シン・短歌レッス101
伊勢の和歌
『伊勢集』の詞書に温子に仕えていながらその夫である帝と出来て子供が出来て喜んでいる歌だった。「手弱女の」というのは伊勢にこそ相応しいのかもしれない。今だったら公私混同のオフィスラブで社長夫人にちゃっかりなってしまう女のイメージしかない。まあ、それが憧れだったりするのだ。御曹司との結婚がハッピーエンドとなるわけだった。奪われた女の方はすごく惨めだった。怨霊になるレベルだよな。
古今集
『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス』が読み放題にあったので今日から。今まで窪田空穂の読み放題を読んでいたのだが、すべての歌に解説はあるが入門編とは言えなかった。こっちの方がわかりやすい。ます今日は寒いので冬歌から。
『百人一首」にもある名歌だという。
「枯れ」と「離(か)れ」の掛詞。荒涼とした山里の寂しさの心情を詠んでいる。
掛詞の例。
吉野山は桜の名所よりも雪深い山岳信仰の名所として知られていた。そんな吉野山に入った人が手紙をよこさないという歌だという。『義経記』で義経の恋人静御前が自らの思いを表現する歌として詠まれた。
雪を花に見立てた歌。雲の向こうは春だから花が散るのだろうと詠んでいる幻想歌。寒い冬から春への憧れ。
夜から朝は「あかつき」→「あけぼの」と明るい状態が移りゆく。「あさぼらけ」は明るくなる直前の言葉。朝日が上る前の雪明かりを詠んでいる。この歌も『百人一首』に載る。
梅花に雪が降っているという詞書。雪と白梅は『万葉集』以来の取り合わせ。梅の存在を香りによって知るというのも『古今集』的か?雪景色の中に埋もれていても存在感のある梅の花が咲いているのだ。梅は屏風歌が出てくると紅梅が詠まれるようになった。
「新玉」は「年」の枕詞。「ふりまさり」は雪が「降りまさり」と自分が「古りまさり」の掛詞。正月になると一歳年を取る数えによる年齢の歌。新年の目出度さと雪の奥深さを人生に重ねた歌。
古今集和歌集・恋
100de名著『古今和歌集』第二回は恋。
恋の初めは小野小町の独壇場なのだが、恋愛は個人間であり、恋となるとゲーム的な共同体の中で行われるようなことだという。だからそれは、ユーミンの歌のように他人に託されるという。小町=ユーミン説。小町がアイドルだと思ったら違っていた。
「初恋」。和歌における「初恋」は今と意味は違って、恋の始まりのことだとする。「あやめ」が繰り返されることによって、菖蒲と文目(道理・分別)とを掛けているがこの菖蒲は呪術的な植物として五月(端午の節句)から呼び出されているのであった。
「生ひ出でくる草の」までが序詞。景観で、心は「はつかに見えし君はも」と揺れ動く気持ちを言い表している。序詞は音韻の良さだという。
恋歌二は小町の夢の歌のから。夢見るがなかなか相手に通じない、そうした淡い期待と挫折を含むのだ。『古今和歌集』の恋歌はラブラブな二人の世界よりも共感させる歌が多いのは、贈答歌としての一面があるのかもしれない(周囲の者たちで楽しむ)。
それが恋占のおまじないの歌として出てくる。夢と現の世界の境界が今よりも遥かに近かったのである。
宮中でのオフィス・ラブのような内容であり藤原因香は藤原紀香が演じるバリバリのキャリアウーマンという感じらしい。一方の源能有天皇の御曹司。「言の葉」と「置き」を相手の言葉を引用して返すのが当時のルールだが、女性から別れを切り出すのは珍しいという。「形見とや見む」にもう一度という期待が込められているというのだが、その後の歌のしっぺ返し。
「かれゆく」は枯れと離れの掛詞。「おもひ」も「思ひ」と「おも火」の掛詞で、野焼きの焼けた後に生える浅茅に託して、まだこころの火が消えてない(燃え=萌え)な気持ちを詠んだ歌。
「もろこし」は唐で異国まで夢にみるほどだが恋心は近いという遠距離恋愛の気持ちだろうか?思っていない人は近くても他人ということか。
芭蕉のうちなる西行
『芭蕉のうちなる西行』目崎徳衛より。
「芭蕉のうちなる西行」というテーマは、芭蕉の俳諧の方に重点を置いたものだが、著者の目崎徳衛は『古今集』で業平と小町について興味深い批評をした人だった。
芭蕉の俳諧を見ていくことによって西行の特徴も見えてくるのだと思うのだ。芭蕉が木曽義仲を好きであったのに対して西行は義仲を嫌っていた。それは義仲が貴族的な和歌の文化を破壊する粗野な武士だったからであろう。西行とは性格が違う。西行が残した木曽義仲の歌から見ていこう。
西行は平家贔屓であり、のみならず戦乱に乗じて佐藤氏の所領を奪おうとした。しかし、この事実が判明したのは昭和になってからであり、芭蕉は西行の義仲嫌いを知るよしもなかった。芭蕉は西行を尊敬していたのである。それは『笈の小文』に記されている。
芭蕉の風雅を培った精神的伝統の核心に西行がいた。
「小夜(さや)の中山」は歌枕になり、芭蕉は本歌取りの俳諧を詠む。
