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シン・短歌レッス87

紀貫之の和歌

袖ひちてむすび水の凍れるを春立つ今日の風や解くらむ                紀貫之


紀貫之のスーパーテクニックの短歌。夏に袖が水に濡れたことから、水が氷になり氷が溶けて、立春という四季の循環を歌った歌という。そこまでやらなくても立春でいいじゃんかと思うのだが過去に浸るのが和歌なのか?

古今和歌集

少し古今和歌集を読んでいくことにする。テキストは小町屋照彦『古今和歌集』「秋歌上」(ちくま学芸文庫)。

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる  藤原敏行朝臣
川風の涼しくもあるかううち寄する波ろろもにや秋は立つらむ  紀貫之
我が背子が衣の裾を吹き返しうらめづらしき秋の初風  詠み人知らず
秋風の吹きにし日より久方の天の川原に立たぬ日はなし 詠み人知らず
天の川浅瀬しらなみたどりつつ渡りはてねば明けぞしにける  紀友則
今日(けふ)よりはいま来む年の昨日をぞいつしかとのみ待ちわたるべき  壬生忠岑
物ごとに秋ぞ悲しきもみぢつつ移ろひゆくをかぎりと思へば  詠み人知らず
秋の野に置く白露は玉なれや貫きかくる蜘蛛の糸筋  文屋朝康
里は荒れて人は古(ふ)りにし宿なれば庭も籬(まがき)も秋の野らなる  僧正遍昭

季節がら「立秋」からその巻の最初に来る歌は重要な歌だとされて、ここでは藤原敏行の歌。この人は一目置かれているのはその地位故か?三十六歌仙の一人だから和歌の実力もある人なんだろう。風に驚くのは台風とか?野分は『源氏物語』でも出てきて、それが事件の発端だった。また今読んでいる『中原中也』の最初の重要な詩「トタンがセンベイ食べて」も風の詩だったがこっちは立春だった。「曇天」は旗がひらめく詩で、8月28日だから今ぐらいの詩だった。中原中也は詩ではなく「歌」と言っているので和歌も研究したのだと思う。宮沢賢治『風の又三郎』は秋だろうか?「青い胡桃」だから秋だな。

紀貫之の歌はその前の藤原敏行の歌に追従したような和歌だった。和する心なのか?波の表現が紀貫之らしさか?吹く風で「立つ」は波が立つのと秋が立つの掛詞。見事に追従してますな。

次は古の詠み人知らずの歌で、ここの「背子」は背中にしょった子供でもはなく、夫や恋人のこと。つまり女性の歌だった。詠み人知らずの歌は『古今集』の時代に流行っていた昔の歌が多いとされている。これもそういう立秋の歌で懐メロっぽさなのか?岩崎宏美『思秋期』には負けるけど。

『古今集』の和歌は一首だけで勝負するのではなく、連続して情景を変化させて映画のように動きを与えるのが、この歌かな。突然「天の川」が出てきてカメラが天上の神話へ。ここに立っているのは織姫なのだ。この展開までくるとさすがだと思わずにはいられない。それから七夕の歌が続くのである。

「天の川」の向こうに織姫がいれば、『古今集』の今歌人である紀友則は会いに行かねばならぬ。そう天皇に「七夕」に何か詠んでみろと言われて出てきたのがこの歌で、彦星の立場で詠んだ歌。

その後に著名人の「七夕」の歌が並んで8日目によめる歌として、選者の一人である壬生忠岑がまとめた感想としての歌だった。また今日から刹那の逢瀬である七夕を一年待つことになるのだというような歌なんだけど、現代人なら忘れてしまうよな恋でも昔の人は一途に思い続けるのだった。織姫と彦星の神話だからファンタジーだった。

その後に秋の憂いの日々の歌(詠み人知らず)だから岩崎宏美『思秋期』を持ってくるのだったらこの辺だった。

その後は新旧歌人の競演となるのだが好きな歌だったら文屋朝康の「蜘蛛の糸筋」かな。見えない糸で新旧の歌人の歌が「白露は玉」のように連なっている。まさに『古今集』のような歌なのだが、この人は『古今集』に一首しか採用されていなかった。そのぐらいレベルが高いのか?まあ過去の人からの歌から『古今集』時代の精鋭たちの歌ばかりなのだから一首でもすごいことなのだ。それにこの人は『百人一首』にも

