あまちゃん

のんびりと書きたいことをつらつら書く 哲学と歴史が好きな大学生

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最近の記事

完全な日記

 最近、ジャック・デリダがラジオ番組で喋ったものが文字化された本を読んでいる。パロール中心主義的な西洋哲学への反旗を翻し、エクリチュールを重要視したはずの彼のパロールが文字化されて出版物になるという、上っ面の事情を鑑みるとなんとも微妙な顔になる本だが、読んでいる分にはなかなか面白い。多分、フランス語ができればもっと面白いのだろう。彼の独特の表現はーー彼自身がしばしば指摘するようにーー翻訳されたものを享受するのではなく、翻訳するというまさにその動きの中で輝くものだろう。そんなこ

    • 哲学の境界──あるいは個の揺らぎについて

       何が哲学的で何が哲学的でないかという問いは、ある意味ではすでにそれ自体哲学的だといえるが、この問いに対して私は今までのnoteで断片的に、かつ異なる文脈から自分なりの回答を書いてきた。直近だと生活と哲学に関するあれこれや、哲学対話について書いたものなどが挙げられる。これらのnoteには当然大小の文脈の差異があるが、大枠として比較的広い意味で取った時の哲学についてのものであるということは共通している。だが、今回は少し趣向を変えて、自分がこれから哲学の論文を書くにあたって考えて

      • ほんの少し、人生

         20歳という年齢は思春期をとうに終え、自分が何者であるかという問いに一定の答えを出した上で、なんとなく周囲と折り合いをつけながらやるべきことに邁進する、というような年齢だと一般に思われている。ところが、どうもそうではないような気がする。いまだに何者であるかという問いと向き合いつづけ、本当にやりたいこと、自分にしかできないことなどないと迷いつつ、なぜか時間が過ぎていく、あるいは自分だけ時間から取り残される感覚を味わう、そういう年齢なのかもしれない。  久しぶりに高校の友達四

        • 哲学対話という哲学的でない営みについて

           珍しく(?)挑発的なタイトルをつけてみた。このタイトルに込めた意図、このタイトルの正確な意味は一通り読めば概ねわかると思う。ただ、私が思うことを最初にあえて要約すると、「哲学対話とは哲学的であるが哲学的ではない」ということだ。この思いは一見、わかったようなわからないようなことを言って人を困惑させるタイプの「哲学」的な何かに見えるかもしれないが、そうではない。ある意味で哲学的であるがある意味で哲学的ではないということ、哲学のある側面に光を当てているがある側面は葬り去られている

          生活と哲学

           生活と哲学という陳腐な二項対立をしばらく維持していた。偉大なデカルト先生やカント先生は哲学者であるより前に偉大な生活者であったとか、西田、田辺、三木といった京都学派の人々も一個の生活者であり、その点を無視しては真に哲学者としての彼らを見つめたことにはならないだろう、とか。少し前まではそんなふうに、いわば生活≧哲学のようなイメージが私の中で支配的だった(ここが>ではなく≧なのは割と重要な感覚かも?知らんけど)。後者の京都学派に関しては、このnote以外の場所で文章にまとめたく

          岳人、加藤文太郎──あるいは世俗的孤高

           『孤高の人』という、新田次郎の書いた小説がある。いわゆる山岳系小説で、加藤文太郎という実在の人物をモデルとした小説である。この小説、色々面白かったので、少し感想をば(以下ネタバレ注意)。  主人公である加藤文太郎は兵庫と鳥取のほぼ県境に位置する田舎町、兵庫の浜坂の生まれである。物語は文太郎が成長し、神戸の造船所の製図工見習いとして日々を過ごすことから始まる。造船所の友人から山歩きの仕方を教えてもらったことをきっかけに、文太郎は一気に山にのめり込むようになる。はじめ六甲山系

          岳人、加藤文太郎──あるいは世俗的孤高

          居酒屋

           つい先日、それなりに有名な方とお話することができた。あまり書くと個人が特定されるので控えめにしておくが、大型書店で平積みがされているような方である。エッセイや小説など、多様なジャンルで活躍されている。私はその方に、自分もエッセイ?というかなんかよくわけのわからんもの(このnoteもそのひとつ)を書いているのだが、いまいちうまく書けない。どうしたらいいですか、そしてあなたは書く時に何を意識されていますか、という、とても大雑把な質問をなげかけた。すると、おおむね次のような答えが

          読書感想文『ニーチェと哲学』

           ドゥルーズの『ニーチェと哲学』を読んだ。はじめてドゥルーズの著作を読んだのだが、かなり面白かった。私はドゥルーズ、及び彼がいた時代を食わず嫌いをしていたフシがあったのだが、食わず嫌いをしていたのがもったいないと思うほど良い本だった。  昔から政治的文脈におけるドゥルーズは擦られ続けてきたテーマであり、私が彼、及びその時代を食わず嫌いしていたのもここら辺の理由に寄るところが大きい。しかし、それらから距離を置いて、単に哲学書の著者、すなわち哲学者としての彼の本を読むと、シンプ

