京都という場所について

 哲学者の全集を読んでいると、日記や草稿群に出会うことがしばしばある。先日は西田幾多郎の日記を読んでいた。彼の日記は、どこどこまで散歩しただとか、だれだれが家にやってきたとか、そういうことが箇条書きされてるにすぎない。そうはいっても、私は今京都に住んでいるので、登場する地名には馴染みのあるものも多い。そうすると、自然、あの場所でこんな風に散歩してたのかななどと妄想がふくらむ。こんなことを考えるのはオタクの性なのだろうか。いや、誰でもやることだと信じたいが…。ともかく、三木清がどこかで書いていたように、なんとなく「デモーニッシュ」な様子で、私もよく知る場所を散歩しながら思索を深めていった何十年か前のおっさんを妄想するのは、なんとなく面白い。

 川といえば鴨川である。鴨川等間隔カップルがどこまで知名度があるのかは知らないが、その鴨川である。等間隔カップルはたいてい三条から四条、京都の中心部にかけて観測される。この三条の河原に、かつて処刑場があったというのは有名な話だ。ここに晒し首があったというのは、今の穏やかな川の流れと、河原の人々の様子からはなかなか想像出来ない。怨念がなんたらと言うような話もあるらしい…霊感がなくて助かった。

 前もどこかのnoteで書いたが、川端康成の『古都』は素晴らしい小説だと思う。あそこで描かれている登場人物達は、決して出会えないだけで、本当にどこかにいるかもしれない。そう思わせてくる何かがある。パラレルワールドでも可能世界でもなんでも良いが、なにかねじれの位置のような場所で、彼ら彼女らはその人生を歩んでいるのかもしれないなどと、これまた妄想が捗る。

 京都というのは、なにやら不思議な力によって様々なものが交錯する場所らしい。西田幾多郎も、三条河原の怨念も、『古都』の人々も、存在するといえば存在するし、存在しないといえば存在しない。確かに存在していたものもあれば、決して存在していなかったものもある。

 一条戻橋という短い橋が堀川通沿いにある。京都市内なんてちょっと大きな庭みたいなものだから、私も何度かチャリンコで通ったことがある。つい最近、いつものように怠惰にYouTubeのshort動画を見るともなく見ていたら、「あの世とこの世をつなぐ橋」として紹介されてて驚いた。どうもさっぱり知らなかったが、陰陽師(!)の安倍何某もこの伝承に一役買っているらしい。この橋を渡った時に死者が生き返っただとかなんとか。私はここを通る度、あの世とこの世を行ったり来たりしていたのか…往来の車も、実はあの世からやってきていたのだろうか…

 この話、そんなわけあるかいと一笑に付すことは実にたやすい。私もshort動画を見た時、素でツッコミそうになった。しかし、この話は少し面白いところがある。考えて見てほしい。この話において、あの世とこの世を繋ぐ橋は世界のどこにあるのだろうか?この橋はあの世のものだろうか?それともこの世のものだろうか?ごちゃごちゃ書いてきた話の方向的にもうわかった方もいるのではないか。そう、この橋は紛れもなく、「この世」のものである。あの世とこの世という境界は、この世界の中に引かれている。少し話が難しくなってきただろうか。私が言いたいのは、どこか全く分からない遠くにあの世があるのではなく、「意外とすぐそこ」にあるということである。私が何気なく通っていた橋は本当にあの世への入口だったのかもしれない。しかし、その橋は間違いなくこの世のものである。この世界のものである。

 キリスト教では、見えない神様がすぐそばにいることを臨在(パルーシア)と言うらしい。この言葉は単なる訳語としての役割を離れれば、今回のnoteに適用できるのではないかと思ったりする。思い出して欲しい。先程私は、西田も三条河原の怨念も『古都』の人々も、存在するといえば存在しているが、存在していないといえば存在していないと書いた。彼ら彼女らは、そう、臨在しているのではないか。時間や空間の制約から一歩離れれば(一歩!先程の意外とすぐそこと似たニュアンス)、無限の臨在するものたちが現れてくる。
 私は少し分かりにくい話をしているかもしれない。ここで「草葉の陰」という日本語を思い出してみよう。これは墓の下や、あの世という意味を表す言葉だった。この言葉は天国という言葉にまとわりつく、あの上空かなたの遠い場所、というイメージを全くもっていない(念のため断わっておくが、私はここで、キリスト的世界観と日本的世界観という、陳腐な二項対立をしているのではない)。この言葉を使う時、死者はまさに「草葉」という「意外とすぐそこ」に、ありありといるのである。

 この草葉の陰という言葉と同様、臨在するものたちも、何らかの仕方ですぐそこにいる、リアリティを伴った存在者である。では、この臨在するものたちと私はどのような関係にあるのか。「場所」において出会うものであるというのが、ひとつの答えだろう。これは先程の時空間における「空間」とは異なる意味である。場所とは、私が生き、私が経験する、日常の様々な風景の一幕である。その様々な一幕において、ふと、どこからともなくやってくる。それが臨在するものたちである。あぁ、そういえばここであいつがあんなことしてたらしいな、と頭をよぎる。これが臨在である。なにやら小難しそうな言葉を選んだことを今更後悔しているが、まあヨシとする。
 こんなものは観念の戯れにすぎないのであろうか?空想の戯れであろうか?むしろ、このようなところからも他者(お望みならば間主観性でもなんでも、好きな文脈に落とし込めば良い)に開かれることは出来るのではないだろうか。

 どこかに書いてあったことで、出典をさっぱり忘れてしまったのだが、歴史の時間の流れ方を「積み重なる」と表現しているものがあった。それ自体はまあうなずけるというか、ある種見慣れたものだろう。しかし、そこに書かれてある比喩が秀逸だった。現代という積み重なりの先端にいる私たちは、歴史を等しく見ることは出来ず、無限に積み重なったすりガラスを1番上から見るかの如くとらえるしか出来ない、と。だいたいこんな感じだったと記憶しているが、これはなかなか良い表現ではないだろうか。そして、私がここで書いてきた臨在というものも、確かに「積み重なっている」ものだと思う。歴史学はいつも過去の客観性との勝負である。しかし、学でない歴史は、自由に場所において積み重なっている。場所において、今ここにあるということと、すぐそこにあるということが、交差している。

 私が生き、私が経験する京都とは、このような考えに自然に開かれていく、不思議な魅力のある街である。このようなある種の想像力をもたらすのが、京都なのである。そして、最後に手のひらクルクルしておくと、なにも京都である必要は無いはずだ。皆さんも、今生き、経験しているその場所で、少し思いをめぐらしてみてはいかがだろうか。そうすれば、どこか新たな場所に立てるかもしれない。

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