その後に「西行の山をたづねて、人の拾はぬ蝕栗なり」と『虚栗』に書いた。
芭蕉は西行『撰集抄』や『西行物語』を読んでいた形跡があり、そこから俳諧を詠んだ例も多い。『おくのほそ道』の最後の句も西行の歌と照応する。
ただ『おくのほそ道』の漂泊者の追想として能因・西行の歌枕の旅以降は西行に言及していない。それは芭蕉が『おくのほそ道』で蕉風とも言える軽みを得たことで西行離れになっていく。
NHK短歌
選者は山崎聡子さん。伝えられなかった思い 「友だちのこと」。友達がいないのでピンと来ない。生ぬるく感じ歌ばかりだった。絶望がない。このへんが今の歌に何も感じない理由なのかもしれない。自分が読むとしたら、最初に否定から入るだろうな。そして、本が友達とかで濁す。
作品名にするほうがいいな。『三四郎』とか、大江健三郎だったら登場人物か?古義人だな。
短歌ください
穂村弘に戻って『短歌をください 君の抜け殻篇』から。
十九歳という年齢が効いているとの評。ニザンの「僕は二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。」を連想させる。いろいろ想像してしまうが、父親は離婚したか死別なのか?爺さんかもしれないし、孤児だったらドラマチックだ。ドラマが出来そうな一首。
短歌だから繰り返しが有効なのか?書きながらまどろっこしいのだが、リズムがあるのはいいのだろうか?「終わる終わる」とか「一瞬」「一番」とか。まあ内容がなるほどと思うのは秋が終わってしまったせいかもしれない。
「初体験」という題ですべての人から共感を得やす短歌になっている。セックスの歌ばかりでもね。こういう題は全体的に不調な感じ。
普通の散文でもいいような短歌。口語が効いているのか?「少なくなった」に「もちろんいるよ」よりもリアリティがあるという選評。
コメントに結婚式の賛美歌とあるから、作者は信者でもないのに本を渡されて賛美歌を合唱しているのだろう。そういう体験が共通項としてあるのが32歳ぐらいの年齢なのか?キリストが死んだ年齢だった。
久しぶりの登場。それまでお題も難しいのが続いていた。こういう何気なく投稿できそうなお題で違いを見せる男・木下龍也という感じか?事故死した魂だけ帰ってきたのかという選者のコメントあり。コメントはキャッチボールなのだ。
「酔った友達から電話がかかってきました」というコメントあり。「だいのじでね」が可愛いと選者。女子だと思っている?これも会話だった。
「自分の心の中でも、同じことが起こっていると思う」のコメントあり。作中の「ペットボトル」は象徴性を帯びていて、不安な美しさがあるという選者。いつ開けたかわからないペットボトルはあるけど濁っているよな。これは選者が勝手に美的に詠み手を想像しているのじゃないかと思う。
これだけでは意味がつかみにくい歌だけど、木下龍也という常連が歌う作風が選者にインプットされていると思う。「猫」から迷宮世界へという共有する物語があるのだ。これも応募が多かった題詠だという。こういうのに特殊性を魅せるのが木下龍也なんだと思う。
これも年齢によって捉え方が違ってくる。女・50歳では選者は選ばないだろうな。19歳も危ないような感じがする。32歳という年齢で安心する。
物語的手法にもっていくのが、木下龍也の上手さかな。リアリティで勝負していない。
女・32歳はほとんど常連だった。選者のコメントも会話になっている。「一晩中」どころか「百年だって、映している」のだと。
これも女・24歳だからいいのであって、60過ぎのおっさんが歌っても美メロにはならないのだ。まあ、泉谷みたいな歌にはなるかもしれないが、共感は得にくい。
30歳ぐらいになると自己諧謔性が出てくるのか。こういうのは好きだった。遊戯的世界。
4千字超えてたからこのぐらいにして。こういうコンテストは選者の傾向もあるようだ。『古今和歌集』の紀貫之のように。選ばれる人より選ぶ人の特徴が出ている気がする。
うたの日
「天」。天使とすぐに浮かんだが、次が「使」だった。
歌会でゴジラの句を上げたのだが、それにするか?
『百人一首』
これを改作して
♪ひとつで辛うじてどんまいじゃなかった。コピペが上手くいかなく「みおつくし」で途切れてしまった。どっちみっち苦しいのだが。「て」を入れて整えた場合は はいじんのてん しみおつくして になる。遊びすぎか?ベンヤミンのイメージで詠みたかったのだが。
映画短歌
『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』
『百人一首』
石油→黒いダイヤとしたのだが、「黒いダイヤ」は海鼠のことだった。でもダイヤは希少性の象徴だから石油でもいいような。他に何か比喩があるか?
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