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シン・短歌レッス98

春は曙というが秋も曙だった。夕陽もいいのですべてがいい秋の一日か?

紀貫之の和歌


色もなき心を人に染めしよりうつろはむと思ほえなくに              紀貫之


紀貫之の『古今集 恋歌四』は「うつらはむ」である。これも小野小町の歌に

色見えでうつろふものは夜の中の人の心の花にぞありける  小野小町

『古今集 恋五』

恋の歌も成就するものは少なく人のこころは移ろいでいくものである歌っているのである。


『古今集 恋歌三』

「恋歌三」は業平から始まる。

起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめ暮らしつ  在原業平

詞書には長雨を眺めてとある。逢わざる恋の悩みを客観的に歌で表現する。「ながめ」は「長雨」と「眺め」の掛詞。「起き」と「寝」は対語で(昼)と「夜」を明かしている状態。

つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れて逢う由もなし  藤原敏行
(返し、侍女に成り代わって業平が詠む)
浅みこそ袖はひづらめ涙川身さへ流る聞かばたのまむ    在原業平

藤原敏行は業平の侍女に業平が歌ったような歌を送るのがパロディーなのか。その返信を業平が詠むのだから過去の自分への返信なのだろうか?

逢わぬ夜のふる白雪とつもりなば我さへ共に消ぬべきものを  詠み人知らず

この歌は柿本人麻呂だと言われているとのこと。白雪が美しく我と共に消えていく雪というのも味わい深いか?消えるは死んでしまうという意味だという。

秋の野に笹分けし朝の袖よりも逢はで来し夜ぞひぢ増さりける  業平朝臣

先の振られた藤原敏行の歌との共通点がある。この巻は業平で繋がっているような。

みるめなき我が身を浦と知らねばや離(か)れなで海人(あま)の足たゆく来る  小野小町

この歌も業平に同情しているような歌である。

人はいさ我は無き名の惜しければ昔も今も知らずとをいはむ  在原元方

業平の孫の元方ではあるが業平のことを詠んでいるような。

人知れぬわが通路(かよひぢ)の関守はよひよひ毎にうちも寝ななむ  業平朝臣

『伊勢物語』はこの歌によったものであると。関守が寝ていてもらいたいというユーモアを含んでいるという。「よひよひ」は酒を飲んで酔ってしまったようなオノマトペか?

忍ぶれど恋しき時は足引の山より月の出でてこそ来れ  紀貫之

恋をしているときは山から月がでるように出てしまうという歌。これも先の業平の歌との関連性があるような。

秋の夜も名のみなりけり逢ふといへば事ぞともなく明けぬるものを  小野小町

『万葉集』からの本歌取りか?

秋の夜を長しといへど積りにし恋を尽くせば短かりけり   詠み人知らず

寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな  在原業平
(返し)
君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか  詠み人知らず
(業平返し)
かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ  業平朝臣

『伊勢物語 六十九段 君や来し』

後朝のあとの業平と女の歌のやりとり。共に夢みるようだと言っているが、最後の和歌は、「世人さだめよ」は今夜も逢おうと言っている。この『古今集』のやり取りは『伊勢物語』に編集された。

この巻は業平の巻かな。

現にはさもこそあらめ夢にさへ人目をもると見るが侘しさ  小野小町
限りなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ  小野小町
夢路には足もやすめず通へども現に一目見し如はあらず   小野小町

小町の後朝のあと男から疎遠にされての三首の連作。『万葉集』では事象に即して歌うが、心の感情そのままの連作となっているのは『古今集』の特徴を表している。

知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空に立つらむ  伊勢

「恋歌三」のラスト。小町の夢現の歌から現実的な伊勢の歌で締める。業平と小町の夢現の後朝の夢物語も最後で現実に帰る展開となっていた。

オノマトペ

今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』から。

「オノマトペ」とは何か?ギリシア語由来のフランス語でonoma(名前)+topéeで「言葉を作る」という意味で、英語では擬態語なのだが(ほとんどそう思っていた)、日本では擬態語(態度)や擬情語(感情)が多いという。

例えば鍋が「ぐつぐつ」とか、態度が「なよっ」とか、水が「ジャージャー」とかかなり具体的な内容を伝える言葉として使えるのだ。そのことで俳句や短歌ではオノマトペを使って表現の幅を広げるということが言われる。

そのときに思うのは擬態語としてのオノマトペで「ジャージャー」もそうだと思うが音の言葉を重ねて表現するものばかり考えていたが、状態とか「海があおあお」態度「なよっ」とか含めると随分幅広いのである。俳句や短歌で言われるオノマトペの表現は後者なのかもしれない。

一般的に母親が赤ちゃんに話すオノマトペを想像するがそれもかなりの表現がなされている。ご飯のことを「まんま」とか母のことを「ママ」とか。あと動作を伴いがらゴミを「ぽいっ」とかもオノマトペである。言葉が身体と繋がっている言葉はオノマトペとして表現されることが多い。唾をペッとか。一音の動作はかなりあるのか?「あっ」とは驚きのオノマトペで「いー」嫌だというような。また言葉の発音で口を大きく開けるとポジティブで開ける口が小さいとネガティブになる。「いー」とかそうだった。

それと動物系の「にゃんにゃん」とか「ぴーぴー」とか「げろげろ」の鳴き声が表すもの。それが言葉になる例もあるが、オノマトペだけでは分類できないものは名前の細分化として言語化されるわけだった。

