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短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024

 妹の頭が徐々に大きくなっていく。病気じゃない。
 わかっているんだ。家族の誰もが。だけど何も言えやしない。
 傷ついても、恥ずかしくても、怒っても、どうしたって、妹の頭は大きくなって、その成長を止めることは出来ない。

 (一)

 妹は僕の八つ下で、ぼくにとっては目に入れても痛くない存在だった。だけど、そんな例えですら口にするのも憚られるくらい、妹の頭は大きくなっていた。
   その始まりはたしか、妹が幼稚園に通っていた頃だ。
 
 妹はただひとり、二頭身の体をしていた。その意味で目立っていた。
 誰が見ても変だっただろう。誰もが病気を疑っていただろう。
 だけどそれは、決して致命的な障害でもなんでもなく、妹の特徴だった。
 本当は妹は健康だった。本当は、というのは、成長するに連れ、妹は健康ではなくなったからだ。

 妹は僕を〝なーな〟と呼んだ。僕の名前は直人だから、〝なおと〟と〝にーに〟をかけ合わせて、〝なーな〟。
    可愛い妹。僕の妹。

 (二)
 
 妹が生まれたのは、僕が小学校二年生になった、ある夏の日だ。
 その日、病院から数日ぶりに家に戻ってきた母の腕に抱かれた妹を見た記憶は、今でもしっかりと残っている。
「ふくふくとして、可愛いでしょう。女の赤ちゃんだよ」
 そう母に言われて、僕が嬉しさで滝のように涙を流した話は親戚の間では有名で、会えば必ず誰かが話し始めるほどだ。

 当時の僕は、母が言った〝ふくふく〟の意味がわからなかった。だけどその響きは、とても妹の見た目に合っている気がして、僕はその瞬間から妹を〝ふくちゃん〟と呼んだ。
 両親はそんな僕のために、妹の名を〝福子〟に決めた。

「頭の大きな赤ちゃんは、賢い子なんだよ。この子はきっと立派になるわ」
 そう言って誇らしげに笑っていた叔母たちは、近ごろの福子を見ても同じようには褒めない。どこか腫れ物に触るように扱い、なるべく距離を取るようにしていることがわかる。

 福子は、確かに賢い子だった。
 
 福子は賢く、そしていつも不機嫌だった。福子が不機嫌なのは便秘がちなことが原因だと言って、そのことについて母も父も真面目に向き合わなかった。だけど、福子の不機嫌さは、久々に便秘が解消された日の朝であっても変わらなかったことを、僕は知っていた。

 頭の大きな福子は、頭でっかちだった。
 中学・高校と順調に進学した福子は、そのころやっと四頭身になった。
 高校では少し色気づいて、桃色に染まるリップクリームなんかを塗るようになった。
 僕はといえば、その頃三年付き合った彼女と同棲を始めるために、一人暮らしをやめて一時的に実家に戻っていた。実家で暮らす間にお金を貯めようと思ったのだ。そんな僕に、福子は言った。

「なーな。非効率なことやってんね。なーなも彼女も働いてるんだから、さっさと同棲をスタートさせて、何もかも費用を折半して暮らしたら良いじゃないの」

 福子は高校二年生だったが、まだアルバイトの経験もなく、彼氏もいたことがなかった。それなのに、いつだって知ったような口をきいた。

「ふくちゃん。家を借りるには最初に結構なお金がかかるし、家具だって、二人用のものを買い替えないといけないんだよ。家電もそうだし。そうなると結局……」
「だからさ、そうじゃなくて」

 毎度のパターンで、福子は僕が言い終わらない内に言葉を挟む。〝そうじゃなくて〟というのは福子の口癖だった。
 福子はとにかく人の意見を否定したがった。そのくせ、自分を否定されるのは大嫌いだ。
 福子は本を読んで知識を付け、ネット検索をしてはそこで得た知識を溜め込んでいった。
 その頃から福子の頭は止められないくらい大きくなっていて、だんだん熱を帯びるようになった。
「体がだるい、昨日眠れなかった」と、頻繁に漏らすようになったのもこの頃だ。学校も休みがちになった。いつでも寝間着で家の中にいる福子の顔色は悪かった。
「ふくちゃん、散歩でもしたら? 日光に当たることは大事だよ」
 僕は福子が当然知っているような情報をあえて口に出した。
 そうするうち、福子はいつからか、僕と口をきいてくれなくなった。その冷たい態度からは、〝ばかとしゃべる暇はありません〟という意思を感じた。実際、福子はよくそういう発言をしていた。

