良いことと思っています。

追記3

TVドラマに「二月の勝者-絶対合格の教室-」がありました。中学受験のお話ですね。でも、のんびりした半世紀前も、私を含めた多数の人が、小学校の頃には塾に通っていたのです。そろばん塾です。

その後、私が就職した当時も、まだ現在のような電卓は普及しておらず、事務員にそろばんは必須の技能でした。だから、公務員を含めた事務職に就こうと思うなら、小学生の頃から準備する必要があったのです。当然子供にその自覚はないので、親が戦略を立てなければなりません。そして、そのそろばんを実戦に使えるようになるには、毎日1時間ずつ1年以上は通う必要がありました。私は2年ぐらい通いました。だから就職時の履歴書の特技にも書くことができました。そして、就職してみたら、職場の皆が、まるで新聞を読むようにそろばんを使えました。無線技術者のたしなみがモールス信号なら、事務員のたしなみはそろばんだったようです。

何を言いたいのかと言えば、電卓が出来た現在も、(暗算が出来るなど)そろばんが無価値になったとは思いませんが、少なくとも、そろばんにかけたのと似た情熱を、ブラインドタッチにかける価値はあるのではないかと思うのです。

しかし、小学校の頃は毎年2か月ぐらい休んで留年の声さえ聞こえてきた私が、学習塾ではなく、そろばん塾に通っていたのは面白い事です。一応親から聞かれた事はありますが、「学習塾はいや」と答えたら、それ以上は言われませんでした。親も勉強よりそろばんだ(手に職をつけろ)と思っていたのでしょう。映画「タイピスト!」でも、社長はタイプの技能を彼女に求めるのですから。

   早期退職のあれこれ

就職初日に退職したくなり、それでも何とか頑張って、気がついたら40歳。「こうなったら転職ではなく早期退職を目指した方が良いかも」と思って、当時、色々考えたことがあります。

一番最初に考えたのは当然に生活費のこと。会社をずる休みし、電卓とメモ用紙を持ってモーニングサービスの喫茶店に籠り、一生食っていけるにはどれだけのお金が必要なのかを計算しました。一回だけでは計算間違いがあっては大変なので、日時を変えて、何回も。( あの当時を思い出すと、懐かしく、あまずっぱい思い出になっています。早期退職の計画を立てることは、片想いの彼女に告白する計画を立てる事にも、似ているのかもしれません。)

すると、節約しても預金だけでは苦しいことが分かります。特に家賃が痛すぎる。さらに、暇は出来てもお小遣いが足りない。だから資産運用をしたくなります。でも、私は株はバクチだと思っています。会社の業績だけではなく、地球の裏側から発信された国際情勢によっても大きく株価が変動するからです。リーマンショックが良い見本です。「預言者でなくては常勝は困難だ」というのが私の稚拙な認識です。

それはともかく…株には「値上がり益」と「配当など」の収入があります。
①投資信託には配当を出さずに再投資し、ひたすら値上がり益を目指すという商品があります。どうもそれが王道らしいです。買った人はそれを少しづつ売って生活費に充てるわけです。しかし、少しづつでも売って行けば最後はゼロになります。ゼロになりそうだと思えば、又バクチのような売買をして増やさなければいけないかもしれません。老いてからでも。

②一方、配当をくれる投資信託や株・J-REITを買い、売るのではなく配当収入だけで生活できるように設計すれば、単純計算で一生ゼロにならないわけです(ただし「タコ足配当」はダメです)。

この「一生ゼロにならない」というのは高齢者にとって安心感が大きいと思うのですが、それでも①が良いという人がいるのはなぜでしょう。私は金融の素人ですから専門的な事は知りません。ここに書いたこと自体が間違っているかもしれません。ただ、これが、40歳の当時から続いている素朴な疑問の一つなのです。

(追記)リタイアしてから必要なのは、お金、健康、趣味、社会参加でしょうか。お金については述べましたので、健康と趣味について話します。年に一度健診を受け、毎日ジョギングなりウオーキングをすれば、おそらく健康は保てます。リモートワークな現在は、若い方でも「通勤という名の運動」が無くなったので、その分、リタイア族のように自分で積極的に運動しないと、健康を損ねる心配があります。その一環としても、スタンディングデスクは良いかもしれません。スツールもあると便利です。

趣味は一人でも出来る事を探しておくことです。老いてから新しい趣味をさがしても長続きは困難です。若い頃に興味があったことは大切に続けておきましょう。私はフォークギターを止めてしまった事を後悔しています。書くことが好きな人はブラインドタッチをマスターしておくことも良いと思います。

最後の社会参加ですが、在職中はうんざりするような人間関係があった人も、リタイアすると途端に人がいなくなります。小説「坊っちゃん」みたいに。お茶や食事に誘えるような友人を、在職中に何人か見つけておくことは大切です。しかし、前述したように在職中の人は人間関係にうんざりしていますから、リタイアしていく貴方にまで誘われるのをウザイと思っているかもしれませんので、形勢は不利ですが。しかし、彼等もやがて、私たちの気持ちを悟ることになります。会社以外では…図書館・文化講座へ行けば人はいますが、お喋り厳禁ですから友だち作りは困難です。私の経験では、スポーツセンターや趣味のサークルなどは、第二の会社組織のように、にぎやかな人間関係が作りやすいと思います。

   高齢者は(疲労 → 免疫力の低下 → 風邪など → 持病の悪化)に注意

昔、化粧品か何かのCMで「25歳はお肌の曲がりかど」というものがありました。お肌だけでなく「老化の発見」はそのぐらいの年齢だと思います。私がジョギングを始めたのは26歳の頃です。毎晩走ったのですが、翌日も疲労が抜けきらず、ようやく夕方になって少し楽になり、またジョギングをするという、体力の自転車操業があたりまえに出来ました。でも、やがて疲労困憊すると、それが引き金になって風邪を引いてしまうようになったのです。今なら「疲労→免疫の低下→風邪を引く→持病が悪化することがある」という理屈が分かりますが(新型コロナでは持病の悪化が問題になっている)、当時の私は、ミステリーだと思っていました。

