褒めなくてもいいから。
私は小さい頃から自分に自信がなくて、小学生の頃の「自分で考えて作品を作る・絵を描く」とか、もう地獄の時間でした。
自分でテーマから考える「自由研究」なんて最悪だったな〜って思います。
特技と言えるものもないし、運動も苦手だったから、何かいつも劣等感を感じていた気がします。
そしていつも人がうらやましかった。
走るの速くいいな。
緊張しないで発表できていいな。
大きな声で返事ができていいな。
明るくいいな。
体育の授業でチーム決めをする時に、代表の子が自分のチームにする子をチョイスするやり方ありませんでしたか?
運動できる子とか目立つ子はどんどん選ばれていくんだけど、そういう時はやっぱり残りがちでね。
苦笑いするしかなかったな〜。
そういう時に「早く選んでよー🤣」くらい言えてたら良かったんですけど、自信のない子どもだった私は、まさかそんなスキルは持ち合わせていなかった。
今考えるとあれ子供の自尊心めちゃくちゃ傷つけるやり方ですよね。
もう今はないよね?流石に。
まぁ、こんなエピソードがありました。
あとはよく覚えているのが、小学1.2年生の頃。
「粘土で好きなお弁当を作りましょう」みたいな授業の時。
もう何をどう作ったら良いのやらわからなくて、楽しむ所かもう困ってしまってどうしようもなくて。
でも誰も助けてはくれないし、結局時間内に終わらなくてね。
「じゃあ友だちの作品を見て回りましょう!」ってなった時に本当に恥ずかしくて情けなくて。
あの時、先生にフォローしてもらった記憶は全く無いんだけどどう見ていたのかな。
それとも見てもらってすらなかったのかな。
そんなこんなで幼少期から「自分の考え」というものや、「自分自身」に自信が持てず苦労する事が日常的に多くありました。
でもね、そんな小学校生活の中で本当に大したことじゃないんだけれど今でも覚えている会話があって。
小学校4年生の頃、何かの授業で「自分の特技を書きましょう」 みたいな日があったんです。
当然私は困りました。
「特技がない」という事がすごく恥ずかしくてかっこ悪くて、人に言えないよ…という思いになりました。
自分で自分が嫌になるというか。。
でも近くに座っていた男の子が「え〜特技なんかないよ」と普通に言いながら作業を進めているのです。
恥ずかしげもなく、普通に、フラットな感じに。
当時の私にとってはめちゃくちゃ衝撃で。
「恥ずかしがらずに口に出せる人がいるんだ」
「そもそも特技がなかったとしても別にいいんだ」
って、初めて知ったんです。
知ったというのか、初めてそう感じる事ができたというか。
何の取り柄もない自分がダメでかっこ悪くて情けなくて恥ずかしくて、、そんな風に思っていた私にとってはすごくビックリする出来事でした。
母も母で「何か得意なことを見つけて自信をつけてほしい」という感覚でいましたしね。
母なりの想いだったと思うので、否定も恨みもないですが「得意なことがある」=自信という構図は、「得意なことがない」と自信が持てないのか?という事につながってしまう気がして。
私が当時の私に会ったらこんな風に言ってあげたい。
特別に何かできてもできなくても、どっちにしても別にいいんだよ。
得意な事があったらあったで、楽しい事も増えるかもしれないけど、ないからってダメな子ってわけじゃ決してないんだよ。
自分で考えてやってみても上手くいかない事だってあるよ。でもそれは悪いことではないから大丈夫だよ。
いつもいつも、自分の足りない所に目を向け、自分が情けなく感じていたな〜と思います。
おとなになって振り返るとそんな風に感じます。
そしてそれは今の自分の基礎になってしまっている部分でもあります。
将来産まれてくるかもしれない我が子がそんな幼少期を送っていたら胸が張り裂けそうなくらい悲しい気持ちになるだろうな。
卒園児達もそんな子ども時代を過ごす事なくのびのびと過ごしてほしい。
なんだか自分語りにも程がありますが、平熱さんの「肯定も否定もせず」という言葉を見て、ふと自分の子ども時代を思い出してしまいました。
特別に褒めてくれなくていいから、否定はしないでほしい。
良いも悪いもジャッジはいらないから、ただただ平坦に平穏に安心して過ごせる環境が幼少期には必要なんだと思います。
親子関係も含めて。
自分で考えて行動する力って、「これやったら怒られるかな?」「これやったらほめてくれるかな?」ってそういう他者ベースだと育っていかないんだと思います。
子ども時代はちょっぴり苦労したし、大きくなってからもめちゃくちゃその影響感じていますが、その経験が保育に役立ってる部分もあったと思うので、これからもネガティブな経験を無駄にしないように生きていきたいな。
朝からうるさくてすみません😂
おしまいです。