 (三)

 福子はいつからか、家にこもるようになった。
 そして福子は本を読まなくなった。
 布団の中で、一日中スマートフォンをいじっている。あることないことを吸収しては頭を大きくしていった。
 友達のいない福子が、スマートフォンに高速でなにかを打ち込んでいる音が聞こえてくると、姿の見えない誰かを傷つける文章を打ち込んでいるのではないかと、やきもきした。
 僕は、いつの間にか福子のことがわからなくなった。

 ある晩、夜中に目覚めてトイレに行くのに、福子の部屋の前を通った。そこから漏れ聞こえてきたのは、福子の泣き声だった。
 福子は声を殺して泣いていたのだ。プライドの高い福子は家族の前では強がって、涙を見せたことがなかった。だけど、こうして一人、毎晩密かに泣いていたのだ。
 僕はその場に数分立ち尽くし、それでも声をかけずに自室に戻った。
 そのとき、自分が福子にできることがなんであるのかわからなかったのだ。

 それからの僕は、福子を避けるようになった。もちろん、目の前にいて無視するようなことはしない。家族として、当然の交流を持つし、福子からの要望を断ったりもしない。だけど、どこかで別々に暮らしたい想いが芽生えてきたことは確かだった。もともと、僕は彼女と同棲するために数ヶ月実家に滞在していただけなのだから、いつだって出ていくことができた。だけど、あの夜聞いた福子のなんとも言えない泣き声がいつも頭から離れなかった。泣いていた福子を助けたい気持ちと、関わりたくない気持ちが混在して、ますます身動きが取れなくなったのだ。

 結局、僕は予定通り、四ヶ月間実家で過ごしたのち、出ていくことにした。
 家を出る日、最後に声をかけたとき、福子は布団の中にいて、「じゃあね」と言ってくれた気はしたが、実際、その声はほとんど聞きとれなかった。

 (四)

 それから、二年半が経った。
 流行り病の影響もあり、たまに電話でやり取りするくらいだった実家に、久々に帰省することにした。福子が生まれて二十年めの夏の日だった。

 僕としては、彼女との交際期間も五年を過ぎて、いよいよ婚約をしたタイミングだった。
 久々の実家は、何も変わっていなかった。
「ふくちゃんは?」
 と聞くと、母親は口だけを大げさに動かし、「寝てる」と言った。どうやら、福子と母の関係には大きな溝が生まれているようだった。

 昼はとっくに過ぎていても、福子は母がいうように部屋で休んでいて、家の中は静かだった。
 母親はこの二年半の間に、ため息ばかりつく人になっていた。母なりに不満が溜まっているようで、ずいぶんと老け込んでいた。父は今まで通り会社勤めを続けていたが、朝が早く、夜は遅い。さらに、仕事関係の付き合いが再開したのをいいことに、家族のことは知らんふりしているようだ。
 僕はそんな話を母から小声で聞かされながら、自分は父に意見できる立場にないと、ただ母の話に頷くだけだった。

 この日、僕は福子に一言、「誕生日おめでとう」と伝えたかった。母の話を、途中から上の空で聞きながら、どうしたら福子と話ができるか考えていた。福子が部屋から出てくるのを待つのもいいが、いつになるかわからない。その間、母と二人でここにいるのも息が詰まる。

「ふくちゃんに、おめでとうを言ったら帰るよ」と僕は早々に母に伝えた。
「久々なんだから、一緒に夕飯を食べたら良いじゃない」
 母はどこかすがるような目で僕を見た。そんな母を見ていると、ここに長居したらこの家に取り込まれてしまう気がして、「明日も仕事だから」と言って逃げた。

 (五)

 懐かしい廊下を歩く。短い廊下で、目と鼻の先に福子の部屋のドアが見えた。
 この家のどこもかしこも、見た目には変わっていないけど、空気は淀んでいて重かった。

 僕はいよいよ福子の部屋の前で立ち止まった。
 恐る恐る、ドアをノックした。予想していたとおり、返事はない。
「ふくちゃん。なーな、帰ってきたよ」
 僕は未だに、幼い子供に対する口調で福子に話しかけてしまう。今の福子は、年齢的には立派に大人だというのに。
「ちょっと話したいんだけど、いいかな? 寝てる?」
 返事はない。
「ドア、開けるね。中は覗かないから。もし大丈夫そうだったら教えて」
 僕は最大限に気を遣い、部屋のドアを手のひらの大きさくらい、そっと開けた。
「どう、大丈夫? 話してもいい?」
 再び声をかけると、中で布団の布地が擦れる音がした。
「なーな? 入って」
 小さな声がした。僕はそっとドアを押して中へ入った。

