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シン・短歌レッスン

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#古今集

シン・短歌レッス103

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『古今集』の和歌

『古今和歌集 物名』。言葉遊びの類で「さうび(薔薇)」が隠されている。「今朝(けさ)うひにぞ見つる」。「さうび」は中国の薔薇の呼び名で菅原道真の詩(漢詩か?)には読まれていたという。ただ和歌の素材としては珍しく、この歌は白楽天の「薔薇正(しょうびまさ)に開き、春酒初めて熱す。因って劉十九・張大夫・崔二十四を招きて同(とも)に飲む   白居易」が元になっている。朝から酒を飲んでい

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シン・短歌レッス101

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伊勢の和歌

『伊勢集』の詞書に温子に仕えていながらその夫である帝と出来て子供が出来て喜んでいる歌だった。「手弱女の」というのは伊勢にこそ相応しいのかもしれない。今だったら公私混同のオフィスラブで社長夫人にちゃっかりなってしまう女のイメージしかない。まあ、それが憧れだったりするのだ。御曹司との結婚がハッピーエンドとなるわけだった。奪われた女の方はすごく惨めだった。怨霊になるレベルだよな。

古今集

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シン・短歌レッス100

シン・短歌レッス100

伊勢の和歌

今日から『伊勢』中島輝賢(コレクション日本歌人選23)。伊勢は「理想の女房」で「正しき三角関係」って何なんだ?都合のいい女房みたいだ。男性よりも女性に人気がある感じがする。それは歌を通して恋愛経験を積み、それを肥やしに歌道を極めた出来る女のタイプなのかな。男は燃料なのである。

掲載歌は『新古今和歌集恋一』と『百人一首』に載る代表歌。

「葦の」までが序詞で「ふしの間」に伊勢の置かれ

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シン・短歌レッス99

シン・短歌レッス99

紀貫之の和歌

『後撰和歌集 恋二』は初めてだった。恋のランクも『古今集』を引き継いでいるのか?

特徴としては『古今集』から40年後の勅撰集で選者は「梨壷の五人」源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文らが中心となるが選者の歌は選ばれていない。さすがに紀貫之の天下にはしないぞということなのか?上位は藤原師輔・同実頼・同敦忠などで、権門など藤原氏が多いのか?女性は、中務(初めて聞くな)、右近が

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シン・短歌レッス98

シン・短歌レッス98

春は曙というが秋も曙だった。夕陽もいいのですべてがいい秋の一日か?

紀貫之の和歌

紀貫之の『古今集 恋歌四』は「うつらはむ」である。これも小野小町の歌に

恋の歌も成就するものは少なく人のこころは移ろいでいくものである歌っているのである。

『古今集 恋歌三』

「恋歌三」は業平から始まる。

詞書には長雨を眺めてとある。逢わざる恋の悩みを客観的に歌で表現する。「ながめ」は「長雨」と「眺め」の

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シン・短歌レッス97

シン・短歌レッス97

紀貫之の和歌

紀貫之の『古今集 恋歌二』は「不逢恋」で冒頭の小野小町の夢の恋で有名だけど、ここにも紀貫之が登場してくるのか?もしかして全部の巻に最低一首は入っているのか?それも考えられる。

「思ひ」の「ひ」は掛詞で火も掛けてある。四句目「嘆き」も「投げ木」の掛詞。火にくべる投げ木でますます燃え上がる恋。『新古今集』の式子内親王の紀貫之のこの歌の本歌取りがあるという。

式子内親王の歌は恋人がや

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シン・短歌レッス96

シン・短歌レッス96

紀貫之の和歌

『古今集 恋歌一』。『古今集』だけでなく次の勅撰集『後撰和歌集』にも収録されている歌だそうで、上句が情景で、下句が心情という構図。景から情へというのが『万葉集』以来の伝統であるという。「吉野河」は歌枕。「はやく」を導き出す序言葉が景として読まれているのだが、それは情にも影響を与える見事な景になっている。下句では「思ひ」しか言ってないのである。

