バランス

 何かにつけてバランス感覚というのは重要らしい。私がここで述べようとするのは、畢竟すれば中庸という、洋の東西を問わず常に重視されてきたあの徳の話のひとつのバリエーションにすぎないわけであるが、それでも具体的にそのことを考えるのはなんらかの意義を有するであろうから、少しばかりあれこれ連ねてみようと思う。

 バランス感覚とは、相反する、あるいは遠い距離にある価値観、思想などの一方に盲目的に傾倒することなく、常に視野を様々の選択肢に開かれた状態に保つことである。我々の生活においては価値観が固定した時点で一種の敗北である。多様性という価値観が固定した時点でそれは既に多様性ではなく、多様性という名の固着した不自由な、そして時に有害な統一性の元に一切が遂行される。これが敗北でなくてなんであろうか。我々の生活はそうではなく、様々な価値観を部分的に受容しつつ部分的に無関心を保つという態度でなくてはならない。

 受容しつつ無関心を保つというのも当然、ひとつのバランス感覚である。このような状況にあっては、中空に放り出されている三人称としての他性をそのままに引き受けることが肝要である。そこにいるのは「彼ら/彼女ら/それら」であって、敵としての「やつら」ではない。そうかといって我々と志を同じくする「君たち」でもない。このようないわば顔の見えにくい他なるものに対して、理解を拒否するのではなく、常に視界に収めた上で一定の距離を保つというのがバランス感覚である。三人称の他性に顔がないのではない。そうではなく、我々が顔を見ようとしていないだけである。努めて他なるものを顔のあるものとしてまなざし、声を聞きつつ、そして時には無視するという態度が要請されている。

 バランス感覚の無い人間の発言(別に発言でなく、ほかの事項でも事情は似たようなものだが)に惹かれて盲目的に従うことほど愚かなことは無い。これは二重の愚かさを孕んでいる可能性がある。ひとつは、発言者自身がバランスに自覚的でないため、非常に穿った見方になっている場合である。非常に穿った見方自体をすることが問題と言いたいのではない。自らの発言のバランスに対して──とりわけ公的な発言においてはそうであるが──十分な反省なしになされる発言は時として危険になりうる。そしてふたつめは、仮に十分な反省に基づいてバランスを失した発言がなされているのだとしても、それを受け手が反省なしに受け止め、一方の立場に盲目的に傾倒するような場合である。ここに至ると、独断的なうにゃうにゃ主義、うにゃうにゃismというのが見え隠れしている。主義というのは本来、多年の吟味と反省の結果表れたひとつの態度について名指されるべきものであって、自ら称する類のものでは決してない。そこを取り違え、自称うにゃうにゃ主義が蔓延ることによってバランス感覚に不可欠な流動性が失われる。そうして柔軟性、伸縮性を失ったものがどうなるかは想像にかたくない。

 ここまで述べてきたことで主に意識されているのは、既に何度か直接言及されている「生活」という側面である。生活において問題となるものはほとんど無限と言っていいほどあるが、通俗的幸福の追求は一つの大きなテーマとしてあげても良いだろう。ここで通俗的というのは便宜的に他の種類の幸福を排除するためであって、決して否定的なニュアンスをこめているのでは無いことに注意して欲しい。さて、通俗的幸福においても私が主張したいのは当然「バランス感覚」である。非常に決定論的な書き方をするならば、通俗的幸福に最も寄与するのは「足るを知りつつ、足らざるを知る」という態度だろうと思われる。友人との何気ない会話、素朴ながらも美味いご飯などの日々のめぐみに感謝しつつ、他方で何らかの目標に向かっての努力をすることや自らの欠点を反省するということこそ、生活におけるバランス感覚である。上善は水の如しというらしいが、このようにバランスをもって自覚的に日々を歩んでいくことがひとつの水だと言えるのかもしれない。

 少し話はそれるが、生活はそれ自体として驚くべきもので、本来はいかなる形而上学的な思考やいかなる懐疑にも耐えうるしなやかさを持っている。この世界は夢なのではないか?実は私は誰かに操作されているのではないか?いかにこれらのことを考えようと、生活は淡々と、そして着実に行われていく。いや、むしろ、行われなければならない。それがバランス感覚である。どういうことか。実に、生活が何かに侵されるというのは、少しなにかに没入したことのある人なら誰でも感じたことのある感覚だろう。この時、既に生活はその固有のバランスを失っている。しなやかであったはずの生活は、なにかどす黒いものに突き動かされるものにもなりうるし、反対に恍惚の境地へと導いてくれるものにもなりうる。これではいけない。それらは生活全てではなく、生活の一部分であるべきであり、そうしてそれ以外の部分とのバランスを取らねばならない。これもまたバランス感覚によってなされるべき重要な事柄だ。

 自分なりのバランスを常に模索するところにいわゆるアイデンティティが宿っていく、のかもしれない。


このnoteはバランス感覚ということについて思うところをつらつら書いた結果、拡散しつつある考えを上手くまとめることが出来ず、私の中ではバランス感覚を失っているものになってしまった。なんとも皮肉めいているが、まあそれはそれで面白いのでヨシとする。

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