そして、この「疲労から病気になる」というのは、高齢者になるとさらに敏感です。日々運動しないと老化を早めますが、運動でも、仕事でも、趣味でも、疲れない程度にすることが大切です。無理がきかなくなるので、(言葉の綾ではなく)リアルで細かいエネルギーの配分が必要になってきます。「酒は、ほろ酔い」程度がちょうど良いなら、「疲労も、心地よい」程度がちょうど良いのだと思います。母が健在だったころ、老いた母の憧れの地であるハワイに連れて行くと言ったら、断られました。今なら母の気持ちが分かります。(2022.1.30)

   ブラインドタッチはボタンとの相性が大切

ブラインドタッチ、おぼえたての初心者は、頭の中でボタンの位置を検索して指を動かしています。目で探していないだけで、頭の中で一所懸命に検索しているのです。

しかし、さらに練習をすると「指と頭の切り離し」が行われます(そうする必要があります)。つまり、頭で検索しなくとも、条件反射的に指が動くようになるのです。素人時代には考えても出来なかったことが、これからは考えなくても出来るようになります。その境地になると、指とボタンとのフィット感が大きな問題になってきます。せっかく修行をして勝手に指が動く境地になったのに、ボタンの感触が自分とマッチングせず、障害になっては、せっかく練習した甲斐がないというものです。理想のボタンは、まるでオーダーメイドの靴のように、限りなくユーザー個人にフィットし、ユーザーの心が揺れるままに、ボタンなど無いがごとく、文字に変換してくれるものだと思います。

自分にフィットしたキーボードはどれかは、その境地になれば誰にでも分かるものだと思います。でも、これから覚えようとする人は、とりあえず、どれか標準機で練習すれば良いと思います。自動車学校のクルマのように。(2022.1.31)

   ブラインドタッチでボタンのストロークが深いと

ブラインドタッチでボタンのストロークが深くて自分には違和感がある場合の話です。その違和感をもう少し詳しく言えば、「高い棚の上にある物を、背伸びして取るような気持」になるのです。ブラインドタッチでは、手のひらの位置は、ほとんど動きません。指だけ動かしてボタンを押すのです。手のひらまでふらつき過ぎては、現在位置がわからなくなり、ブラインドタッチが困難になりますから。すると、手のひらを固定したまま、指先だけせいいっぱい伸ばしてボタンを押すことになるので、「背伸びして物を取っているような気持になる」のです。そんな事が繰り返されれば、精神的に疲労してきます。タイピングをしたくなくなるのです。(2022.2.6)

   彼女と戦争のリンク

@ 映画「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」ではありませんが、当局は、彼女と戦争のリンクも心配したのでしょうか。(2022.2.15)

   プロフィールの追記みたいなお話

この機会に、プロフィールの追記みたいなお話を、色々させて頂きます。

( 映画について )

昔は、人が「面白い」と言えば「そんなに面白いなら観ないわけにはいかない」と、人が「つまらない」と言えば「その、つまらなさ、自分の目で確かめてやろう」と、休日はほとんど映画館に入りびたりでしたが、最近(コロナ前)は映画館は週に1~2回になりました。

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( 掲示板について )

人にものを伝えるのは難しいことです。対面していても難しい。ましてや掲示板に書き込んだだけで、完全なる意思疎通をするのは困難だと思っています。老若男女、生まれも育ちも違う無数の人たちが匿名で参加しているのですから。私の書き込みに反感などをもたれた方は、それは私の本意ではないと好意的に解釈してください。

ときどき「その解釈は違うと思う・・・」とか、返信を下さる方がいますが、できましたら御自分のスレッドを立ち上げて、返信ではなく、自主的な発表として、あなたの解釈をお披露目してください。その方が嬉しく思います。返信を下さるほどの自信とエネルギーが有る方なら、ご自分のスレッドを立ち上げることは容易だと思います。

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( 私のレビューについて )

子供のころ学校で「本を読んだら次の順序で読後ノートをまとめるように」と教わりました。

①あらすじ、②主題、③感想、の順です。

この中で私がいちばん興味をもっているのが②主題さがしです。私の投稿はおもに「独りよがりな主題探しの打ち明け話」で、レビューとしては中途半端なものです。少なくとも③の感想をプラスして初めてレビューの体をなします。③の感想は何を書いても良いのですが、主題が分からないと的外れなものになりかねないので、こちらもまた難しい。

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( 映画の解釈方法について )

私は映画の解釈をするとき、ふと「映画とはシンフォニー」ではないかと思ったことがあります。たぶん「どちらも小さなパーツが集まって展開し、相似形の全体が完成している」からです。だから、どこか「小さなパーツひとつを解釈することで、映画の全体が理解できるのでは」と、仮説を立てたのです。つまり「パーツAの解釈が、パーツBやC、Dなどにも当てはまるか、そして映画全体にも当てはまるか」を考えていくのです。そうすると、だんだん、その映画が解ってくると。

ところで、昨日、新聞を読んでいたら、理論物理学者の方の、面白いコラムを見つけました。

「 …私は、科学者、特に物理学者であることがどういうことか明確な感覚を持っています。観測や実験から得た情報に基づき、初期の理論を組み立てる。うまく行ったら、より多くの現象、より小さなスケール、より大きなスケールに当てはまる数式にまとめていく。常に実験や観測に照らしつつ、さらに異なる現象を統合し、より統一された理論を目指す。それが科学です。… 」( 2016.6.8 朝日新聞朝刊インタビュー「オピニオン&フォーラム『科学者とは』・アリストテレス 科学の源流でない 実は退屈な詩人 」理論物理学者、米テキサス大学教授 スティーブン・ワインバーグさん より抜粋 )

きっと皆さまは「つまり君の解釈は科学的なのか?」と、お尋ねになりたいと思います。それには「1パーセントぐらいのレビューは近いかもしれません」と、お答えしておきます。「では、あとのレビューは?」とは聞かないでください。「あとは退屈なポエムですらありません」から。(追記)以前は解釈の結論だけ書きましたが、最近は考えた過程を書いて行くように変化してきました。歳を取るとその方が楽ですから。それに、解釈できなかった作品も記録するようにしました。ご容赦下さい。

