光の断片

光あるところには影があり、影あるところには光がある。

光とは明るさである。太陽である。あるいは月である。いずれにしても最初に闇があって次に照らすものとしての光がある、とされる。本当に?光あれ!が幻想だったとしたら?闇が影だとしたら?そして、光と影は同時に生まれるのではなく、影が先に生まれていたとしたら?

光は存在であり、存在者である。ここに存在論的差異は(今回は)無い。一方、無底の存在に光は無い、とされる。存在それ自体という底なし沼、それはもしかすると闇ではなく、影なのかもしれない。

イデア、神、啓蒙、真実の光、啓示の光、理性の光……では、真実の影、啓示の影、理性の影はどう生じているのか。en-lighten-mentに伴うen-shadow-mentにいかにして目を向ければ良いのか?もしかすると君はこう答えるかもしれない。啓蒙に影は無い、と。そんなはずは無い!それは君が光の強さに目が眩んでいるだけだ!

光の強さに慣れた目は強い影を見る。否応なく生じた影を見る。そこには光の否定があり、崩壊がある。

強すぎる光は影をも照らすことが出来るか?全てを光で満たすことは出来るか?我々が歴史から学ぶのは、あらゆる光の敗北である。それでも光の夢を見るか?

理性の光、啓蒙なる光は啓示の光の亡霊である。今も啓示の光、「神」は生きている。神は死んだが、否定というリアリティの中で今も亡霊として漂っている。これは西洋的論理とも、セム的一神教の論理とも言えるかもしれない。

殺される神、亡霊になる神、生きる神、あるいは、臨在する神。それら(あえて非人称的に書こう!我々はここで先程のような神のみを想定してはならない)はいかなる光を放っているか。

我々は常に既に世界を照らしているのか。常に既に影を作っているのか。我々は影にいかなる仕方で向き合っているか。これは他ならぬ君の、そして私の魂への問いである。

今一度存在の影について考えよう!存在するという光に照らされたから無底の存在に気付く。この光はまだ無底の存在が闇であるか影であるかを明らかにしない。改めて考える。我々は無底の存在しかない状態に嘔吐することができるかを。

やはり無底の存在は影である。無底の存在に対しては存在があってはじめて嘔吐することが出来る。あるいは、嘔吐以外にも様々な反応を起こせる。まさにその時無底の存在がそれ自体として対象化されているのは存在あってのことなのだ。

そしてこの影は強すぎる光に満たされることが出来るか?無底の存在が単なる懐疑を超え得ないならば、ここで光は影の消去に成功するだろう。

底なし沼としての懐疑。無底の存在がその底なし沼の最奥に位置する。底なし沼から救出するには、存在の光を極限まで強めるしか無いのかもしれない。

光はただ、光である。このトートロジーから無限の世界がひろがる。

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