見出し画像

シン・短歌レッス100

伊勢の和歌


難波潟短き葦のふし間も逢はでこの世を過ぐしてよとや                     伊勢

今日から『伊勢』中島輝賢(コレクション日本歌人選23)。伊勢は「理想の女房」で「正しき三角関係」って何なんだ?都合のいい女房みたいだ。男性よりも女性に人気がある感じがする。それは歌を通して恋愛経験を積み、それを肥やしに歌道を極めた出来る女のタイプなのかな。男は燃料なのである。

掲載歌は『新古今和歌集恋一』と『百人一首』に載る代表歌。

「葦の」までが序詞で「ふしの間」に伊勢の置かれている状況が風景描写によって語られている。文末「とや」は「言わむ」が省略されている。黙って耐える女房か?「逢はでこの世を過ぐしてよ」は男の言葉で相手の言葉をそのまま載せるのは珍しいという。当時の男女間の力関係を示しているという。

『古今集 恋歌五』

月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして  在原業平

和歌だけだと恋ではなく月見の歌かと思ってしまいそうだが、詞書に禁断の恋を重ねながら会っていた。そのうち女はいなくなったが、その屋敷にはとても近づけるものではなかったので、あばら家で今日の月を観ながら過去を回想している。月は昔と違って、春(の花)も昔通りではなく、ただ私の身だけがそのままあり続けるのだろうな、というような嘆き。古今集の仮名序に紀貫之が業平は言葉足らずであると評したそのものの歌だった。ただそれを明らかに出来ない秘め事としての歌ならば当然だろう。

合いに合ひて物思ふ頃のわが袖にやどる月さえ濡るる顔なる  伊勢

伊勢は耐える女のイメージがまとわりつくけど、この歌の初句は「何度も会ったから」思い出すというような意味で恋の終わりを意識した歌だという。そしてそれを月に重ねて、月が伊勢のために泣いてくれるのだ。中島照賢の解釈にドリカムの『サンキュ』に例えていた。


須磨の蜑(あま)の塩焼衣をさをあらみまどほにあれや君が来まさぬ  詠み人知らず

『万葉集』からの本歌取り。

須磨の蜑の塩焼衣の藤衣間違いにあればいまだき慣れず  大網公人主

ほとんど一緒なのかと思うが下の句が逆の意味になっているという。

あかつきの鴫のはね掻き百(もも)は掻き君が来ぬ夜は我ぞ数かく  詠み人知らず

これも待つ女性の歌だと思ったら女が来ないで待つ男の歌だという(窪田空穂)。歌垣のような場で女を待っている男の苛ついた状態だという。鴫が羽根を百回掻くようにという例えが相当のストレス状態なのか。でもその解釈だと恋五ではないよな。始まってもいないではないか?やっぱここは待つ女性の歌の方がいいのでは。

住の江のまつほど久になりぬれば芦鶴の音(ね)になかぬ日はなし  兼覧王(かねみのおほきみ)