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( 映画、TV、原作本について )

映画の解釈に迷ったとき、原作本を読んで答えを知ろうとする人もいますが、あなたはどうしてますか。

正しい解釈に早く辿り着きたいのなら、読まないほうが良い、と申し上げておきます。なぜなら、映画と原作本は、近似の、しかし別々の物語(パラレル・ワールド)だからです。この二つの情報を同時に頭に入れることは混乱を招きやすく、解釈の情報処理に得策ではありません。

数ある映画の中には、細部に仕掛けをして、一見原作と同じに見えながら、実は逆の結末を用意したものも在るようです。どこかワンシーンの描写、ひと言のセリフで解釈がひっくり返る仕掛けを映画に仕込むのです。現実でもフロッピー・ディスクの改ざん事件がありましたが、あの現実の示すとおり、ほんの少しのことで結末はひっくり返るのです。

原作本に心酔し染まってしまうと、それは映画を冷静に観ることにはマイナスに作用すると思います。監督は観客が騙されるのを遠くから「してやったり!」と、ほくそえんで見ているのかもしれません。映画の解釈は原作本から離れて静かにすべきです。映画の補足説明ですら原作本に求めるべきではないと考えます。映画の事は画面の中だけで完結してください。(TV版ドラマも同様です。)そして、めでたく解釈が完了してから原作を楽しみましょう。別物として。

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( 映画の記号について )

津波と水素爆発で破壊された原発の映像がニュースに流れていましたが、その映像に私は違和感を感じました。バックの空がとてもきれいな青だからです。破壊された原発の残骸から受ける悲惨なイメージに打ち勝つほどに強く美しい青でした。それはワイキキの浜辺に似合うほどです。もし、これが映画なら、空は少なくとも曇天でなければなりません。嵐の時のような真黒な雲ならお似合いです。逆に言うならば、映画で不穏な雲がでてきたら、その後には悲劇が起こるという記号でもあります。

私のレビューには記号の解釈がいくつか出てきます。もちろん真面目に書いていますが、どれも私の独断と偏見で解釈したもですので話半分で読んでください。ご質問を頂いても多分お答えできません。

かつて私は「映画の記号辞典」を手に入れたいと思い、本屋さんで探した事がありましたが、売っていませんでした。その時に立ち読みした本(タイトルは忘れました。)によると、「記号というのは、ある程度の普遍性があるにしても、映画によって、また時代背景によっても変化するので、完全なる記号辞典は出来ない」というような事が書いてありました。

結局、映画の記号を解釈するには、多少の知識は必要だとしても、最終的にはその映画文脈の前後から動的な判断をするしかないのでしょう。専門書や原作に拘りすぎる静的な判断は間違いのもとです。一本の映画と言うものは、それだけで唯一無二の完結した世界、であることを忘れてはいけないのです。

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( その他 )

@ 「共感覚」についてお話しします。レビューやブログの中にときどき余談として出てきますので。

自慢話をしていると思われると困るのですが、私は50代になって初めて「自分には音→形が見える」(正確には、音を聴覚・視覚・触覚で味わえる)ことに気づきました。音が見えて触れられるのですが、たぶん生まれつきなので、当たり前すぎて自覚すらしなかったのです。誰でも同じだと疑っていなかったのです。

ところが中年になり酒席で、なにげなくオーディオマニアの友人に話したところ、友人が「オカルト話は嫌いだ」と機嫌を損じたので、もしかしたら違うのかもと、気がついたわけです。

その特殊な感覚はオカルトではなく、まっとうな科学であり、一般に「共感覚」と呼ばれています。しかし当時(10年近く前)ネットで調べても「文字に色がついて見える人」が一般的で、「音→色が見える人」ぐらいはあっても、「音→形が見える人」についての記事は皆無と言ってよい状態でした。だから「私のは本当に共感覚なの?」と疑問がふくらんだのです。

そんなある日、図書館で「ねこは青、子ネコは黄緑・共感覚者が自ら語る不思議な世界」(パトリシア・リン・ダフィー/石田理恵〔訳〕)という本を見つけて、救われました。

その中の「6章 作曲家マイケル・トーキーと音楽の色」で、音楽から視覚と触覚が刺激されるとして、「フレンチ・ホルンの音は丸」、「トランペットの音は先が尖った感じ」、「フルートは綿のような音」、「クラリネットは滑らかな音。まるでヒョウの毛皮のような感じ」と、そしてこれは「比喩」ではなく「知覚」だと書いてあったからです。オーバーに言えば、私は「不安と孤独」の世界で、やっと「仲間に巡り合えた安心」を感じました。

今日、あらためてネットで「音 形 見える」で検索すると、わりと多くの情報がヒットするようになりました。日本にも多数の仲間がいそうです。これもある意味カミングアウトなのですが、自己紹介であると同時に、「誰かを救える」としたら必要なことだと思いました。

@ 「気功」、「オーラ」についてお話しします。レビューにも時々出てきますので。

おじさんになってからの事です。雑談中に友人から「あなたはオーラが見えますか?」と質問され、後に試してみたところ、自分にも「少しだけ見える」ことに気づきました。50代になって初めて自分が分かったのです。もちろん友人にも「オーラ」が見え、同類の人はなんとなく判るのだそうです。

「オーラ」を一口で言えば、「仏像の背にある光背(こうはい)と呼ばれる放射状の後光」です。生身の人間にもそれはあります。光背みたいに放射状に鮮明に見えるのは希で、たいていは「体を包むぼんやりとした光」として見えます。私には。

見えることが何か役に立つのかと言えば、「うつ状態」の人からは「黒いオーラ」が出ている場合があり、それが見えることがあるのです。「黒い光なんて矛盾する」と思われるかもしれませんが、「昔の家庭用の、黒いゴミ袋を膨らませたような、『テラテラ黒光りする膜』みたい」と言えば分かってもらえるでしょうか。そんな光に包まれているのです。オーラが見える友人も同じものを見たことがあると言っていましたし、ネットにも書いてあります。