          読書感想文『ニーチェと哲学』

          バランス

           何かにつけてバランス感覚というのは重要らしい。私がここで述べようとするのは、畢竟すれば中庸という、洋の東西を問わず常に重視されてきたあの徳の話のひとつのバリエーションにすぎないわけであるが、それでも具体的にそのことを考えるのはなんらかの意義を有するであろうから、少しばかりあれこれ連ねてみようと思う。  バランス感覚とは、相反する、あるいは遠い距離にある価値観、思想などの一方に盲目的に傾倒することなく、常に視野を様々の選択肢に開かれた状態に保つことである。我々の生活において

          光の断片

          光あるところには影があり、影あるところには光がある。 光とは明るさである。太陽である。あるいは月である。いずれにしても最初に闇があって次に照らすものとしての光がある、とされる。本当に?光あれ!が幻想だったとしたら?闇が影だとしたら?そして、光と影は同時に生まれるのではなく、影が先に生まれていたとしたら? 光は存在であり、存在者である。ここに存在論的差異は(今回は)無い。一方、無底の存在に光は無い、とされる。存在それ自体という底なし沼、それはもしかすると闇ではなく、影なのか

          スタイル・改!

           スタイルが固定化してしまう!文体もそうだし、何を書くかもそうだし、なにもかも、全部が、ひとつのものになってしまう。無限の可能性に開かれているはずの表現が!これは恐ろしいことだ………  万城目学が直木賞を取ったらしい。『八月の御所グラウンド』。嬉しい。とても嬉しい。おめでとうございます。私は万城目作品が大好きだ。小学校くらいの頃から何度か「万城目読みたい期」が発生して、その度に何冊か読んで、大満足して、というのを繰り返している。今回の『八月の御所グラウンド』もそういう理由で

          スタイル・改!

          京都という場所について

           哲学者の全集を読んでいると、日記や草稿群に出会うことがしばしばある。先日は西田幾多郎の日記を読んでいた。彼の日記は、どこどこまで散歩しただとか、だれだれが家にやってきたとか、そういうことが箇条書きされてるにすぎない。そうはいっても、私は今京都に住んでいるので、登場する地名には馴染みのあるものも多い。そうすると、自然、あの場所でこんな風に散歩してたのかななどと妄想がふくらむ。こんなことを考えるのはオタクの性なのだろうか。いや、誰でもやることだと信じたいが…。ともかく、三木清が

          京都という場所について

          わちゃわちゃ回顧録

           私は今日で10代最後の日を終える。明日からは20代の私になる。だからなんだというわけではないが、しかし、だからこそ、今年一年をちょこっと振り返ってみようと思う。  私は今大学生である。大学生は基本的に勉強バイトサークル恋愛ラーメンからなる五行説に基づくという立場を私はとる。この五行説に従うなら、今年もやはり勉強が最も重きを占めた。なんやかんや学ぶことが一番面白い。幸か不幸か、もうすっかりそういう体になってしまった。今年新たに学んだことを列挙するとキリがないが、ひとつ言える

          わちゃわちゃ回顧録

          町中華と国際情勢

           餃子でも、ラーメンでも、炒飯でも。なんでも良い。とりあえずテキトーに、その日の気分で。ありがたいことに、町中華は財布に優しい。野口が1枚(人)お亡くなりになりあそばすだけで済むことがほとんどだ。  何年この町と共に歩んできたのだろう。もしかすると私が産まれる前からかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そこにはどんな履歴があるのだろう。今僕が座ってる席に昨日は誰が座ったのだろう。10年前には誰が座ったのだろう。もしかするとまだ𝐵𝐼𝐺になる前の誰かが座っていたかもしれない

          町中華と国際情勢

          耳を澄ませば

           しっかり聴くことはしっかり見ることよりはるかに難しい。目は閉じれるけど、耳は閉じれない。だから、聴いてる気になってしまう。ちゃんと聴けてなんかいないのに。  最近はどうやったら自分のオカタイ書き言葉がやわらかくなるかということにこだわっている。ちなみに、今も「どうやったら」のところを無意識に「いかに」と書いていたので直した。オカタイ書き方をするのは簡単だ。漢字を増やせばいい。いや、より正確を期すならば、一文、あるいは全体における漢字の割合の増加を志向すると言うべきか。ほら

          耳を澄ませば

          最強の弱者としてのMOROHA──暗夜に躍動する生のダイナミズム

           MOROHAを一言で表したら?と問われたら、私は迷わず「最強の弱者」と答える。MOROHAの歌詞には弱さを徹底的に見つめ、克服し、なんとしてでも強者たらんとするダイナミズムを描き切るという、全ての曲に通底するテーマがある。そこに私は「最強の弱者」としてのMOROHAを見出す。そこで、今回はMOROHAの歌詞を見つめることを通じて、この最強の弱者の本質に迫りつつ、MOROHAにおいてアフロとUKが各々演じる役割、さらに彼らから垣間見える人間のあるべき姿の一側面について述べるこ

          最強の弱者としてのMOROHA──暗夜に躍動する生のダイナミズム