哲学対話という哲学的でない営みについて

 珍しく(?)挑発的なタイトルをつけてみた。このタイトルに込めた意図、このタイトルの正確な意味は一通り読めば概ねわかると思う。ただ、私が思うことを最初にあえて要約すると、「哲学対話とは哲学的であるが哲学的ではない」ということだ。この思いは一見、わかったようなわからないようなことを言って人を困惑させるタイプの「哲学」的な何かに見えるかもしれないが、そうではない。ある意味で哲学的であるがある意味で哲学的ではないということ、哲学のある側面に光を当てているがある側面は葬り去られているということ、そのことを言いたいのだ。なお、余談も余談だが、以下の話で異論があったら是非、対話しましょう()

 哲学対話が優れて哲学的である点としては次のようなものが挙げられる。自分の頭で考えるということ、参加者同士で対話を行なって自分にも相手にも変化が起こりうるということ、対話を通して日々が豊かになること、などなど…。これらはどれをとっても素晴らしいことだと思う。誰かの言いなりになることなく一度立ち止まって自分なりに考えてみるというのは、基本的かつ根本的な人間としてのあり方の一つだろう。というか、そのことを人間の基礎に置くのが哲学であるといえる。また、単に自らの考えに固執することなく、その変容を恐れないというのもまた重要なことである。我々は常に過ちを正し、より良いものに向かっていくはずだ。もっとも、ここでいう過ちを正すとはマルバツ、0/100の二元論的なものではなく、よりマズいより良いものというものであって、全否定されるべきものとして現れているわけではない。これもまた哲学対話の哲学的な点だ。哲学に触れて三日もたてば誰でも様々な文脈で言うように「哲学には答えがない」のだが、ここでの「より良いものに向かう」という態度は、積極的な意味での哲学における答えのなさを体現している。さらに、このような仕方でなされた対話を通じて日々が豊かになるならば、善く生きるために哲学はあるというあのソクラテス的原点を再確認することになるからだ。

 さて、次に哲学対話に対する一種の批判、私が哲学対話が哲学的でないと感じる点を挙げていこう。哲学内部の議論を無視している、難しいという理由で多様な言葉、概念を退けすぎ、市民としての個々人に還元しすぎ、などなど…。最初と2つ目は比較的密接に結びついているので一気に扱おう。哲学対話はその性質上、学問としての哲学に依拠するところは少なく、心理学や教育学といった多様な分野と交差しつつその伝統、素地が形成されている。昨今学問のタコツボ化がやかましく叫ばれる中にあって、これはこれで当然、良いことだと思う(そもそも、哲学対話は学問じゃないし)。
 しかし、哲学対話はあまりにも学問としての哲学の中で今対話しているテーマについてどういう議論がなされてきたか、あるいはそれに対する批判として何があるのか、ということに対して見向きもしていないように思える。これは恐らく、先程哲学対話の良い点として挙げた「自分の頭で考える」ということと一見相反することだからというのが理由のひとつとしてあげられるだろう。だが、先人の言葉、概念を学び、それらを踏まえた上で自分の頭で考える、というのが私の思う哲学における一種の理想であり、確かにそれはきわめて「難しい」ことであるに違いは無いが、せっかくなら少しでもそういうことを哲学対話でもやろうよ、と思う。今ここで共にいる人々との対話も大事だが、かつてそばにいた人との対話も怠ってはならないだろう。これら両者のバランスを保つことこそ哲学対話を主催する人の腕の見せどころなんじゃないだろうか、知らんけど(その具体的なバランスのとり方についてはあまり興味が無いので、割愛)。
 また、3つ目の「市民としての」というやつに関しては、先のものに比べてもなお多分に個人的な趣向がはいっているので適当に読んでもらいたい。哲学対話というのは様々な可能性を秘めた営みであるはずなのに、結局「社会で生きる私たち」をより良くしよう、みたいな、私にとってはつまらない着地点を設けている。哲学的に考えることは社会を突き抜けうる力を持っているはず(トンデモないことを言っている自覚はあるのでどうか目をひそめないでほしい)なのに、結局社会なるものに回収されちゃうのか、というのが残念なのだ。

 あれこれ書いてきたが、最後に私の立場からの哲学対話がもっとこうなったらいいな、をごく簡潔に書いておきたい。それはここまで読めばある程度わかるように「知識と思考の融合」としての哲学対話である。こう書くといかにもチープでありふれているが、恐らくあまり重要視されていないだろう。もちろん中にはそういう仕方で行われている哲学対話もあるだろうが、あくまでも主語をでかくとって雑に言うと、そういうことになる。実際、私は自分で哲学対話的なものを主催する機会があったが、その時は「お勉強事項」と称して様々なバリエーションの懐疑論や言語ゲームなどを紹介した。個人的にはそういうのが少しでもあるとその対話にとっても良いと思うのだが、どうだろうか。今後は哲学対話のあり方について対話していきたいところだ。

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