 カーテンは閉められ、部屋の中は暗かった。女性の部屋だけあって、空気がこもっていても、それほど臭うわけではない。だけど、なにか健全ではない感じがする。部屋に入るとすぐにエアコンから吹く風が体を直撃したが、ぬるい。ものすごく暑い日に、弱冷房車に押し込まれたような不快感があった。
「カーテン開ける? それとも電気、つける?」
 僕が訊くと、福子は寝床からよろよろと上半身を起こし、少しだけカーテンを引いた。
 部屋の中に光が差した。その薄暗い中に、二十歳になった福子の姿を見た。異常に頭が膨らんでいる。

    (六)

 福子は僕から顔をそらしていた。仰向けになっているのか、横を向いているのかはっきりわからないが、福子の静かな呼吸音が聞こえた。

「ふくちゃん、お誕生日おめでとう」
 僕は唐突にそう言った。それまでの間を埋めるような言葉を持ち合わせていなくて焦ってしまったのだと、今では深く反省している。
「全然うれしくないよ」
 福子が言った。
「毎日死にたいのに、またこの日がきたんだよ」
 福子の声はかすれていた。
「お母さんが、わたしを生みさえしなければこんなに苦しまなかった」
 福子の声は震えていて、この瞬間にまた少し頭が大きくなった気がした。
「今日は一年で一番死にたい日」福子は言う。
「そんなこと言わないで」
 僕は二十年前、真っ白いおくるみにくるまれ、ふくふくとしていた福子を思い出した。

「なーなはさあ。都合よく、妹が出来て喜んで、可愛がって、挙げ句、捨てたじゃない」
 福子の言葉が突き刺さる。
「わたしは、人形じゃないんだよ」
 福子はやっぱり、感じ取っていたんだ。僕が福子と距離を取り始めて、この二年間はすっかり気持ちの中から福子の存在を消していた事を。

「子どもの頃から、気難しい子だって大人たちから疎まれて。それでも頭の良さだけは褒められたから、たくさん本を読んだ。いろんな知識をつけた。そうしたら、何をするにもこわくなった」
「どうして?」
 福子はゆっくり僕の方を向いた。薄暗い部屋に目が慣れてきて、今では福子の表情までしっかり見ることが出来た。
「成功する方法も、失敗した事例も同時に知ってしまうから。まるでもう経験したような気持ちになって、動機を見つけられなくなった」
 心が動かなくなった、と言った福子は涙を流しているようだった。

「そんなことないよ。百聞は一見にしかず。今からだって、何でもできるよ。まだふくちゃんは二十歳なんだから」
 天井を見つめる無言の福子の表情は、「そんなこと知ってる」と言いたげだった。というより、言っていたに違いない。それも怒気を含んだ言い方で。

「自分が頭でっかちなことを知ってる。皆がわたしを避けていることも知ってる。それは見た目の異様さではなくて、この可愛げのない性格のせいだってことも、知ってる。このままではいけないことも知ってる。本を読むより、体を動かした方が良いことも知ってる。
 ……知ってるふりして、実際には世の中のあらゆることを一つも経験していないことも知ってる。全部知ってて、それなのに、何一つうまくいかないの」
「ねえ、ふくちゃん」
 僕は福子がここまでの苦しみをかかえていることを知らなかった。
 福子は何でも知っているし、なにか言っても馬鹿にされるだけだしと、互いに本音を吐き出せないまま、福子はここまで異様な体になってしまった。

 僕は福子に渡そうと思って買ってきたプレゼントの包みを取り出すか悩んだ。
〝二十歳のきみへ〟と書かれたありきたりなバースデーブックだ。
 バースデーブックは、いろんなバージョンがあって、僕は単純に〝兄から妹へ〟と書かれたものを選んだに過ぎなかった。大切な誕生日のメッセージですら、僕は自分の言葉でちゃんと伝えようとしていなかったのだ。
「ふくちゃん、ちょっと待ってて」
 僕は福子にそう声をかけて、リビングに行った。