例えば英語のlaugh(笑う)の細かい分類にオノマトペを使い、chuckle(クックッと笑う)やgiggle(くすくす笑う)などと表現できるとかオノマトペで細分化できるのも面白いと思った。英語の複雑さはオノマトペが擬態語しかなく状態を表す細分化が単語になるからなのか?日本語はオノマトペ+するによって言葉を広げることが出来るのである。

ただ成長と共にオノマトペよりも細分化された単語で話すことが大人の言葉とみなされるのでオノマトペ表現はあまり使わなくなる。

例えばオノマトペが単語になった例として「よろよろ」があるが「よろよろと」は副詞として「よろよろして」は動詞として、「よろけていた」は一般動詞として変化していったのだ。それでも「よーろよーろ」と書けばまた別の状態を作り出せるオノマトペとなるのであった。

言葉はアイコン性(視覚)として使われることが多いが、オノマトペは聴覚や臭覚といった感覚によるものかもしれない。だから短詩である俳句や短歌ではオノマトペが有効に働くのかもしれない。例えば匂いとか、「ゆらゆら」(酔ってしまう様子)とか「ぎすぎす」(イライラする匂い)とか表現できるのだった。

またオノマトペはその国の文化が影響しているので翻訳しにくい。外国語のオノマトペは日本のオノマトペとは違うので理解されにくい。

NHK短歌

岡野大嗣はいまいちやる気がないように感じる。今風といえば今風なのかな。短歌で言葉をリフレインさせて、最初の言葉と違う意味にするのが好きだったりする。今日はそれにチャレンジだな。

吉川宏志さん「冬の星」(テーマ)、岡野大嗣さん「着る/脱ぐ」(テーマ)~10月30日(月) 午後1時 締め切り~

「冬の星」って昴は冬の星かな?谷村新司が亡くなったんで追悼歌を作りたいと思った。

葛原妙子

川野里子『葛原妙子』(コレクション日本人歌人選)から。

殺鼠剤食ひたる鼠が屋根うらによろめくさまをおもひてゐたり  『飛行』

終戦時夫から睡眠薬を手渡された歌

ソ聯参戦二日ののちに夫が呉れしナルコボン・スコポラミンの致死量  『橙黄』

そのあとの夫との不和の歌

わが死を禱(いの)れるものの影顕(た)ちきゆめゆめ夫などとおもふにあらざるも  『飛行』

と通じていくものがある。

この後の歌に

わが連想かぎりなく残酷となりゆくは降り積みし雪の翳くろきゆゑ  『飛行』

がある。

きつつきの木つつきし洞(ほら)の暗くなりこの世にし遂にわれは不在なり  『飛行』

女として歌人として「われ」の存在を問うがそこには不在しかない。『飛行』の歌集の題名とは裏腹にどこまでも闇の世界に堕ちていく感じがするが、そこから幻想(短歌)の力で浮上するのが葛原妙子なのかもしれない。

うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらの銀の在処おもほゆ  『薔薇窓』

『飛行』の低空飛行から浮上していくのが『薔薇窓』なのか?しかしここに咲くさくらは従来の日本の短歌に歌われた桜よりも曇天の桜だった。

寺院シャトルの薔薇窓をみて死にたきこころ虔(つつま)しきためにあらず  『薔薇窓』

キリスト教に救われるのかというとそうでもないが、美しいものに憧れていくのか?

汝実る勿れ、とキリスト命じたる無花果の実は厨に影する  『薔薇窓』

キリスト教の欲望の果実とされる林檎ではなく無花果。花が無いと書くのが葛原の戦時の体験なのかもしれない。そして実るなかれ、と言っているのだ。

白絹の上にりくぞくと生れゐるつめたきかひこ盲(し)ひし目をあぐ  『朱鷺』

これは電気仕掛けの蚕であるという。そのときの歌に

電気仕掛けのかひこの模型うごきゐてかひこはときにくびをもたげつ  『朱鷺』

異化作用という。蚕が日本の古代から人の生活の中に生存し続けたが、今はそんな姿はない。古代日本への眼差し。

かひこはかのつめたさを得しならむ絶えざるかすけき暇睡(まどろみ)により  『朱鷺』

ゆふぐれにおもへる鶴のくちばしはあなかすかなる芹のにほひす  『朱鷺』 

茂吉の歌の本歌取り。

わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを  斎藤茂吉

『赤光』

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水  『朱鷺』

夕暮れ台所でフライパンの水を眺めて幻視してしまう。エドガー・アラン・ポーの幻想小説のような。そこは一気に日常が非日常に変わる彼岸なのである。

うたの日

朝出てなかったので午後から。「車」。車と言えば軽四輪かな。軽トラか。

軽トラの荷台に乗って収穫祭どこへ売ろうかお化けかぼちゃ

新しいパソコンだと今までの歌名を変えることができるんだな。思い切って変えてしまうかな。

これだと全然「百人一首」に絡まなかった

『百人一首』

軽トラの荷台に載せて収穫祭どこへ売るにも涙なりけり

♪2つだった。まあ初めてならいい感じか?「車」を出さなかったし、割と自転車が多かったのが謎?「涙なりけり」は無理くり過ぎたか?

映画短歌

『ヨーロッパ新世紀』

『百人一首』

戦争よ道こそなけれ瓦礫下弱い者から押し潰されて

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