私は自分のオーラを見ている時に偶然「気」も見えることが分かったのです。「気」を一口で言えば、「全身から立ち上る白っぽい煙・湯気のようなもの」です。「煙・湯気」との違いは、「煙・湯気」は光を当てるとより鮮明に見えるのに対し、「気」は明るいと大変見にくくなるし、反対に暗闇でも見にくいのです。「気」を見るには「ちょうど良い加減の薄暗い場所」で、「暗色を背景」に手のひらを見ることです。私には手からモウモウと立ち上る「気」が見えます。

こんな「自分に起こっている現実」を無視するわけにはいきません。私はその「オーラ」と「気」をもっと知りたくて関係本を探しました。そして「気功」と出会ったのです。「気功」を学ぶことで「気」を健康に役立てることができました。今の私は「気」が見えるだけでなく、手のひらで弾力的な「気」に触れることも、多少操ることも出来ます。今の私にとって「気」は神秘であると同時に、「空気や水」と同じような「日常生活の一部」なのです。

他の人にも尋ねてみると、「臨死体験」みたいな事があった人、生まれつき日常的に「オーブ」が見える人などがいました。見えるのに昔の私と同じように気づいていないだけか、あるいは気づいていても、今の私のように人目を気にして「秘密」にしている人は意外に多そうです。彼(彼女)らは、理解してくれそうな同類の人にしか本当の自分を見せないのです。(2022.2.20)

   私が商品を紹介するときの姿勢

それは「ベストバイ」ではなく、「たまたま買ったものを紹介しているだけ」なのです。たまたま買っただけですから、良いもイマイチもあり、淡々とそれを書いているだけです。「私が書いたものはベストバイだ」と思う方はいらっしゃらないと思いますが、そうではありませんので誤解の無いよう申し添えます。ある意味、映画のレビューと同じですね。もちろん、映画のレビュー同様に、ステマではありません。(2022.1.31)

   子どもの頃は図画工作が好きだった

始めてから気がついたのですが、「note」様はクリエイターの館、創作の街のようです。最初はそれに驚いた私ですが、今は「なんとなくうれしい」のです。

なぜうれしいのかと考えたら、子どもの頃の私は図画工作が好きだったからです。小学生の頃はプラモデルが親友でした。中学生になるとラジオ少年になって、簡単な電子工作を楽しむようになりました。大人になると、なぜか根気が無くなってしまい、真空管アンプのキットを買っても、玄関に1年間放置してから組み立てるようになり、やがて、近年では組み立てもしたくなくなりました。組み立て専用に折り畳み式の机まで買っても、結局アンプは作れないのです。

そんな私の創作のエネルギーは消えたのかと言えば、エネルギー不変の法則ではありませんが、こうやって文章を書くことになっているように思います。幼き日に、絵を書くことから始まった私の創作は、老いて文章をタイピングすることに変化したのです。

私の書いていることがアートだとか、私がクリエイターだとか言うつもりはありません。それどころか、お恥ずかしい駄文です。しかし、「note」様の末席に加えて頂いたことを嬉しく思うのです。そして、その気持ちを掘り下げて行ったら、幼き日の「お絵かき」にたどり着いたのです。図画工作が好きだった私は、平凡に食っていくためにその道へは挑戦せず、無難な事務職で半生を終えました。しかし、やはり、無意識にそこへ戻ってきたのかもしれません。(2022.1.31)

   私のアマチュア無線受験記など

これは映画「オーロラの彼方へ」のレビュー追記にあったアマチュア無線の記事を転記したものです。2022.7.12

( 私にとっては懐かしい、主に40年ぐらい前の思い出話が中心です。法改正もあり、現在とは制度や名称、雰囲気などが違うこともありますので、そのつもりでお読みください。特に受験する方は最新情報をご確認ください。 )

追記 ( ウサギとカメ ) 2018/10/26 9:13 by さくらんぼ

平成30年になりましたが、平成元年頃には、今のようなスマホはありませんでした。あったのは、ティッシュケース2つ分ぐらいの体積の、大きく重たい携帯電話。値段も高く、弁護士先生とか、会社社長などが持っていたぐらい。ステータスシンボルの一つでもありました。(映画「テルマ」追記Ⅵより)

余談ですが、その10年ほど前の、昭和54ごろには、私はアマチュア無線の免許を取り、携帯可能なトランシーバーを所有していました。

私が(遅れてきた)ケータイ・スマホをいまだに持っていないのは、その反動でもあります。そのせいで、今は、私自身が遅れた人間になってしまいましたが( その後、2021年・令和3年秋にはとうとうスマホを買いました)。

追記Ⅱ ( 小説の最後の一行 ) 
2018/10/26 9:29 by さくらんぼ

高橋一生さんのTVドラマ「僕らは奇跡でできている」を観ています。

最初は「?」と思いましたが、公園の空気のような良さがあります。

彼は動物行動学を教える大学講師の役ですが、幼いころから、自分の興味のあることだけに没頭する人間でした。いわゆる集団行動に向かない子どもです。

大人になってからもその癖は抜けず、周囲(ウサギ)からは、K.Yな変人(カメ)扱いされ、見下されています。

しかし、ふと気がつくと、いつも周囲の方が置いてきぼりを食っているのです。

追記Ⅲ ( アマチュア無線の受験記 ) 
2021/2/21 10:03 by さくらんぼ

昨今、SNSの「Clubhouse」が話題になっていますが、ご承知のように、「アマチュア無線」も見知らぬ人々と雑談ができる趣味です。

老若男女どころか、肩書も身分も超えて世界中の人と話せるのです。万一言葉が分からなくても、Q符号という無線の共通言語と片言の英語で、交信に必要な最低限度の意思疎通は出来そうです。交信の証であるQSLカードの交換もできます。半世紀前にはどこかの王様もやっておられるとの話もありましたが、現在はどうでしょうか。

