完全な日記

 最近、ジャック・デリダがラジオ番組で喋ったものが文字化された本を読んでいる。パロール中心主義的な西洋哲学への反旗を翻し、エクリチュールを重要視したはずの彼のパロールが文字化されて出版物になるという、上っ面の事情を鑑みるとなんとも微妙な顔になる本だが、読んでいる分にはなかなか面白い。多分、フランス語ができればもっと面白いのだろう。彼の独特の表現はーー彼自身がしばしば指摘するようにーー翻訳されたものを享受するのではなく、翻訳するというまさにその動きの中で輝くものだろう。そんなことを思う。やろうやろうと言いつつ全く勉強していないフランス語、そろそろやらねば…

 その本の中に次のような一節があった。少し長いが、興味深い一節なのでまとめて引用する。

これまで私が何を書いたにせよ、一度たりとも私から離れたことがない夢があるとすれば、それは、日記の形式をとった何かを書くことなんですよ。実のところ、書きたいという私の願望は、網羅的な年代記の願望です。私の頭にひらめくものは何か。私の頭にひらめくすべてのものを保存するほど充分に速く書くには、どうしたらいいのか。メモ帳や日記を再び手に取ることもありましたが、そのたびに放棄しました。結局はあきらめたのです。今では、もう日記をつけていません。しかし、それは私の生涯の心残りです。私が書きたかったものはそれなんですから。つまり、《完全な》日記です。

デリダ(林好雄他訳)(2001)『言葉にのって』、筑摩書房、p.26

この前後で、デリダは自分のいわゆる少年時代からの読書遍歴や夢遍歴、さらに哲学の道を選ぶに至った理由などが語られていて、それはそれで面白いのだが(デリダはサッカー選手を夢見ていた頃もあるらしい。その世界線はかなり興味がある)、この引用した箇所はそれらの文脈の中でも一際興味深い一節になっている。それはデリダ自身の思想として、ではなく、たんに言っている内容として、である。

 私はこの箇所を読んだ時直ちに二人の哲学者が頭に浮かんだ。フッサールとトマス・アクィナスである。フッサールの字は独特の速記法に則って書かれていたらしく、解読できるのは本人と弟子の僅かに数名だったらしい。この速記で書かれた原稿が第二次世界大戦中に紆余曲折あったという話をどこかで読んだときにそんなことが書かれていた。また、トマスの方はおそらくもっと有名で、「読解不可能な文字(littera illegibilis)」としてその(悪?)名をほしいままにしている。二人とも思考に手が追いつかないのを嫌がって独自なスタイルにたどり着いたのだと勝手に思ったりする。

 デリダに戻る。彼がこのようなことを言っているのを読んだとき、私はすごく親近感を覚えた。私もいつもアイディアをどのように保存するか、どのように書くかを苦労しているからだ。一時期そのためだけに日本語の速記を習得しようかと思って近所でやっているところがないか調べたこともある。最近は単語とたまに自分でも繋がりがわからなくなる謎のやじるしを自由に手書きすることで間に合わせているが、方法は当然絶えず反省、改良される必要があるので難しい。

 今手書きと書いたが、この「手書き」というのは私にとっては割と重要で、パソコンやスマホで使えるアイディア管理ツール的なソフト、アプリはなかなか使いこなせない。無論、使いこなせるまで使い込んでない可能性は大いにあるが、どうも白紙にシャーペンが性に合うらしい。

 ところで、ある程度まとまった文章には一定の気圧のようなものがあり、その気圧を逸脱したの文体や内容を混入させることはうまくいけば閃光を放つが、大抵は失敗する。第一級の哲学者がド三流、全くもって見当はずれの量子力学的解釈(笑)を開陳あそばされたりされるともう目も当てられない。気圧からの逸脱がものの見事に失敗して、せっかく上昇気流に乗っていたはずの洞察が瞬く間に地に堕ちてしまう。が、ここで北方謙三という、本noteの気圧からはいささか外れた人物が言っていたことを思い出したので、あえて(?)少し書き加えておく。彼は令和6年の今になっても、原稿は全て原稿用紙に万年筆で手書きしているらしい。当然、編集者にwordなりなんなり、パソコンで書いてくれと言われたこともあるそうだが、手書きでないと小説はかけないので今でも手書きだと言っていた。いかにも頑固な昭和親父、かもしれないが、曰く「僕のこの手のペンだこが脳の小説中枢を刺激して小説を書いてるんじゃないのかな」と。さすが、北方謙三。

 ここまで哲学的思考を書く、アイディアを書く、小説を書くという3つをそれほど区別せずに繋げてきたが、これは一種のnoteの書き方特有と言えるかもしれない。私はnoteの行間、より正確にいうと段落間のつながりの緊張感が以前より少ない状態で書いている実感がある。もっとも、極めて親密な他者である自分の文章が全き他者、皆さんから見られたときにどのように映るかは判断しかねるのだが、少なくとも自分の感触としてはいい意味で脱力した文章が書けている気がする。一方、レポートや論文的な文章を書くときは少し力みすぎな自覚がある。当然ながら手書き、パソコンという表面的なところ(手書きの身体性とか言い出すと表面的ではなくなるが、まあヨシ)のみならず、さらにそれぞれの中でも種類や媒体によって微妙な差異があるということだ。

 話は戻るが、完全な日記という表現はかなり面白い。それは媒体、種類がなんであれ、確かに夢だからだ。私は何かを書いた瞬間に書かなかった何かがこぼれおち、書いたものしかそこになかったかのような感覚になるのだが、完全な日記はそれすら超越してるのだろうか。多分、しているのだろう。残念ながら、今読んでいる範囲ではデリダ自身がこの疑問にこの本で答えてくれている訳ではない。ここからは自分で妄想を広げろということだ。うむむ、もう少し考えます。

2024.7.8 不完全に

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