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私は多分、自傷が酸素だ

痛みがもたらすものは、決して悪いことばかりでは無い。

来年の文学賞に向けた小説を書きながら、私はそんなことを考えていた。
近頃 私の見る景色は、パソコンの画面か原稿用紙か、アルコールで酩酊して視点の合わない手元か、吐しゃ物の浮いた自宅の便器だ。
書いて、飲んで、吐いて。また書いて、飲んで、吐いての繰り返し。

“才能には副作用” って、宇多田ヒカルも唄ってる。

執筆がつらいんじゃない。
ただ、筆が思うように進まない時は、やっぱり私は自分には力がないように感じられて、途端に自分を愛せなくなる。
これまで積み上げてきたことを信じてあげられなくなる。
物書きに限らず、絵描きや何かを制作する人たちにとっては、よくある感情なのだろうと思う。
これに耐え、打破できなければ、私の作家人生なんて簡単に幕は下ろされてしまうのだから、今は踏ん張る以外に選択肢は無いのだけれど。

ふと思ったことがあった。
ハタチから2年の間、鬱とパニックと解離性障害の闘病をしていた時、あの頃の私は感情が露わだった。
茹でたてのゆで卵を剥いた時のような、つるんとして、湯気の昇った新鮮な状態。

そんな風な心の状態が常だったことを思うと、やかましさもあるがそれらの感情に嘘は無かったように思う。
生きたいも、死にたいも、
自分を穢らわしいと思うことも、社会を悪だと感じることも、
育った環境への憎悪も、すべて異物を含まない純度100%の感情だったように思う。

健康に日々を過ごしていると、この、純度100%の感情って、そうそう顔を出してくれない。
その場その場で都合の良い感情を当てはめて、器用に生きちゃってる。
人に気を遣って、良い子で居ようとして、何かの為になるって言い聞かせてさ。

こういう人間は、多少病んでいないと自分の感情に耳を貸してあげられないのかもしれない。
闘病中の私はただただ素直で、飾り気がなく、分かりやすかった。
私あの子のこと、大好きだったな。

感情がリアルであればあるほど、私は生活に潤いが出る。
それはハッピーなことだけでなくて、悲しみやつらさも鮮度が高ければ養分になる。

近頃は嘘っぱちの感情ばかり。
傷を隠さず、素直に感情を露わにするあの子に久しぶりに会いたくて、最近の行動は自傷的になっていたかもしれない。

刃を肌に沿わせたりしないよ、ただ地から足を浮かすだけ。

これは別に誰も知らなくて良いこと。
これはただの息抜きのタイピング。

だけどこれを書いたおかげで、私がいま何をすべきか、分かったような気がするよ。

( ※小説執筆中でnoteの更新を控えています / 過去作たくさん有り〼、是非読んでみてね。)


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