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ほんの少し、人生

 20歳という年齢は思春期をとうに終え、自分が何者であるかという問いに一定の答えを出した上で、なんとなく周囲と折り合いをつけながらやるべきことに邁進する、というような年齢だと一般に思われている。ところが、どうもそうではないような気がする。いまだに何者であるかという問いと向き合いつづけ、本当にやりたいこと、自分にしかできないことなどないと迷いつつ、なぜか時間が過ぎていく、あるいは自分だけ時間から取り残される感覚を味わう、そういう年齢なのかもしれない。


 久しぶりに高校の友達四人で集まって鳥貴族で飲んでいた。一人は就活中、一人はバイト三昧、一人は医者のタマゴ、そして私は大学院進学希望。三者、いや四者四様の人生を歩んでいる。就活とバイト、仮にAとBとしておく。彼ら二人はいかに人生を歩むかということについて悩んでいるらしかった。そこで、無限回繰り返されるあの話題が発生した。
「このままなんとなく就職してなんとなく生きて、俺たちはなんのために生きているのだろう」
清々しいほどに陳腐で、ありふれていて、それでいていつどこの誰にでも当てはまる答えがない、そんな話題である。
 この手の話題に対する自分の中での答えはとうの昔に出ていて、それをいうのはごく簡単なことだが、それが彼らにとっての正解であるとは限らない。清々しいほどに当たり前のことである。しかも、現に悩んでいる人間に対して独りよがりな正解を押し付けるというのは、時として有害でさえある。これも当たり前。さて、一般化すればこの上なく単純、しかしながら常に他でもない当人にとっての実存的問題として姿を表すこの悩みをいかにせまし。

 医者のタマゴ、Cが先手を打った。そんなものを考える暇があれば目の前のことに集中したらどうだ。ーー素晴らしい。実に実用的かつ現実的。我々は迷いながら悩みながら、出来るのかどうかわからないまま道を進んでいく。
 しかし、彼らの問題の確信はそこにはなかったらしい。その目の前のことが真に集中すべきものかがわからない、ということが問題なのだ。Cは医者になるという道を定め、ひとまず努力して進んでいる。その道の途上で途方に暮れることはあっても、その道から外れることはない。なぜなら、それが彼の道だからだ。彼ら、AやBはそうではない。Cの足元に確かにあるような道が存在していない。この違いが何に由来するのか。ーー夜が深まり、浅いのか深いのか分からない話が進んでいく…


 これが人生なのだろう。右も左も後ろさえ前だ。そう叫びながら進んでいくことができるその日まで、大いに迷おう。生きる意味や目的はないかもしれないが、だからこそ我々は日々を生きていく、のかもしれない。


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