耳を澄ませば

 しっかり聴くことはしっかり見ることよりはるかに難しい。目は閉じれるけど、耳は閉じれない。だから、聴いてる気になってしまう。ちゃんと聴けてなんかいないのに。


 最近はどうやったら自分のオカタイ書き言葉がやわらかくなるかということにこだわっている。ちなみに、今も「どうやったら」のところを無意識に「いかに」と書いていたので直した。オカタイ書き方をするのは簡単だ。漢字を増やせばいい。いや、より正確を期すならば、一文、あるいは全体における漢字の割合の増加を志向すると言うべきか。ほら、ね?こんなのは誰だってできてしまう。なにも言ってないのに、なにかを言っている感が出る。こういうのに逃げてはいけないなと思いながら、どうすればいい感じになるか、日々あれこれためしている。あ、ちなみに、「より正確」な言葉を使えることも当然大事だと思う。でも、どうせそんなのは今から(嫌でも)使うことになるから、別の書き方をためしていこう。

 書き言葉は大抵しっかり見るためものだと思う。論文とか学術書とかなんとか。でも、たとえば詩なんかは明らかにそうじゃないと思う。どう考えても、しっかり聴かなきゃいけないものだと思う。まずは自分で口に出して、音の響きを聴いてみる。リズムを聴いてみる。その次に、言葉の意味のひろがりを「聴く」。そうして、詩のこころを聴く。ここがいちばん難しい。上手く言えないけど、一度読んだだけでわかるような詩は大したものじゃないと思う。何度も聴いてわかる詩だけがほんものの詩だと思う。こんな言い方は傲慢でしょうか。まあいいことにします。


 詩だけじゃない。実は色々、聴かなければいけないものがある。それは声かもしれないし、無かもしれない。


 『きけ わだつみのこえ』という本がある。2次大戦で亡くなった青年の手記を集めた本だ。戦争の中、亡くなっていった人達の声がありありと聴こえてくる。だけど、この本には批判もある。「戦争をよく思わなかったインテリ大学生の文しか集めていない」であるとか、「なにも残さず死んでいった人に目を向けていない」であるとか。2個目の批判に対しては特に言いたいことがある。この本が無かったら、何かを残して死んでいった人たちの奥にいる、そういう「無数、そして無声の声」を聴こうということすら、私たちは思いつかなかったんじゃないか。むしろこの本に載ることの無かった声なき声に耳を澄ませることが、この本にとっても、私たちにとっても大切なことなんじゃないか。

 2次大戦に関連して言うと、最近は獄死者たちの声も聴こうとしている。パッと挙げるなら、尹東柱と三木清。一人は詩人、もう一人は哲学者。これについてはまだまだまとまってないから、今はあまり書くことはできない。でも、ここまでくると、聴くことは想像すること、そして祈ることに近づいていく。なにを思い、なにを抱えていったか。夭折、不条理なんて言葉で済ませるのはあまりにも容易く、そして、あまりにも情けない。その程度ではいけない。あくまでも聴こう。どこまでも聴こう。そのあり方は、ほとんど祈りかもしれない。


 耳を澄まさないから暴力が生まれるのかもしれない。
 聴く。まずは、ここから。

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