追記

昔はあったモールス信号の実技試験が、今はペーパーテストだけになったようで、取得しやすくなったようです。

留学したり、遊びに行ったことのある国と、アマチュア無線で交信したい、異国の友人も作りたいという人もいるでしょう。一度チャレンジされてはいかがでしょうか。

追記2

数ある周波数帯の内、昔から14MHz帯は海外通信で有名でした。

現在のアマチュア無線技士の資格は4段階に分かれており、14MHz帯は上級である第一級・第二級にしか使えませんが、昔からDX通信(遠距離通信)の高速道路扱いされていて、よく飛ぶようですね。

追記3

少し詳しく、私が受けたモールス信号の国家試験の模様をお話します。自慢の為ではなく(それも否定しませんが)、試験の歴史の記録と、「だから、免許を取るチャンスだよ」と申し上げるために。

私が持っている第二級アマチュア無線技士に、昔は送・受信の「実技試験」がありました。1分間45字で2分間の欧文(数字等も必要)による手送り送信と音響受信です。

緊張して手まで震えかねない試験本番で毎分45字に合格するためには、練習では第一級と同じ毎分60字がこなせる程度の実力になっておく必要があります。それも、TVやラジオもつけながらの悪環境で、モールス信号をこなすと同時に、番組も楽しめるぐらいの実力になっておくことが必要なのです。

1年間毎日練習して、なんとか私もその域になりました。そんな頃は、夜、練習後に寝ると、頭の中でピーピー音が聞こえるので、起き上がってスイッチを見に行ったことが何回もあります。今はもう聞こえなくなりましたが。

それでも、試験本番は冷や汗ものでした。

追記4

最初は受信でした。

学校の教室のような場所で、40人ぐらいの満席でした。試験が始まると、教壇辺りの一個のスピーカーからモールス信号が流れてきます。

イヤホンではないので、教室に反響して聞きづらいです。40人がいっせいに鉛筆を走らせる音や、衣服や手が回答用紙の上をこする音が、サワサワと異常なほど大きく響きました。誰かが咳をしました。その瞬間だけモールス信号が聞こえません。その情景を覚えているほど、神経を尖らせていたのです。

何かに動揺して気が散ると、その間にも数文字が飛んでしまいます。

もし自信がない時には脱字にするのか、誤字になることも覚悟で書くのか、瞬時に判断しなければなりません。脱字も誤字も減点ですが、誤字の方が減点幅が大きいのです。現場での脱字は質問すればよいのに対して、誤字は情報が誤って伝わり、時に生死を分けることにもなるからでしょう。自信が無い時に書く書かないかはバクチみたいです。

試験中にそんな事を思い出していると、窓の外をトラックが通って行き、エンジン音がとてもうるさく感じられました。しかし、ここで気が散ると数文字飛んでしまいます。

この運命の2分間を経験すると、普通のペーパーテストで1~2時間も時間がもらえるのは、緊張どころか、まるで休憩をもらったかのような解放感があります。

追記5

次の送信試験は、会社の面接試験のように、別室で待機して、一人ずつ試験室に呼ばれます。試験室には試験官が数人いて、数か所に机が分散して置いてありました。

原則として電鍵(トン・ツーを打つ道具)は備えつけの物を使いますが、許可を得て使い慣れたものを持ち込むこともできます。私は持ち込みました。少しでもリラックスするために。

試験官と向かい合ってマンツーマンで座り、電鍵を電線につなぎました。

合図で試験用紙をめくると欧文の文字が書いてあります。

まず、自分の受験番号と、氏名を打ち、その後に試験問題を打ちます。

打つと、ピーという音がすると同時に、テーブルに置かれた装置から、紙テープのようなものにトン・ツーが印字されていきました。初めて見たので、ドキリと動揺しました。

試験官はそれを手に取って見ています。

私は少し手が震えましたが、練習で第一級ハム並みのスピードで打てるようにしていましたから、震えながらも打つことが出来ました。

終わったら礼をして退室します。

命が縮みました。

追記6

モールス信号を暗記するだけなら欧文と数字を数日で覚えることもできるでしょう。ペーパーテストで100点を取れる人もいるかもしれません。

しかし、実技試験ではモールス信号を思い出している時間は無いのです。

毎分45文字ですから一文字1.3秒の時間しかありません。もし3秒考えたら2文字飛んでしまうわけです。動転したら、あっという間に5~10文字飛んでしまい、不合格になりかねません。

だから、送・受信ともトン・ツーが言葉に聴こえるまで、ペンで文字を書くように自然に手が動くまでの練習が必要なのです。

これは短期間では身につきません。

現在でもペーパーテストにはモールス信号の問題が出ますが、実技試験に比べれば(失礼ながら)無いも同然だと思います。ですから、第二級アマチュア無線技士の免許は取りやすくなりました。

追記7

残る無線工学・電波法規は中学程度の学力で解けます。

見慣れない無線工学の公式が出てきますが、私はメモ用紙に書いてポケットに入れておき、会社への通勤時間(往復2時間)に、呪文のように暗唱して覚えました。一週間あれば5つ覚わるわけです。

電波法の条文もメモに書いておき、同様に暗唱して覚えました。

記憶する問題は全部歩きながらの暗記です。

自宅では計算問題を解くことに専念しました。先ほど述べた通り、中学程度の学力で解けます。ただし(当時は)電卓禁止でしたから計算尺は必須でした。

第二級アマチュア無線技士の免許を取れば、14MHz帯にも出られますので、第4級を取って無線を開始したら、その情熱が冷めないうちにササっと取りに行って下さい。

第二級ではなく、いきなり第一級を取りに行くことはさらに良いことだと思います。

追記Ⅳ ( 14MHzのお空を可視化する ) 
2021/2/21 14:14 by さくらんぼ

「 アマチュア無線 14MHzの魅力 」

( 制作者 印旛沼無線クラブチャンネル )

14MHz帯は第一級・第二級にしか使えませんが、これを拝見すると、海外通信に人気な事が分かりますね。

追記Ⅴ ( 読むだけでもドキドキします ) 
2021/2/21 14:26 by さくらんぼ

「 2アマ女子エリーの“あまちゅあ無線に恋してる!?”