兼覧王は『古今集』に五首収められているのでなかなかの歌人だと思う。

「住の江」は雅語であり『百人一首』でも有名な歌がある。

まつ(松)の掛詞に鶴で本来めでたいのだが、その目出度さが到来しない鳴き声を詠んでいた。

三輪の山いかに待ち見む年ふとも尋ねる人もあらじと思へば  伊勢

『古事記』にある「三輪大明神」の神話に自分の姿を重ねていつまでも待つという歌だという。「恋五」は伊勢の独壇場なのか?待っている女。

今はとてわが身時雨にふりぬれば言の葉さへに移ろひに  小野小町
(返し)
人を思ふ心木の葉にあらばこそ風のまにまに散りも乱れめ  小野貞樹

小町の歌は恋の移ろいを言の葉によせて(君の言葉だという)、時雨れて紅葉する様を歌っているのか。艶やかさがある。言葉は約束という。それが変わったので移ろいという。

小野貞樹は小野小町の夫という説もあるという。「散りも乱れめ」は一人の女に集中しないという意味で「まにまに」女がいるということか。けしからん奴だ。

あま雲の余所にも人のなり行くかさすがに目には見ゆるものから  紀有常が娘
(返し)
行きかえヘり空にのみして経ることは我がゐる山の風早みなり  在原業平

『伊勢物語』「雨雲」になった贈答歌。雲を業平に見立てて詠んだ歌か。業平の歌は「雲」と言ってなくとも「雲」を暗示させている上手さがある。

秋風は身を分けてしも吹かなくに人の心の空になるらむ  紀友則

紀友則は一般論を言っているようだがこれは女歌だという。

冬枯の野べとわが身を思ひせばもえても春を待たましものを  伊勢

冬枯の野辺に野火が燃えている。野辺は墓場でもあり、もう最後の炎かもしれない。もうすぐ春だというのに。

色見えで移ろふもの世の中の人の花にぞありける  小野小町

小町には恋の終わりでも浪漫があるな。伊勢の燃え尽きた火に比べ花があるのだ。ただ花は徒花。

人知れず絶えなましかばわびつつ無き名ぞとだにいはまし物を  伊勢

「恋五」では伊勢が目立つ。それは耐える女だからではなかろうか?この歌も伊勢と藤原仲平の恋の終わりで噂が立つのを恐れたとある。藤原仲平は恋五748番に

花すすき我こそしたに思ひしかほに出でて人に結ばれにけり

と伊勢と結ばれなかったことを歌っている。その伊勢は敦慶親王(宇多天皇の子息)と結ばれる。仲平なんか目じゃなかったのだ。それでも宮中で噂になったことを後悔しているのだった。とんだ高飛車女だった(仲平の立場で)。

恨みても泣きてもいはむ方ぞなき鏡にみゆる影ならずして  藤原興風

藤原興風(おきかぜ)は『古今集』でも選者を別にすればけっこう出てくるようだ。

百人一首にも出てくる。

常識人のような感じの歌が多いように思える。『古今集』では中和役というような。

あき風に逢ふたのみこそ悲しけれわがみ空しくなりぬと思へば  小野小町

「あき風」は「飽き風」との掛詞、「たのみ」も「田の実」と「頼み」の掛詞で自身の悲しみを自然の情景の中で詠んだ歌。小町にしてみれば現実感ある歌なのだが、花がない。

忘らるる身を宇治橋の中絶えて人も通わぬ年ぞ経るける  詠み人知らず

詠み人知らずだが、紀貫之が小町の歌の後にこの歌を持ってきた意図は歴然としているように思える。

うきながら消ぬる沫ともなりななむながれてとだに頼まれぬ身は  紀友則

泡沫=うたかたの歌。水の縁語で構成されている。

ながれては妹背の山のなかに落つる吉野の川のよしや世の中  詠み人知らず

「よしや」は夫婦関係の良しを述べていていくつかの恋の流れに身を浮かせても落ち着くところに落ち着くと結論だしているような感じか?その好例が伊勢であり、悪例が小町であるような。

短歌下さい

穂村弘に戻って『短歌を下さい 君の抜け殻篇』から。

山芋やオクラやなめこを食べるとき男はなにか思うのだろうか  女・58歳

ぬるぬる

テーマが「ぬるぬる」だけど、そこから連想される粘り気のある食べ物にして問いかけにしたのだ。それに穂村弘が性欲と答えている。このへんのコミュ力だよな。

教科書で圧縮されたピーナッツバターサンドをだるそうに食う  木下龍也

憧れ

これはよくわからないが、コメントに「学生時代に友達がピーナッツバターサンドを持ってくることに憧れたいた」と。ダサさに憧れる感じか?詞書がないとよくわからないが、詞書によってイメージが広がるパターン。いつも適当に書いているけどコメントも大事なんだな。