 (七)

 リビングに入ると、母がなにか言いたげな視線を僕に向けたが、それには構わず、昔からリビングの隅にある、大きな本棚に近づいた。
 本棚には両親の本が詰まっていて、その一角に、僕と福子が気に入ってよく読んだ絵本が数冊、保管されていた。
 本棚の一番下にある絵本を、腰をかがめて引っ張り出そうとしている僕に、母は小声で言った。
「何してんの? ねえ、福、起きてた? あの子ご飯食べるかしら。食べないなら今朝の味噌汁、もう冷蔵庫にしまうんだけど」
 母は返事をしない僕にひっきりなしに質問をぶつけてくる。そんな母に、僕は訊いた。

「ねえ、今日はふくちゃんの誕生日だけど、なにか声かけた? おめでとうとか、生まれて来てくれてありがとうとか。あ、愛してるとか……」
 僕はその場に泣き崩れた。
 母は焦った様子で「いったい、あんたまでどうしたのよ」と肩を揺らしてくる。
 どうもこうもない。今日、しっかり伝えないといけないってことに、僕は気がついたんだ。
 僕は一冊の絵本を持って再び福子の部屋へ向かった。

    (八)

「ふくちゃん、入るよ」
 ドアの隙間から声をかけた。返事がない。また福子とのやり取りがふりだしに戻ったようで不安になった。しかし、聞こえなかった可能性もあると思って、もう一度声をかけた。
「ふくちゃん、なーな。入ってもいいよね?」
「ん……」
 中から聞こえたかすかな声を合図に、僕はなるべく音をたてないようにして部屋に入った。

 福子はベッドの上に仰向けで寝ていた。目は閉じている。だけど、完全に寝ているわけではなく、意識はこちらに向けている気がした。
「ふくちゃん、これ、覚えてる?」
 僕は福子の側に行って、正方形の小さな絵本を見せた。福子は目を開けなかった。ただ「ん……」と言った。
「読んでもいい? 静かな声にするから。よく二人でさ、夜の留守番をした時、布団の中で読んだ絵本だよ」
 僕は少しは反応があるかと期待したけど、やっぱり福子は黙っていた。
 絵本の表紙をめくる。僕の手は震えていた。
 
 それは、怒りん坊の猫が、怒るたびにふくれっ面になり、それがどんどん膨らんで、とうとう空へ飛んで行ってしまうという、有名な絵本だった。

 僕は、当時福子に読み聞かせしていたときを思い出し、絵本の一部を福子の名前に変えて読んだ。
 僕は福子の反応を見ながら、福子の額に手を当てた。
 福子の頭は異常に熱を持っていた。だけど、それは福子にとっては特に珍しいことではなかった。しかし、仮にこれが僕や母であれば、病院に行って薬を処方されるレベルの熱なのだ。福子にとってよくあることでも、それは決して、彼女にとって快適な状態ではなかったはずだ。

「こんなに熱くて……ふくちゃん、いつもつらかったよね」
 僕は絵本を読むのをやめ、福子の頭を何度も撫でた。
 僕ら家族は、どんどん膨らんでしまう頭を持つ福子を、異質な存在と見做さない代わりに、彼女の気持ちをしっかり受け止めることを怠ってきたのだ。
 必死に涙をこらえる僕に、福子が小さな声で言った。
「その猫は……最後、どうなるんだっけ?」
 僕は洟をすすり、震える手でもう一度絵本を開くと、最後から二番目の絵を見せて言った。
「頭がどんどん膨らんで、風船みたいになっちゃって、どこかへ飛んでいってしまうんだよ」
 僕がそう説明すると、福子は目を閉じたまま少し笑った。
「ああ、思い出した。そうだったよね」
 福子は、何度か深呼吸をした。そして、ゆっくり目を開けると、僕を見た。
「このまま頭が成長し続けて、爆発してしまうんじゃないかと思って、ずっと怖かった。どんどん頭が大きくなって、バランスが悪くて、歩くことも出来ずに。世の中の何にも触れることなく、死んでしまうのかなって」
 福子は大きく息を吐くと、短い手を伸ばしてカーテンを引っ張った。僕は福子を手伝ってカーテンを開けた。
「窓も開けてくれる?」
 しっかりした声で福子が言った。僕は、良からぬ想像をして、躊躇った。

