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「正義」は容易に殺し得るという映画か?

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023年製作/206分/PG12/アメリカ)監督: マーティン・スコセッシ 出演: レオナルド・ディカプリオ/ロバート・デ・ニーロ/ジェシー・プレモンス/リリー・グラッドストーン/タントゥー・カーディナル/カーラ・ジェイド・マイヤーズ/ジャネー・コリンズ/ジリアン・ディオン/ウィリアム・ベルー/ルイス・キャンセルミ/タタンカ・ミーンズ/マイケル・アボット・ジュニア/パット・ヒーリー/スコット・シェパート/ジェイソン・イズベル/スターギル・シンプソン


実話をもとにしたデイヴィッド・グランのベストセラーをApple TV+が映画化。アーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)とモーリー・カイル(リリー・グラッドストーン)の間の思いもよらないロマンスを通して描かれる、真実の愛と残酷な裏切りが交錯する西部劇サスペンス。
20世紀初頭、アメリカ先住民のオセージ族は、石油の発掘によって一夜にして世界でも有数の富を手にする。その財産にすぐに目をつけたのが、すでに入り込んでいた白人たち。彼らはオセージ族を巧みに操り、脅し、奪える限りの財産を強奪し、やがて殺人に手を染める……。

けっこう長いという感想があるがそれほど長さは感じなかった。スコセッシ監督というのもあったのかもしれない(割りと好きかも)。ディカプリオの顔芸という批評もあったが、ロバート・デ・ニーロも出てたのか?デ・ニーロと思って観るとデ・ニーロだけど監督に似ている人がいるなと思って観ていた。

スコッセシ監督の立場がよくわからないのはラストのおまけ動画のようなパロディなのだが、それは正義というものをラストで皮肉っているのだ。フーヴァーの「正義」といえば、赤狩りでハリウッドの敵でもあったのだが、このシーンをどう考えればいいのか?監督としては、そのぐらいで観た方がいいという警告なのだろうか?

本編は先住民(アメリカ・インディアン)が石油利権を受けて贅沢になり白人を下男のように使うのだが、主人公は戦争帰り(第一次世界大戦か?)で一攫千金を狙っておじを頼ってオクラホマに来るのである。おじは先住民の心を掴んでいる人なのだが、その裏に石油利権があった…….。

この部分を振り返ると中東の石油利権の話として現在と繋がってくる。映画も先住民が石油利権を白人が奪うために殺害されるというストーリーになってゆく。ただ戦争帰りのディカプリオは一攫千金を求めていたのだが、自然と先住民の女を愛するようになって、その葛藤があるのだった。

映画は土地や利権を奪われる先住民の悲劇と描いているのだが、移民であるスコセッシ監督は微妙な位置にいるのだろう。それがディカプリオの主人公役の葛藤として描かれているのだと思うが、結局おじに従ってしまったのだ。その為に自らの子を殺されることになり、それが目覚めのきっかけになるのだが、それは先住民のためというよりも自らの欲望のためだったのだろう。それが愛だ、という結論になるのかな。ただ気がついたときにはすでに遅かった。監督自身の反省もあるのかもしれない。

原題は「花殺しの月」というインディアンの月の呼び方だった。俳句の季語みたいな感じだと思うのだが、扱われている内容は複雑である。

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