創作大賞2024 | ソウアイの星⑥
(七)
わたしたちは駅を抜けて、丸井デパート前の信号で四人並んだ。皆、あまりことばを発さなかった。
夜九時を過ぎても吉祥寺の街はまだまだ活気があって、行き交う車のライトも眩しい。信号が青になるのを待つ間、ふと見上げた空は、星も見えないブルーグレーだった。
再び歩き出したわたしたちは、自然とまた二人ずつに分かれていた。
わたしは朔也と並んで歩いた。朔也は心地よいリズムで歩く人だった。
「朔也くん、今なにか歌ってるの?」
「え?」
「心の中で、いつも歌ってるのかなって」
朔也は腕組みをして困ったような顔で笑った。
「そこまでいつもアーティストしてないよ、俺は」
「そうかな。自覚ないかもしれないけど、朔也くんは生粋のアーティストだと思ったよ。こないだのライブのオープニングとか、すごいと思った。しばらく鳥肌が収まらなかったもん、わたし」
わたしは話しながら、また無意識に彼の左頬を見ていた。
「ありがと。アカペラはダイレクトに伝わるからね。あれって、あの場にいる人の体温とか、持ってるオーラみたいなものが全部自分に集まってきて凄まじいエネルギーを感じるんだよ。あの経験をしちゃうとやめられない」
朔也はまっすぐにわたしを見て言った。わたしは、あの日の朔也の視線を思い出した。
「ねえ、あの日」
「どうして見てたか? でしょ」
俺も今言おうと思った、と朔也は言った。
わたしたちは公園に続く階段をゆっくりと降りて行った。
「あの会場の中で、一番熱い視線を感じたから」
朔也は冗談ぽく言ったから、本当のところはわからない。だけど、そう言われたわたしは全身が熱くなった。
「流香はなんで……」
朔也は言いかけて、でも続きは言わなかった。
わたしたちは音楽堂に向かっていた。朔也は一度振り返り、後ろを歩く華と健に向けて手を挙げると、音楽堂を指さした。
夜の音楽堂に人はまばらだった。だけど、ステージ前のベンチにはカップルが二組、互いに距離をおいて座っていた。
「飲み直したいでしょ?」
華が手に持っていたビニール袋をベンチに置いた。中には数種類、缶のお酒が入っていた。
「いつ買ったの?」
わたしが驚いていると、「さっきコンビニで。だって二人、呼んでも止まってくれなかったんだもん」と華は目を細くして言った。
わたしたちはそれぞれの缶を持ち上げて乾杯をした。
「音楽がないね」
しばらくして朔也が言った。
「大体この時間は橋のこっちと向こうで、誰かしら弾き語ってるのにな」
言われてみると確かに、今日は静かだった。遠くに見える池の水は黒黒して、水面が静かに煌めいている。木々の間から見る空は、さっきよりグレーが濃い。だけど、そのグレーの下には、澄んだブルーを隠しているのがよく分かる。
「誰も歌ってないてことは……」
朔也がつぶやいて健を見た。健はわたしたちと少し距離を取ったところで煙草を吸っていた。わたしは健の指に挟まれた煙草の灯りが、ゆっくりと上下するのを目で追った。
「今日、ギター持ってないもんね、健」
と華が残念そうに言った。
五、六人の男女が賑やかに橋を渡っていった。池に跳ね返った彼らの声は静かな夜にこだまする。
「華と健、東京来て二年?」
朔也に訊ねられて華は頷いた。そしてわたしの方を向くと言った。
「うちら、夜行バスで来たんだよ。わたしと健と、あと二人。優里と隼人」
本当はあと一人いたけど、彼女と揉めて乗り遅れた、と当時を懐かしそうに振り返る華は話しながら健を見ていた。
「あの日、健と一緒に東京行きのバスに乗ってるのに、どうしてか東京着いたらもう会えなくなるんじゃないかと思って、実はバスの中でちょっと泣いた」
今思えば、ホームシックな状態だったのかなあ、と華は言った。
「だから東京来てから、健がご飯に誘ってくれたり、ライブに呼んでくれて嬉しかったな」
健がポケット灰皿に煙草をしまうと、そこにあった小さな小さな光は消えた。
「それからは、ライブを観ることが生きがいになっちゃった。天才ヴォーカリストもここにいるし」
華は照れ隠しに朔也の膝を叩いた。
「天真爛漫なドラムと超クールなベースも。ほんとにみんな、かっこよすぎるよ」
なぜかそこで泣きそうになった華は、やばいやばい、と言いながら両手をひらひらさせて涙を乾かそうとした。
静かだった。本当にその夜は。だけどそれは偶然なんかじゃなくて、この後に起こる奇跡に必要な静けさだったのだと、後から振り返れば納得する。
「集まった全員、メガネだった」
突然、静寂を破って朔也の歌声が響いた。
華が息を呑んだ。両手で口元を覆って興奮を抑えている。
「スタートライン」と健が言った。
集まった全員 メガネだった
夜行バスだからね
かけていないのは君だけ
視力良かったんだね と言ったら
良くはないけどね と笑った
そろそろ乗ろうよ
出発まで あと二十分
じゃあね とわかれて
それぞれの席に着く
カーテンの隙間から覗いた
窓の外
電光掲示板
待合所
光ってる この街で唯一
明るいみたいに
東京はもっともっと 明るいんだよね
わざと暗い方に 目を向ける
いつの間にか
バスは動き出していた
朔也が目を閉じてバラードを歌っている間、わたしは、一人二人と朔也の歌声に立ち止まる人の姿を見ていた。橋の中腹でカップルが立ち止まったのも見た。どこまでも澄んで響き渡る歌声に、こんなふうに人が集まってくる光景を初めて見た。
どこで鳴っているのか、二胡の音色が聞こえた。恐らく、池の反対側だろう。朔也の歌うバラードに合わせているとしか思えないくらい、歌声と二胡の音色は呼応して心地よく夜空を行き来した。
わたしはこの光景を目にするまで、人々が赤の他人へ寄せる興味はスマートフォンの中にしか存在しないと思っていた。宿った感情を他人に見せる、そんな人間らしい反応をする人が、この日、偶然この場所に集まったのかと思うほど、朔也の歌は人々を惹きつけていた。
朔也が歌い終わると、すご、と誰かが言った。その場は自然と拍手に包まれた。
その後はばらばらと人が散って行った。去っていく人々の足音に、まだ朔也の歌声の残響が交じっていた。肌で感じた音。それは皮膚よりずっと奥の方にとどまって、なかなか出ていかない。だからその後もずっと、わたしは微かに震えていた。
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