    昔から、我が家では窓を開けることは禁止行為だった。頭の大きな福子が落下してしまう可能性があるからだ。
「まさか、落ちたりしないよ。そんな度胸ない。ただ、入口がほしいの。出口、かな? どちらかと言うと。まあいいや。とにかく、新しい空気に触れさせて」
 僕はベッドに膝を突き、ベッド脇の窓を遠慮がちに開けた。
「もっとだよ、なーな。全開にしなきゃ」
 一瞬考えて、結局僕は窓を全開にした。
「うわー。暑いね。そりゃあそうか。わたしって夏うまれなんだよね」
 福子が笑った。それは僕が知っている、可愛い笑顔だ。
「ね、なーな。バルーンリリースって知ってる?」
 福子がくりっとした二重の目で僕を見つめた。頬には赤みが差してきていた。

「誕生日のお祝いに、想いを込めて風船を飛ばすの。最近では、そのとき使われる風船が環境に配慮されたもので出来ていて、雨に濡れると溶けて土に還る、エコなものだったりするの」
 福子はいきいきとそう語った。僕は、福子が何を言わんとしているのかわからなかった。ただ、福子の頭が更に膨らんできているのを目の当たりにし、不安をつのらせていた。
「ふくちゃん、頭、痛くない? また少し膨らんできてる気がする。窓を開けるのは刺激が強いのかもしれないね。一度休もうか」
 僕は見ていられなくなり、窓を閉めようとした。すると福子は起き上がり、僕の服の裾を引っ張った。
「飛んでった猫は、どうなったの? 死んだの? それともどこかで幸せになった?」
 福子の眼差しは真剣だった。
「幼児向けの絵本だから……。そんなに詳しくは書いてないし、その後については、考えたことはなかったな」
 僕は正直に言った。すると福子は笑顔で言ったのだ。
「幸せになったよ、きっと。飛んで行って、新しい人生を生き直したはずだよ。そうでないと、絵本にしちゃいけないんだよ」
 それにね、と福子は付け足した。

「その猫には、待ってくれている人がいたでしょう? 飛んでいった猫のことを、ずっと思ってる母さん猫がいたじゃない。きっとわたしにとっては、それはなーなだと思う。ねえ、なーな。わたしが飛んでいっても、たまに思い出してくれる? たまにだったら、なーなに負担はないよね? 一年に一度、わたしの誕生日に、わたしを思い出してくれればいいの」
「ちょっと待ってよ、ふくちゃん。全然言ってることがわからないよ。福ちゃんは猫のようにはならないよ。願ってもなれないんだよ」
 どうして? と福子がまんまるの大きな頭で、ほんの少し首を傾げた。頭の大きさはまるで大玉ころがしの玉のようだ。

「バースデー・バルーンだよ。祈りを込めて、空に飛ばすの。それがわたしが今一番望むこと」
 僕の体はいつのまにかがたがたと震え始めていた。福子の本気が伝わってくる。それ以上に、目を疑うほど福子が膨らみ始めているのを目の当たりにし、この二十年で初めて福子に対し恐怖を感じていた。
「掛け声がほしいな。〝ハッピーバースデー・ふくちゃん〟にしよっか。なんのひねりもないけど」
 僕は首をふることで精一杯の抵抗を示した。
「もう決めたの。ありがとうね、なーな。きっとまた会えるよ。新しいわたしと」
 そう言うと、福子は宙に浮いた。どこから生じたのか、部屋の中から窓に向かって突風が吹き、福子を窓の外に連れ去ってしまった。福子はあっという間に小さくなって見えなくなった。あんなに大きかった福子の頭が、ものの数秒で視界から消えたのだ。
 それが、妹・福子との別れだった。

 (九)

 あれから僕は、一日に何度も窓の外を眺めている。妹はあのとき、一年に一度、誕生日になったら思い出してくれればいいと言ったけど、それは無理な話だった。

 あの日から僕は、生きているのか死んだのかわからない妹の帰りを、ただひたすら待っている。いや、本心を言うと、きっとそうじゃない。
 僕は、今目の前に妹が現れても、きっと心から喜ぶことは出来ない。

 ねえ、ふくちゃん。僕はね。
 僕という無責任な兄は、きみがどこかで、これまでのきみとは違う体に生まれ変わって、楽しく生きていてくれないかと、自分勝手に願っているんだ。

 
 




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