白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける 文屋朝康 

『後撰和歌集 秋』

にも載っていた。これは連続しているな。玉と散ったのは文屋朝康かもしれないが。

巻の最後はトリだから重要歌人がしめる。この秋上では六歌仙の一人の僧正遍昭だった。紀貫之の仮名序では「歌のさまは得たれどもまことすくなし」とか批評されていた。

この歌の詞書に母の家に泊まった時に荒れた庭にやってきて昔語りなどをして詠んだとある。『古今集』がそのようなファンタジーなんだよな。

「穂村弘は何を信じているのか?」

現代短歌の初心に戻って穂村弘の短歌研究。『穂村弘ワンダーランド』から山田航「穂村弘は何を信じているのか?」

「短歌とは?」という最初に思うであろう疑問だった。信じるの反対に疑うがある。短歌の信仰と疑問。そういうことを穂村弘はキリスト教の神の問題に喩えたのだという。

「あなたたたの心はとても邪悪です」と牧師瞳も素敵な五月  

穂村弘『シンジケート』

穂村弘は熱心な信者ではないが上智大学はキリスト教系の大学に通っていた。そこでの「牧師」「神父」の扱い方は権威に対する批判精神が強くみられる。

血まみれのチューインガムよアスファルトに凍れ神父も叫ぶこの夜
五月 神父のあやまちはシャンプーと思って掌にとったリンス
料理番まどろむ星夜(よる)にふきこぼれそうな法王のプディング

穂村弘『ドライ ドライ アイス』

穂村弘の尊敬するのが、塚本邦雄『幻視の女王──葛原妙子』であるといい、幻視(幻想)短歌でキリスト教批判は葛原妙子のキリスト教の憎悪から来ているという。それは葛原が敗戦によって短歌の母体ともいうべき神道を叩き潰したのがキリスト教だったということにあるようだ。「愛の希求の絶対性として」キリスト教とは反する幻視の日本の姿を見ていたとする。そして、それはキリスト教への憎悪となって現れたという。

風媒のたまものとしてのマリアは蛹のごとき嬰児を抱きぬ

葛原妙子『現牛』

疾風はうたごゑを撰ぶきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ

葛原妙子『朱霊』

この〈幻視〉的な表現の説得性は、なによりも対象の本質をつかむ力の強さに因っているのだが、作者の場合、それが負の方向性と分かち難く結びついているのだ。ここでは、〈幻視〉とは、美しく重要な可能性にみちたものに強烈な視線を当てることで、存在そのものを反転させる力のようにすら感じられる。

穂村弘『短歌という爆弾』

また川野里子は、

救われぬ人間といしてこの世にあることの飢餓感を葛原は積極的に引き受けようとした。「自己不達成」であるゆえに「美しくあるべき」歌を求め続ける。美しい歌を求めるために自らを常に満たされぬ飢餓状態に置こうとした言ってもいい。

川野里子『幻想の重量──葛原妙子の戦後短歌』

『手紙魔まみ』になるとキリスト教のイメージは後退して「手紙魔」という魔女的少女との疑似恋愛的な短歌になっていく。ちなみに「まみ」は「兎」のイメージなのか?

「汝クロウサギにコインチョコレットを与ふる勿れ」と兎は言えり
鼻息で鏡を曇らせる兎、守護霊名ギブミービスケット
こんなにもふたりで空を見上げている 生きていることがおいのりになる
窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった

手紙魔まみのクライマックスは「神」を登場させて魔女であるマミを消してしまう連歌だ。

神様、いま、パチンて、まみを終わらせて(兎の黒目に映っています)
「思った通りだ。すごくよく似合う」(神様、まみを、終わらせて)パチン
「この道はまみのためにつくれたんだ」(神様、まみを、終わらせて)パチン
「ウサギにも男の遊びを教えよう」(神様、まみを、終わらせて)パチン
「50000km達成。ここで乾杯」(神様、まみを、終わらせて)パチン

ほとんど短歌形式を無視しているかのようにも思えるが「(神様、まみを、終わらせて)パチン」のリフレインは詩的ではある(音数も短歌に近い)。会話の部分はほむほむの表層であるような。その内面を短歌の七七に近づけることによって魔女との遊戯(ゲーム)は終わっていく印象を受けるのだ。それは『シンジケート』で描かれいた刹那的イメージからの脱却。まみの丸みを帯びた少女性は円環構造をなしており「聖母」に近づくという。それはアナーキーな破壊から「聖母」としての母性に生まれ変わることによって、青春短歌を終えるのだった。

うたの日

「つくつくぼし」にするか。季節がら。

『百人一首』

つくつくぼうし思ひ絶えなむ何故に人恋しさの置き去りに鳴く

つくつくぼうし里を離れ出戻りの人煩わしさに置き去りに鳴く

つくつくぼうし呪文で祓ふ破戒僧顔に小便静けさの森

全然出来ないからこれでいいか?♪2つ。まあまあかな。どんまい脱出出来ただけでも◯だ。それにこんな諧謔な短歌なんだから。

映画短歌

『フェイシズ FACES』

『百人一首』

朝帰り寝室に誰?たえだえにあらはなるはだ妻の痴態よ


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