ごはん派とパン派の最終決戦にうどん参戦 カレー観戦  男・29歳

自由詠

これは自由詠だと思うが平和主義者の「憧れ」かもしれない。カレーはなんでもOKということだ。これは上手い歌だった。

筆圧を最弱にして一枚のティッシュに十一桁を並べる  木下龍也

ティッシュ

木下龍也はコメントの使い方が上手いんだよな。ティッシュにお客様の電話番号を書いたことあります」って、何気に実体験だったことを匂わす。

生きていく理由はいくつおつけしますか?産まれて意味はあたためますか?  女・20歳

自由詠

コンビニのお弁当に人生の意味を被せたのだが、これを選出する穂村弘の優しさか?提出者は本当に悩んでいるのかもしれない。

僕の目に飛び込んでくるはずだった虫がレンズに跳ね返される  木下龍也

眼鏡

実際には起きそうもないがあるかもしれないと思わせる。木下龍也の上手いところか。これはコメントがなかった。穂村弘は愛の歌のようにも感じるという。

友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった  岡野大輔

眼鏡

岡野大輔が上手いのは日常的には当たり前の動作が非日常だと異常になることか?これも実際にあったことだとコメントあり。

火葬場に靴靴靴が集合しひとり裸足で来た祖父がいる  木下龍也

ボケ爺さんだと思ったら違っていた。高野公彦に「玄関は靴並びをりみどりごは抱かれくるゆゑまだ靴はなし」を連想するという。これは死と生の対比なのだが、木下龍也の歌は死んだ祖父だったのだ。凄く斬新だ。その前に岡野大輔の葬式の歌があったから刺激されたのかもしれない。ライバル関係にあると見た。

擦きれた天鵞絨の席 座るときズボンの膝を軽く持つ父  女・47歳

電車

「座るときズボンの膝を軽く持つ」という動作が優雅だという。「天鵞絨の席」も近代的な電車のようなノスタルックさ。この人も常連だった。

NHK短歌

比喩の使い方。比喩は驚かすためだとか。日常を非日常に変える働き。比喩にもいろいろあるが、まずは直喩か「~のごとし、~のように」これはけっこう凡人でも使うので思い切って隠喩にする。~のようにを取ってしまえばいい。物語的に語ることができたら上出来。わたしがやってみたいのは換喩だった。これは部分で全体を読む。例えば黒髪で女の情念とか。あと体言止めは切れるので、勢いが出るということだった。

<題・テーマ>川野里子さん「光」、山崎聡子さん「あこがれ」(テーマ)~11月20日(月) 午後1時 締め切り~

100分de名著『古今集』

今月から『古今集』だった。『古今集』はいまレッスンでもやっているので復習の意味でも、見直して行こう。まず仮名序の紀貫之の言葉。

やまと歌は人の心をとして、よろづの言のとぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけていひ出(いだ)せるなり。花に啼く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれかを歌よまざりける。

紀貫之『古今集・仮名序』

まず『古今集』で重要な紀貫之の「仮名序」。まずやまと歌(日本の歌←中国の歌)の特徴を人の心を種として、よろづ(自然界=現象界)の言葉に託していく。春に浮きだつ花や鶯の声、夏から秋にかけての水に住んでいる蛙の声を聞くと、一切の有情のものの、どれと言って歌を詠まないものがあろうか(一切=世界=自然界)。人の心の種から万物の言の葉を開いていくという言霊思想か。

力をもいれずして天地(あめつち)を動かし、目に見え鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるはなり。

紀貫之『古今集・仮名序』

歌は天地が始まる時から、自然の鬼神をも親しく思われ、男女の恋も芽生えて、争うものの中にも癒やすものは歌なのである。

ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、すなはにして、事の心分き難かりけらし人の世となりて、すさのをの尊よりぞ三十一字(みそもじ)あまり一文字は詠みける

紀貫之『古今集・仮名序』

神話の時代は歌の文字もさだまらなかったが、すなわち事物(自然界の論理)はわだち難き、人の世になって、素戔鳴尊が三十一文字で一つの歌を詠んだ。

八雲立つ出雲八重垣つまごめに八重垣つくるその八重垣を

紀貫之『古今集・仮名序』

「八」は数が多いことの喩え。自然界の八岐大蛇を鎮めて、櫛名田姫を娶り結ばれた。そして、統一し八重垣を作って住み、未来永劫八重垣を守っていくという歌による宣言(予言)。