第1回 FBガールズ初の14MHz帯、100W運用 」

( 月刊FBニュース編集部 )

アマチュア無線界では、女性ハムの事を「YLさん」と言います。

(私の知る限り)YLさんの数は少ないです。

追記Ⅵ ( 近いうちに制度改正か ) 
2021/2/21 14:31 by さくらんぼ

「 429者が意見提出! 総務省が“アマチュア無線が大きく変わる制度改正案”に対するパブコメ結果を公表--1月31日(日)~2月6日(土)まで先週の記事アクセスランキングTop10 」

( 「hamlife.jp」 )

追記Ⅶ ( 合法的な運用を ) 
2021/2/21 14:37 by さくらんぼ

『 …前略…

本来、無線局は電波利用の原則の例外として各法令により規制され、一つの周波数の割当てを受けるだけでも、総務省に対して膨大な書類手続きを必要とし、提供する地域・空中線(アンテナ)の性能にまで細かく制限を受ける。

送信機からアンテナまで自由に通信・製作し、電波発信地域などの制限もなく、かつ長波からミリ波まで様々な周波数を「帯域」として広く自由に利用できるのは、私的学究目的のアマチュア無線だけである。

周波数帯域を、たった一人でも自由に利用することが許されているアマチュア業務は、それ故に従事者の責任は重くアマチュア無線を始めようとする者は全て無線従事者の有資格者である必要がある(日本では電波法第39条の13規定)。

…後略… 』

( Wikipedia「アマチュア無線」非営利・自由な私的学究無線 より抜粋 )

追記Ⅷ ( 酒田大火でアマ無線が活躍 ) 
2021/2/27 10:14 by さくらんぼ

「 酒田大火40年~つなぐ記憶(1) アマ無線有志、最前線で情報伝える 」

( 2016/10/27 12:30 「山形新聞」 )

追記Ⅸ ( 500人増えた ) 
2021/7/31 16:36 by さくらんぼ

『 (専門誌に聞け)よみがえるアマ無線:1 「CQ ham radio」櫻田洋一編集長 』

( 「朝日新聞デジタル」 )

一人で出来る趣味なので3密の心配もなく、話をする趣味なので孤独とも無縁です。すべてがコロナの効果なのかは不明ですが、アマチュア無線連盟の会員は約500人増えたとか。記事にはそんな事も書いてありました。

追記Ⅹ ( アマチュア無線の思い出 ) 
2021/8/1 17:30 by さくらんぼ

私が初めてアマチュア無線技士の資格を取ろうとしたのは中学生の頃でした。

いちばんやさしい電話級アマチュア無線技士の通信教育を申し込んだら、厚さ1センチ近くの参考書1冊と、練習問題、質問用の便せんなどが送られてきました。

しかし、今みたいに指導方法がこなれていないためか、そっけない教科書が歯ごたえありすぎで、即挫折しました。試験制度もそうですが、昔はいろいろ難しかったようです。

その本で覚えているのは、冒頭のページに合った真空管の説明ぐらいです。「真空管にはガスが封入されたものもあるので真空管という呼び方は正しくない。電子管が相応しい」みたいな事が書いてありました。しかし、現在は真空管としか言いませんね。もしかしたら、ガス入りのものは無くなったのでしょうか。

追記

その後、二度目のチャレンジは、就職してすぐの20代でした。

アマチュア無線連盟が地元で講習会を開いていることを知りましたので、そこに参加して、電話級アマチュア無線技士と電信級アマチュア無線技士を取りました。

講習会は要点を絞って教えてくれますので助かりました。今でも開かれているはずですので、初心者の方は講習会が良いと思います。中学生のころに買った通信教育の参考書は、やはり上級試験でも使えるほど内容が高度であったように思います。挫折したはずです。

追記2

その後、第二級アマチュア無線技士は独学で1年がかりで取りました。市販の新しい問題集と新しい参考書を買い、「とにかく問題集を繰り返し勉強しました」。もちろんモールス信号の実技練習も毎日やりました。試験は電卓禁止なので計算尺が必須でした。計算尺は簡単なので初心者でもすぐ使えるようになります。

問題は記述式でマークシートではありません。だから、知っていることのすべてを書いておかないと不利になることがあります。逆に言えば、公式・計算式等、途中経過が合っていれば、最後に計算間違いをしても0点にはなりません。

ちなみに、(今は知りませんが、当時は)問題集は出題された新しい試験問題を追記していくので毎年ぶ厚くなりました。でも、あまりぶ厚くするわけにもいかないのでしょう。数年に一度だと思いますが、内容を整理し、出題傾向の低い問題を排除して、突然薄くなるのです。がくんと半分ぐらいの薄さになります。そのチャンスを見計らって、一気呵成に免許を取ってしまうのがコツ、だと思っています。

追記3

どうせならと、その勢いで第一級アマチュア無線技士も目指しましたが、当時、仕事上の悩みなど、人生の悩みを抱えていた私は、「苦労して最上級の第一級アマチュア無線技士の資格を取っても、入門用の電話級で満足している私には使い道がないし、喫緊の人生の悩みは無線では解決しない」と悟り、やめました。そして、人生を教えてくれる本や、映画の道に進んだのです。

追記4

第一級アマチュア無線技士の試験で何が難しいのかと言えば、無線工学も難しいですが、なんと言っても和文モールス信号の追加です。

第二級までは欧文・数字・その他の符号が必要になります。電信級との差は受信速度です。電信級は毎分25文字、第二級は45文字です。トン・ツーではなく言語に聴こえるまで、ペンで文字を書くように無意識に打てるようになるまで練習が必要です。

これでも結構大変なのですが、第一級では、さらに60字へのスピードアップが求められるほかに、和文47文字もマスターの必要があったのです。冒頭で述べた通り、現在は色々改正があるようですが、47文字の壁は高い。

