岳人、加藤文太郎──あるいは世俗的孤高

 『孤高の人』という、新田次郎の書いた小説がある。いわゆる山岳系小説で、加藤文太郎という実在の人物をモデルとした小説である。この小説、色々面白かったので、少し感想をば(以下ネタバレ注意)。

 主人公である加藤文太郎は兵庫と鳥取のほぼ県境に位置する田舎町、兵庫の浜坂の生まれである。物語は文太郎が成長し、神戸の造船所の製図工見習いとして日々を過ごすことから始まる。造船所の友人から山歩きの仕方を教えてもらったことをきっかけに、文太郎は一気に山にのめり込むようになる。はじめ六甲山系を、次いで日本アルプスの山々を、という具合に信じられないスピードで次々と、しかも「一人」で制覇していく。いつしか人は彼を「単独行の文太郎」と呼ぶようになっていく。そんな文太郎は、いついかなる時も単独行を貫いた。しかし、紆余曲折あり、生涯に一度だけパーティで山に挑んだ。そしてそれが彼の生涯最後の登山となった。彼は槍ヶ岳の難所、冬の北鎌尾根に消える……

 これがざっくりとしたあらすじである。まず面白かったのが、(この小説のあらすじを書くとどうしても山ばかり出てくるが)かなりの部分彼の日常が描かれている点である。それらはあまりに単純で平凡な日常で、出てくる人物もまた平凡だ。文太郎を理解する上司、あるいは敬遠する上司、またあるいは不思議ちゃん扱いする友人らがいる。そして、文太郎と分かりやすく運命的な出会いをする女性がいる。どこを取っても大人物はいない。平凡で、俗事に溢れている。そして、作者の描き方もまた平凡である。美を言葉で表現し切ろうというような大それた気概も感じられなければ、雄大なストーリーを仕上げようという意図もみられない。ただ淡々と、どこかで見たことがあるようなお決まりの筋書きに従って進んでいく。

 私は、この小説の魅力はここにこそ詰まっていると言って良いと思う。作者は平凡なことを平凡に描くのが極めて上手い。この小説は大正末期から昭和初期を舞台としているが、その時代設定を全く感じさせないほど、登場人物たちの平凡な日々、心の動きをすんなりと受け止めてページをめくることが出来るのだ。

 だが、そのような時代設定を無視できるという美質と同時に、要所要所で上手く時代背景を持ってくることで、文太郎の置かれた時代を意識させる構図になっていることも重要であると思う。文太郎の時代、山はまだ万人に開かれていなかった。貴族の遊びとしてヨーロッパから入ってきた「山登り」は、当時の日本にあっては大学山岳部と富裕層、すなわち特権階級の占有物と言ってよかった。そんな中、一介の製図工がどこの山岳会にも属さず(当時はどこかしらの山岳会に属するのがいわゆる山の常識だったらしい)、一人で登頂記録を積み上げていく。ここに文太郎の実存的意識と周囲からのレッテルとのズレが発生するのも面白かった。文太郎は本人にもなぜか分からないが、山にのめり込んでいるだけである。一方、周囲はそんな文太郎を「あえて無所属を貫く変人」と見なすようになる。これは時代的背景を踏まえないと起こりえないズレである。このような点をサラリと描くのも面白さを感じた。


 このズレに関してはもう少し書きたいことがある。私は哲学を専攻しているからか、このような文太郎を幾人かの哲学者に重ねずにはいられなかった。山岳会──内部の些細な業績を喜ぶアカデミア/文太郎──同時代人からは白眼視されていた後の大哲学者、のような、これまたお決まりの構図である。このように文脈を飛び越えて想像をふくらませられるのもこの本の魅力だろうと思う。それを許してくれる寛大さがある。

 そして、私は何よりも自身を文太郎に重ね合わせる場面が多かったことが、この本の面白さにつながっているだろう。なんやそんなもんか、と思われたかもしれないが、結局、小説なんてそんなもんなのである。力を抜いて楽しむにはこれが一番良い。


 改めて、この小説は孤高の岳人加藤文太郎という偉大な像を打ち立てるのではなく、彼も一面世俗的であり、人間関係の有象無象に悩まされる一個の人間だったということを描き切ったことが面白かった。我々も彼のように世俗的に、そして同時に孤高の「山」をもって一歩一歩歩みを進めることが求められているのかもしれない。

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