春の歌

袖ひちてむすび水凍れる春立つ今日の風や解くらむ  紀貫之

『古今集・春歌上』

「袖ひちてむすび水」は夏の袖を濡らす水が冬になって凍り、そして立春で溶かす風が吹いていく。四季の循環を水に喩えて夏→冬→春の自然界を表現して一つの歌に詠んだ。

春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香(か)やは隠るる  凡河内躬恒

『古今集・春歌上』

春の闇を「あやなし」(意味がない、雅の世界の言葉ではない)と現世を喩えて梅を擬人化して詠んだ。「こそ」は係り結び「こそ~已然形(ね)」の強調、「やは」は反語の係り結び。色は見えないが香りは隠れようか、隠れることは出来ない。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平

『古今集・春歌上』

「せば~まし」反実仮想で否定的に語りながら桜で胸騒ぎしてしまう人々を問う。選者の紀貫之は業平を尊敬しているが、思いが強い(心は広い)が言葉足らずなのを特徴とした。美しいと言わずにどうしようもなく心をかき乱さられる状態を表現している。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町

『古今集・春歌上』

「ふるながめ」雨が「降る長雨」と私が「経る眺め」と掛詞になっている。貫之の小町評は、衣通姫(アイドル系)の系統だが、夢見がちに弱すぎ(女だからだろう)。

夏の歌

ほととぎす初声聞けばあぢきなくぬし定まらぬ 恋せらるはた  素性法師

『古今集・夏歌』

素性法師は僧正遍昭の息子。「あぢきなく」が雅語ではないの表現で、「はた」は「はたまた」というような副詞。

蓮(はちす)葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく  僧正遍昭

『古今集・夏歌』

泥の中に咲く清らかな蓮の花だが、葉の上の露は宝玉だと欺くのだろう。

水滴を宝玉だと見る見立て。僧正遍昭は六歌仙の一人。貫之評は、歌のセンスはあるが嘘っぱちばかり(フィクションの世界)。絵に描いた女のようだ。妄想坊主。ただ僧正遍昭は天皇の子息でありながら出家せざる得なかった僧侶だったか。 

秋の歌

秋来ぬと日にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる                藤原敏行朝臣

『百人一首』にも載る藤原敏行の秋の歌。こっちが「百人一首」でも良かった。

月見ればちぢに物こそかしけれわが身一つの秋にはあらねど  大江千里

こちらは『百人一首』での選定されていた。「ちぢ」は千ゞでバラバラになった物思いをわが身一つの心にするという言う意味。なかなか趣深い千里である。歌手の千里と関係あるのかな?

菊合わせ

秋風の吹きあげにたてる白菊は花かあらぬか波のよするか  菅原道真

道真というと「飛梅伝説」で有名だけど「菊」の名歌もあったのだ。「吹上」は地名の掛詞で吹上浜(和歌山)、浜を菊に見立て波のリズムが畳み掛けるようなリズムを生んでいるという。「~か」のリズムか?これは真似たい。

昨日(きのう)といふけふとくらしてあすか川流れて早き月日なりけり  春道列樹

新年の歌。昨日、今日、明日と時間の流れていく詠嘆を川に見立てている。また「飛鳥川」は『万葉集』の古都のイメージを伝えるから、過去の幻想を求める歌でもある(ルネサンス的)。

うたの日

やっとうたの日。「音楽室」難しいよな。

『百人一首』

「百人一首」の本歌取りは難しい。「嘆けとて炭鉱のカナリヤは音楽室と思えども暗闇の先」ということで。

嘆けとて音楽室と思えども暗闇の先カナリヤ果てぬ

どんまいだった。まあカナリヤが唐突すぎたと思う。なかなか理解されない歌だった。

映画短歌

『サタデー・フィクション』

『百人一首』

村雨の刃も血塗る上海を和人か漢か鬼畜米英

イメージだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?