追記5

①私が免許を取った昔は、「モールス信号は無線技士の一般教養であり、その試験が無い日本の電話級は、世界基準から言えばイレギュラーな資格なので、近いうちに国際世論に負けて(日本は有資格者が多くて、世界から電波が煩がられていたらしく)、電話級は電信級に吸収合併されて3級となり、電話級は消える」みたいな話が流通していました。だから「今のうちに電話級を取るのがお得!」と。

②しかし、令和になった現在、ふりかえれば法改正で消えたのは「モールス信号の実技試験」の方でした。

聞くところでは、なんと第一級アマチュア無線技士の国家試験でさえ、モールス信号の実技試験は廃止されたようなのです。

①が政策的なものなら、②もそうでしょう。

ネットやケータイ、スマホの時代になって、アマチュア無線の実用性は低下し、有資格者も少なくなってきたのでしょう。一億総スマホ時代ですから。

それで、当局は非常通信などの有事に備えて、有資格者の確保を最優先に、試験の簡易化を推進し、結果、事実上一番のネックとなっていたモールス信号の実技試験を廃止したのだと思いました。たぶん国際的にも同様の流れが生まれているのでしょう。

そんな現在の試験制度なら、私なら、まず一番初歩の第四級アマチュア無線技士を取って、面白いと思ったら、その情熱が冷めないうちに、一足飛びに、第一級アマチュア無線技士を取りに行くでしょうね。途中は飛ばしてもかまいませんから。

追記6

Clubhouseには色んなルームがあるようですね。あちこち聴いてみて、お気に入りのルームを見つける楽しみもあるようです。

それと同じで、アマチュア無線が使っている周波数帯も沢山あって、それぞれがルームのように個性的なのです。背景には各周波数帯の電波の特性があります。

(私が若い頃の経験ですので、今も同じかどうかは分かりませんが)誤解を承知でざっくり言うと、①低い周波数帯のSSBは、アンテナも大きく、自宅からの伝統的かつオープンなスタイルで遠距離通信を楽しむ人たちが多いです。初心者ウエルカムです。

②高い周波数帯のFMは、アンテナも小さく、クルマで走行しながら仲間内だけの雑談に使っていることが多いようです。だから、やや閉鎖的かも。

ちなみに、私が運用していた50MHz帯SSBは、夏場にEスポという特殊な電離層が発生しない限り遠距離通信には向きませんが(そのチャンスが夏のイベント)、アンテナは小さく、①のようにオープンな世界で、初心者もウエルカムでした。

何を申し上げたいのかと言えば…

アマチュア無線においては、どの周波数帯に出るにせよ、Clubhouseと違い、試しに聴くだけでも専用の無線機(受信機)を必要とします。

バーゲンしていたからと言って、何も考えず適当な無線機を買ってしまっては、いざ聴いてみたら、その周波数帯は好みではなかったという事にもなりかねません。

ですから、どの周波数帯にデビューするのかは、事前に先輩の話を聞いたり、アマチュア無線雑誌などを読んだり、ショップで相談したり、今ならネットでも調べられるでしょうが、とにかくよく調べてから買わないと、何十万円もの無線機を買っても、いきなり挫折してしまいかねません。

そして、どの周波数帯にせよ、買ってすぐに電波を出すのではなく、数か月間は受信に専念するのです。そうやって、その周波数帯独特の空気・運用状態を学びます。このマナーは私のオリジナルではなく、アマチュア無線界の常識として、当時広く言われていた話です。免許に合格したという事は最低限度の技能を有したにすぎません。ひきつづき謙虚に学んでください。

又、こうすると、誰が地元の人気者かもわかります。人気の秘密も学べます。そして、礼節を持って参加させてもらい、皆に可愛がってもらうことが必要です。友人は一人でも多い方が楽しいハムライフを送れますからね。

この事を違った表現で言ってみると、「電波を出すことが目的なのか、友達を作ることが目的なのか」となります。そして、一旦こじれた人間関係の修復は難しい。

追記7

当時使っていた、自宅のアマチュア無線アンテナをご紹介します。今でも好きなアンテナです。

屋根にあったTVアンテナのポール、ケーブルTVにしたのでTVアンテナは撤去し、その代わりに、この50MHz帯用のアローラインアンテナを付けました。

360度方向へ電波は飛びます。電波の打ち上げ角度が低いのが特徴です。

つまり、大砲の弾を真上に撃てば真下に落ちてきますが、斜めに(打ち上げ角度が低い)に撃てば遠くへ飛ぶのと同じ理屈です。

小さく、軽く、柳のようにしなって風に強いのも特徴です。

アンテナの中央が黒く膨らんでいるのはコイルです。つまり、計算上一辺1.5m必要なので、切断せずに、ぐるりと巻いて短くしているわけです。

マンションのベランダ・手すりにも付けられると思います。

「 アローラインアンテナ AL-50F(5) 」

追記8

アローラインアンテナの上部の一本のみのような製品もあります。クルマ用のアンテナで、クルマの屋根の端に付けます。

「下の三本は必要ないのか?」という疑問がわくと思いますが、下の三本はクルマのボディで代用しているのです。

それが証拠に、クルマのドアを開閉すると、電波の飛び方が変わります。ドアの先端方向によく飛びます(よく受信できます)。

追記9

将来もし、一人きりで半島の先にある灯台守をするようになっても、その孤独はアマチュア無線が癒してくれるだろうと思っていました。そこに保険的な価値を感じたのです。

昨今で言えば、山奥の、ぽつんと一軒家に住むようになっても、と言ってもいいでしょうか。

時は流れ、今はネットが出来まして、私はネットに癒されているようですが。

追記10

アマチュア無線で、どの周波数帯に出るのかという話の続きです。

私の出ていた50MHz帯を例にご説明します。

①利用者が多すぎて、混信が多かったり、少し長話をしているとクレームが付いたりするような状態では落ち着きませんね。

②しかし、反対に話し相手にも困るほどガラ空きでも困るわけです。

(当時の)50MHz帯は①と②の中間でした。ですから話し相手はたいてい見つかりますし、混信もなく、ゆったりと長話も出来ました。

しかし、これは私の住んでいる大都市での感想です。

もし、人口密度の低い地方の場合、アマチュア無線人口も少ないはずですので、②に近づく心配があります。そして、スマホの現代では、アマチュア無線人口は減少傾向にあるようです(コロナ過では増えたという話も・・・)。