『古今集 恋歌一』

「恋歌一」はま

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シン・短歌レッス95

シン・短歌レッス95

紀貫之の和歌

『古今集 物名。「物名(もののな)」とは言葉遊びの和歌で、ある物名を掛詞で隠して詠んでいる歌だという。ここでは「をみなえし」だという。これは「折り句」だった。

元来詩というものは言葉遊び的なものがあるということだ。オヤジギャクも詩の萌芽なのだよ。

『古今集 物名歌』

巻頭歌に置かれた藤原敏行の二首。「うぐひす」は単純な鳥だけど「うぐひずとのみ」は意味が複雑だ。「憂く乾ず」とい

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シン・短歌レッス94

シン・短歌レッス94

紀貫之の和歌

『古今集 羇旅歌』で前の『離別歌』との違いは「羇」も旅のことで旅に特化したものなのか?「糸によるもの」は糸が縒り合わせる前の段階で「片糸」という非常に細いもの故に四句の「心細く」を形容した言葉になっている。この歌の心は三句目以下でその前はものに託した言葉ということだった。どうってないようなんだが、吉田兼好が『徒然草』で今の人にはとおてい読めそうもないと言ったとか。「片糸」というのが

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シン・短歌レッス93

シン・短歌レッス93

紀貫之の和歌

『古今集 離別歌』で紀貫之が志賀の山越えで山中の清水のほとりで詠まれた歌だという。「むすぶ手の」は手をむすぶことではなくて、水を掬い上げて、その雫が濁らせてしまうという意味だという。美しい女性との別れだというがどこにそんな姿があるのだろうか?しかし、藤原俊成が歌論書で「大方うすべて、詞、事の続き、姿、心、かぎりもなき歌なるべし。歌の本体は、ただこの歌なるべし」と絶賛しているという。

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シン・短歌レッス92

シン・短歌レッス92

紀貫之の和歌

『古今集 冬歌』で紀貫之が一年の終わりを詠んだ歌。鏡に映し出された自分の姿までも老いてしまったという意。「増鏡」は「真澄みの鏡」から転じた言葉。紀貫之は当時三十五歳ぐらいだったらしい。当時は四十歳で老人の仲間入りだと言うから、今の55歳ぐらいなのか?でも55歳でも若作りの人は若いよな。このぐらいの年で病気になって一気に老けた感じになってしまったが。ナルシスだったら絶望する年かもしれ

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シン・短歌レッス90

シン・短歌レッス90

紀貫之の和歌

まだ紅葉には早い季節だが強風で散った紅葉の葉が色づいていた。カエデだな。紀貫之の歌は『古今集・秋下』。「夜の錦」は司馬遷『史記』の「項羽伝」からで、夜の闇では錦も見えなく役立たないというような意味。中国の古典からの本歌取りも多いという。まあ、自然に湧き上がる詩心なんて、本当の天才じゃなきゃめったにないだろう。紀貫之でさえそうなのだ。

菊はあまり顧みられてような。国花なんだよな。桜

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シン・短歌レッス89

シン・短歌レッス89

紀貫之の和歌

菊はあまり顧みられてような。国花なんだよな。桜のほうが人気があるのは、季節によるものだろうか?菊で終わりという感じがしないでもない。仏前に供える花という印象もあるのかもしれない。

「にほふ」というのは見た目のことを言っているということ。色や光の照り返しが美しいさま。桜の花で「にほふ」があって、そんなに匂わんだろうと思ったがそういうことだった。ただ現代人の鼻は臭いものが多く退化して

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シン・短歌レッス87

シン・短歌レッス87

紀貫之の和歌

紀貫之のスーパーテクニックの短歌。夏に袖が水に濡れたことから、水が氷になり氷が溶けて、立春という四季の循環を歌った歌という。そこまでやらなくても立春でいいじゃんかと思うのだが過去に浸るのが和歌なのか?

古今和歌集

少し古今和歌集を読んでいくことにする。テキストは小町屋照彦『古今和歌集』「秋歌上」(ちくま学芸文庫)。

季節がら「立秋」からその巻の最初に来る歌は重要な歌だとされて

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