電波の届く距離は、周波数帯の特性の他、周辺の地形・建物にも影響されますから、遠くに飛んでくれない場合もあり、その場合も相手が少なくなります。

もし相手が少ない場合には、比較的遠くに飛ぶ、もっと低い周波数帯を選ぶのも、一つの選択肢だと思います(逆に、その土地では高い周波数が賑わっている可能性もありますが)。

周波数帯はそのままでパワーを上げるには、電波法上の制約の他、ご近所のTV・ラジオに悪影響を与えたり、PCに問題が発生したりすることも有るようです。

その辺りの事前調査は必須です。

追記11 ( 自衛隊とNASA ) 
2021/8/3 9:34 by さくらんぼ

「 潜水艦とぶつかり、消えた貨物船 海自が確認に4時間かかった謎 」

先日起きた、海自潜水艦とタンカーとの衝突事故ですが、TVニュースによると、衝突で潜水艦側の無線設備が壊れ、一時交信不能だったようです。

海自側は「アンテナは沢山あるけれど、全部一度に使えなくなるのは想定外だった」という趣旨の説明をしていました。

その瞬間私が思ったのは、「乾電池でも動くアマチュア無線の無線機が有ったならな」という事です。

表に出て、内臓ロッドアンテナを伸ばせば、例えば50MHz帯SSBで日本と交信できたと思われます。海上は見通しが良く電波を遮るものがありませんから。遭難通信をすれば、受信したアマチュア無線家はすぐに当局へ連絡してくれます。

レジャーのための船舶免許が流行っていますが、船舶免許と同時にアマチュア無線免許を取る方もいます。ヨットで単独世界一周された方などもアマチュア無線家がいたと思います。

もっとも、自衛隊がアマチュア無線の周波数を使って遭難通信をすることは、もしかしたら、世界的にカッコ良くないことかもしれませんし、機密保持の必要性もあるでしょう。

しかし、背に腹は代えられないと言いますか、万一の人命にかかわるような時のためにも、一台無線室に寝かせて置いても良いかもしれませんね。

追記

新聞によると衛星ケータイも持っていなかったそうです。それで、通常の携帯電話がつながる海域(沿岸だと思う)へ移動するまで交信できなかったとのこと。衛星ケータイについては今後導入する方針とか。

追記2

「国際宇宙ステーション(ISS)」にもアマチュア無線の資格を持つ宇宙飛行士が何人も滞在しており、内部にはアマチュア無線機も装備されていて、宇宙飛行士と世界の子供たちがアマチュア無線を通じて交信する「ARISSスクールコンタクト」という教育プログラムもよく行われているようです。

表向き、子どもたちの科学教育などの為に行われているのでしょうが、それだけでなく、遭難通信等にそなえ、予備の無線機としてアマチュア無線が使える環境設定をしている可能性もある、と思いました。ロケットに積んでいくわけですから、無線機やアンテナは無造作に棚に置いておくわけにもいかないでしょう。きちんと固定する必要があるはずで、それを想像してもNASAの本気が伺えます。

科学の最先端だったアポロ13号を襲った危機と、それを救ったゼンマイ式のオメガ腕時計の逸話は有名ですが、もしかしたらあの経験で、NASAは「危機管理」について突き抜けたのかもしれません。

ならば先日の、自衛隊の潜水艦とタンカーとの衝突事故、日本の存亡をかけて絶対に負けられない自衛隊としては、脇が甘かったような気がします。

米では北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)がサンタクロース追跡サイト「 NORAD Tracks Santa 」を運営しているようです。ならば、日本の自衛隊も「国際宇宙ステーション(ISS)」をまねて、年に一度でもよいので、設備点検を兼ねてアマチュア無線でサービスをしても良いのかもしれませんね。

日本の空母とも言える海上自衛隊の護衛艦「いずも」や、イージス艦、潜水艦からのアマチュア無線(交信証明書であるQSLカードも)は、もしあれば人気が出そうです。

追記12 ( 代表的なアマチュア無線バンド ) 
2021/8/3 10:10 by さくらんぼ

『 子供の無線教室 ~電波のフシギをやさしく学ぼう~
最終回 「アマチュア無線の免許を取ろう!」 』

( 月刊FBニュース )

「代表的なアマチュア無線バンド」の表が参考になります。

どの周波数にデビューしようかと思っている方にとっては。

追記13 ( 「EME・月面反射通信」 ) 
2021/8/6 10:07 by さくらんぼ

アマチュア無線の世界には、昔から「EME・月面反射通信」というものがあります。

私は経験がありませんが(大掛かりになるので、たぶん大多数の人は未経験)、簡単に言うと、月を人工衛星に見立て、電波を反射させて交信するものらしいです。

しかし、近未来に月面基地ができれば、そこにはアマチュア無線局も開設されると思うのです。国際宇宙ステーションみたいに

すると、単純に考えて交信距離は半分になるし、月面の反射波ではなく、月面の無線局からの強力な電波を使うことができるので、今以上に容易に参加できるようになるはず。

日本と外国が交信する様に、地球と月でアマチュア無線の交信が可能になることは、十分ありえると思います。

追記

(「清水建設」 さんのHPに掲載されているような、町のような基地が出来、働く人が増えれば、地球のインターネット環境も必要になるはずです。

ネット環境は研究業務から娯楽まで、あらゆることに利用できるから、優先して整備されると思います。

そして、ネット環境ができれば、その回線を利用してのアマチュア無線や、PCでのTV電話も可能となるのでは。

追記2

やがてスマホも月までつながるのではないでしょうか。

アマチュア無線家が個人でアンテナや無線機の手配をするより、スマホ業者が団体用の設備を運用する方が割安で高性能になると思います。


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